ラヴレター再び。@追憶のバルセロナ
2002年6月3日 タカラヅカ『追憶のバルセロナ』って……どうよ?
はじめに宣言すると、わたしは正塚先生のファンだ。
ヅカの演出家の中で、いちばん好きだ。
それは、彼が美しい方程式を持っているからだ。
わたしはあと、荻田先生と斎藤先生のファンなのだけれど。
ある意味では、正塚氏よりも、このふたりの方が好きだったり、評価していたりもするんだけど、総合力ではやはり、正塚氏に軍配をあげてしまう。
荻田せんせーは、天才型の才能を持つ人だと思っている。だからこそ、その感性はとんでもない方向へ突っ走りがちだ。観客は置き去り。
オギーが地に足をつけ、他者を自分の世界に受け入れることではじめて、彼の作品は正しく昇華される。
斎藤せんせーは、ぶっちぎりの俗っぽさと萌えを持つ作家。その偏った情熱は評価に値するが、なんといってもまだ技術が伴わない。
その点、正塚は「仕事」のできる人だ。俗であることを潔しとしなくても、俗であることを受け入れた作品を、あえて創ることの出来る人。
大衆に歩み寄りながら、自分の世界を構築する。
クリエイターってのは放っておくとすぐ、自分の世界へ入っちゃうからねえ。客観性と大衆性を失ったら、だめだよ。エンターテイメントである以上はね。
タカラヅカのもつ、ベタな大衆性からは離れているため、正塚芝居は「異質」な感を放つ。
でもちゃんとタカラヅカしてるよ。タカラヅカである、という前提の上で、自分の世界を展開しているんだから。
わたしはそれを、とても高く評価していた。
美しい方程式。
ヅカだから、ヅカでしかできないことを、ヅカであることをふまえて、それでもヅカの描かないものを描く。
正塚晴彦マンセー。
だからこそ。
『追憶のバルセロナ』って、どうよ?
最初に観たときも、ものすごーく気になったんだけど。
この芝居ってさ、クライマックスどこよ?
いちばん、どこが盛り上がるの?
それまでの展開に多少無理があろうと、キャラクターに感情移入できなかろうと、たるくて眠かろうと、この1場面、ここがある限り、そんなもんは吹っ飛ばしてくれるわ、てな、いわば最終兵器、切り札、必殺技。
クライマックスってのは、そういうもんだろ?
がつんとかまして、観客の度肝を抜け。カタルシスに酔わせろ。
もちろん、クライマックスには2通りある。
精神面でのクライマックスと、出来事としてのクライマックス。
エンタメで短編なら、このふたつは同じであるのが好ましい。だって両方やってる時間がないからね。短い時間で両方べつにやるには、テクニックが必要。
この作品で首を傾げるのは、そのクライマックスが、あまりにも平坦かつ散漫であるということだ。
ふつー、プロットの段階で考えることだよね?
クライマックスをどこに設定して、どうやってそこにつなげていくか。ストーリーとは、クライマックスをいかに盛り上げるかの、下準備。点火された導火線。どかんと一発、でかい花火を打ち上げるための。
それは計算だ。最大の効果を考えて、エピソードを構成する。緻密な計算があってこそ、カタルシスは光臨する。
この作品の「出来事」の上でのクライマックスってのは、アントニオの公開処刑と、黒い旋風の襲撃、ここだよね?
なのにどーしてここ、こんなにつまんないの?
いちばん盛り上がってしかるべきところが、盛り上がらない。何故だ。
非道な公開処刑、あからさまな罠、それを知っていてなお立ち向かっていく主人公。
蟻の子一匹入る隙のない警備をどうやって崩し、アントニオたちを救出するのか。仲間たちの団結、勇気、そして高まる緊張、盛り上がるサスペンス。
の、はずよね。本来は。
ちっとも緊張しません。
だってコメディになってるんだもん。
まぬけなフランス軍の密偵をひとり、脅して踊らせただけで、作戦完了。
なーんだ、こんなことでなんとかなっちゃうよーな、そんななんでもないことなんだ。
この調子で行けば、フランスを滅ぼす日も近いなっ。
とゆー、嘘くささ。くだらなさ。
自分でクライマックスを叩きつぶすよーな演出してどーするよっ?!
作戦の困難さを打ち出さないと、成功のすごさもよろこびも地に落ちるでしょー??
