必然の物語。@二人だけの戦場
2