幼稚園児にケンカで勝ってうれしい? 強大なライバルを、努力して自分の力で打ち勝つんでもなきゃ、よろこびにはならんでしょう。
敵をただの愚か者にすることで、主人公グループを強く見せるなんて、ひどいよ。
どうしてこんなことをしちゃうのよ〜〜! じたばた。
くやしいわ。こういう安直さが。
もいちどプロットを、あの襲撃シーンを中心に組み直して。懇願。
卑怯な罠を、緻密な準備と作戦、大胆な行動と勇気で打ち破って。敵はバカでもまぬけでもないの。強大で狡猾なのよ。それに勝利するために、真摯に走る様を見せて。
もちろん、小難しい戦略をくどくど説明しろと言ってるわけじゃない。「緻密で困難な作戦」をみんなで一丸となって実行しているのだということを、想像させてくれればいいんだから。情報を集め、仲間を潜伏させ、人々の意識を掌握し。簡単じゃないからこそ、それをする彼らの強さを見せて。
そうすれば、作戦成功後の、仲間たちに演説一発決めるフランシスコにも、説得力が増すよ。これだけのことを指揮したんだから、そりゃあんたは演説かますでしょう、と。
精神面でのクライマックスだって、この出来事に集約できる。
危険な作戦、生命の危機。それでもやるのだと。
そのなかで、フランシスコとイサベルは互いの気持ちを確かめ合う。明日、死ぬかもしれない。だからこそ。
って、よくあるパターンだが、出来事と精神面のクライマックスを一致させるには、これがいちばんだからなー。
ひとの心なんて、なんかよっぽどのことがないと、動きませんて。動いていたって、それに気づくにはきっかけがいる。現実にはいらなくても、物語である以上、目に見える形でなにか必要だからねえ。
ここでふたり気持ちを向き合わせることができれば、ラストのあの、唐突でのーてんきな、ふたりのラヴラヴデュエットのシーンはいらなくなるしな。
まあ、ラストまであえて主人公カップルを結びつけたくないっちゅーなら、それはそれでもかまわんが。
だが、襲撃シーンだけは、きちんと盛り上げてくれ。
ばたばたみんなで走り回って、なにやってんだかさっぱりわからないままに、マヤさんが笑い取って終わり、なんて、それクライマックスとして機能しねーよ。
罠なんじゃなかったの? 困難なんじゃなかったの?
ものすごく、つまらないただのドタバタになってますけど?
まあねえ。黒い旋風のあたりからすでに、ドタバタ劇だったんだけど。
黒い旋風って、具体的になにやってたの? 遊んでいるよーにしか見えません……。
フランス兵を襲って、人殺しをつづけてたの? それって戦略的にはどうなってるの? フランス人全部殺したら、スペインから追い出したことになるの?
たとえば基地を襲って食料や武器を奪ったとか、政治犯を奪還したとか、動きがわかればよかったんだけど。
コメディ的にチャンバラだけされても、彼らが偉大なのも民衆の支持を集めているのも理解できない。
フランシスコは誇りだ誇りだと言ってるけど、その誇りのために具体的になにをしているのか、教えてください。
コメディが悪いと言っているわけじゃない。
ただ、笑いに逃げないで。
描くのが難しい部分を、役者に滑稽なことをさせて客を笑わせ、それで煙に巻かないで。
今回の芝居の過剰な笑いの部分は、脚本で描くことのできない部分の煙幕だ。
マヤさんの役は、あそこまでギャグメーカーにする必要があったのか? かしげの部下で、その個性で異彩を放つ、それだけでも十分だろう。
作品の不備をすべてマヤさんの個人技にまかせてしまうなんてのは、力業が過ぎる。
はー。
正塚作品でなきゃ、こんなことわざわざ言わないんだけどなあ。
なんか最近の正塚作品、レベルが落ちてるんだもん。なんで?
『Practical Joke』もそうだったけど、ストーリーのいびつさを、安直に誤魔化している。
ほーら、マミさんかっこいいだろ、だから他のことは言及するなよ。
『追憶の…』も、ラスト、あれはなんだい? いきなりラヴラヴになった主役2人がかわいらしく明るく歌い踊ってEND。
ほーら、見たかったろ、ブン&まひるのラヴラヴしあわせデュエットだよー、だから他のことは大目に見てくれよな。
……誤魔化されるよ。わたしもヅカファンだからな(笑)。マミさんかっこよかったらうれしいし、ブンちゃんまひるちゃんがハッピーエンドもうれしいさ。
でもな。
誤魔化される自分もくやしいが(笑)、そんな誤魔化しを通してしまう正塚せんせーのことも、くやしいぞ。
もどってきてくれ、正塚晴彦。あなたはそんなレベルの作家じゃないはずだ。
人間、いつもすんばらしー名作ばかりを作れるはずがない。不調なときもあるだろうさ。
だからまだまだわたしは、正塚作品を愛し、新たな出会いに期待しつづけるよ。
って、なによー、この長文。
他に書きたいこといろいろあったのに。
正塚先生へのラヴレターで終わりかいっ。
はじめに宣言すると、わたしは正塚先生のファンだ。
ヅカの演出家の中で、いちばん好きだ。
それは、彼が美しい方程式を持っているからだ。
わたしはあと、荻田先生と斎藤先生のファンなのだけれど。
ある意味では、正塚氏よりも、このふたりの方が好きだったり、評価していたりもするんだけど、総合力ではやはり、正塚氏に軍配をあげてしまう。
荻田せんせーは、天才型の才能を持つ人だと思っている。だからこそ、その感性はとんでもない方向へ突っ走りがちだ。観客は置き去り。
オギーが地に足をつけ、他者を自分の世界に受け入れることではじめて、彼の作品は正しく昇華される。
斎藤せんせーは、ぶっちぎりの俗っぽさと萌えを持つ作家。その偏った情熱は評価に値するが、なんといってもまだ技術が伴わない。
その点、正塚は「仕事」のできる人だ。俗であることを潔しとしなくても、俗であることを受け入れた作品を、あえて創ることの出来る人。
大衆に歩み寄りながら、自分の世界を構築する。
クリエイターってのは放っておくとすぐ、自分の世界へ入っちゃうからねえ。客観性と大衆性を失ったら、だめだよ。エンターテイメントである以上はね。
タカラヅカのもつ、ベタな大衆性からは離れているため、正塚芝居は「異質」な感を放つ。
でもちゃんとタカラヅカしてるよ。タカラヅカである、という前提の上で、自分の世界を展開しているんだから。
わたしはそれを、とても高く評価していた。
美しい方程式。
ヅカだから、ヅカでしかできないことを、ヅカであることをふまえて、それでもヅカの描かないものを描く。
正塚晴彦マンセー。
だからこそ。
『追憶のバルセロナ』って、どうよ?
最初に観たときも、ものすごーく気になったんだけど。
この芝居ってさ、クライマックスどこよ?
いちばん、どこが盛り上がるの?
それまでの展開に多少無理があろうと、キャラクターに感情移入できなかろうと、たるくて眠かろうと、この1場面、ここがある限り、そんなもんは吹っ飛ばしてくれるわ、てな、いわば最終兵器、切り札、必殺技。
クライマックスってのは、そういうもんだろ?
がつんとかまして、観客の度肝を抜け。カタルシスに酔わせろ。
もちろん、クライマックスには2通りある。
精神面でのクライマックスと、出来事としてのクライマックス。
エンタメで短編なら、このふたつは同じであるのが好ましい。だって両方やってる時間がないからね。短い時間で両方べつにやるには、テクニックが必要。
この作品で首を傾げるのは、そのクライマックスが、あまりにも平坦かつ散漫であるということだ。
ふつー、プロットの段階で考えることだよね?
クライマックスをどこに設定して、どうやってそこにつなげていくか。ストーリーとは、クライマックスをいかに盛り上げるかの、下準備。点火された導火線。どかんと一発、でかい花火を打ち上げるための。
それは計算だ。最大の効果を考えて、エピソードを構成する。緻密な計算があってこそ、カタルシスは光臨する。
この作品の「出来事」の上でのクライマックスってのは、アントニオの公開処刑と、黒い旋風の襲撃、ここだよね?
なのにどーしてここ、こんなにつまんないの?
いちばん盛り上がってしかるべきところが、盛り上がらない。何故だ。
非道な公開処刑、あからさまな罠、それを知っていてなお立ち向かっていく主人公。
蟻の子一匹入る隙のない警備をどうやって崩し、アントニオたちを救出するのか。仲間たちの団結、勇気、そして高まる緊張、盛り上がるサスペンス。
の、はずよね。本来は。
ちっとも緊張しません。
だってコメディになってるんだもん。
まぬけなフランス軍の密偵をひとり、脅して踊らせただけで、作戦完了。
なーんだ、こんなことでなんとかなっちゃうよーな、そんななんでもないことなんだ。
この調子で行けば、フランスを滅ぼす日も近いなっ。
とゆー、嘘くささ。くだらなさ。
自分でクライマックスを叩きつぶすよーな演出してどーするよっ?!
作戦の困難さを打ち出さないと、成功のすごさもよろこびも地に落ちるでしょー??
幼稚園児にケンカで勝ってうれしい? 強大なライバルを、努力して自分の力で打ち勝つんでもなきゃ、よろこびにはならんでしょう。
敵をただの愚か者にすることで、主人公グループを強く見せるなんて、ひどいよ。
どうしてこんなことをしちゃうのよ〜〜! じたばた。
くやしいわ。こういう安直さが。
もいちどプロットを、あの襲撃シーンを中心に組み直して。懇願。
卑怯な罠を、緻密な準備と作戦、大胆な行動と勇気で打ち破って。敵はバカでもまぬけでもないの。強大で狡猾なのよ。それに勝利するために、真摯に走る様を見せて。
もちろん、小難しい戦略をくどくど説明しろと言ってるわけじゃない。「緻密で困難な作戦」をみんなで一丸となって実行しているのだということを、想像させてくれればいいんだから。情報を集め、仲間を潜伏させ、人々の意識を掌握し。簡単じゃないからこそ、それをする彼らの強さを見せて。
そうすれば、作戦成功後の、仲間たちに演説一発決めるフランシスコにも、説得力が増すよ。これだけのことを指揮したんだから、そりゃあんたは演説かますでしょう、と。
精神面でのクライマックスだって、この出来事に集約できる。
危険な作戦、生命の危機。それでもやるのだと。
そのなかで、フランシスコとイサベルは互いの気持ちを確かめ合う。明日、死ぬかもしれない。だからこそ。
って、よくあるパターンだが、出来事と精神面のクライマックスを一致させるには、これがいちばんだからなー。
ひとの心なんて、なんかよっぽどのことがないと、動きませんて。動いていたって、それに気づくにはきっかけがいる。現実にはいらなくても、物語である以上、目に見える形でなにか必要だからねえ。
ここでふたり気持ちを向き合わせることができれば、ラストのあの、唐突でのーてんきな、ふたりのラヴラヴデュエットのシーンはいらなくなるしな。
まあ、ラストまであえて主人公カップルを結びつけたくないっちゅーなら、それはそれでもかまわんが。
だが、襲撃シーンだけは、きちんと盛り上げてくれ。
ばたばたみんなで走り回って、なにやってんだかさっぱりわからないままに、マヤさんが笑い取って終わり、なんて、それクライマックスとして機能しねーよ。
罠なんじゃなかったの? 困難なんじゃなかったの?
ものすごく、つまらないただのドタバタになってますけど?
まあねえ。黒い旋風のあたりからすでに、ドタバタ劇だったんだけど。
黒い旋風って、具体的になにやってたの? 遊んでいるよーにしか見えません……。
フランス兵を襲って、人殺しをつづけてたの? それって戦略的にはどうなってるの? フランス人全部殺したら、スペインから追い出したことになるの?
たとえば基地を襲って食料や武器を奪ったとか、政治犯を奪還したとか、動きがわかればよかったんだけど。
コメディ的にチャンバラだけされても、彼らが偉大なのも民衆の支持を集めているのも理解できない。
フランシスコは誇りだ誇りだと言ってるけど、その誇りのために具体的になにをしているのか、教えてください。
コメディが悪いと言っているわけじゃない。
ただ、笑いに逃げないで。
描くのが難しい部分を、役者に滑稽なことをさせて客を笑わせ、それで煙に巻かないで。
今回の芝居の過剰な笑いの部分は、脚本で描くことのできない部分の煙幕だ。
マヤさんの役は、あそこまでギャグメーカーにする必要があったのか? かしげの部下で、その個性で異彩を放つ、それだけでも十分だろう。
作品の不備をすべてマヤさんの個人技にまかせてしまうなんてのは、力業が過ぎる。
はー。
正塚作品でなきゃ、こんなことわざわざ言わないんだけどなあ。
なんか最近の正塚作品、レベルが落ちてるんだもん。なんで?
『Practical Joke』もそうだったけど、ストーリーのいびつさを、安直に誤魔化している。
ほーら、マミさんかっこいいだろ、だから他のことは言及するなよ。
『追憶の…』も、ラスト、あれはなんだい? いきなりラヴラヴになった主役2人がかわいらしく明るく歌い踊ってEND。
ほーら、見たかったろ、ブン&まひるのラヴラヴしあわせデュエットだよー、だから他のことは大目に見てくれよな。
……誤魔化されるよ。わたしもヅカファンだからな(笑)。マミさんかっこよかったらうれしいし、ブンちゃんまひるちゃんがハッピーエンドもうれしいさ。
でもな。
誤魔化される自分もくやしいが(笑)、そんな誤魔化しを通してしまう正塚せんせーのことも、くやしいぞ。
もどってきてくれ、正塚晴彦。あなたはそんなレベルの作家じゃないはずだ。
人間、いつもすんばらしー名作ばかりを作れるはずがない。不調なときもあるだろうさ。
だからまだまだわたしは、正塚作品を愛し、新たな出会いに期待しつづけるよ。
って、なによー、この長文。
他に書きたいこといろいろあったのに。
正塚先生へのラヴレターで終わりかいっ。
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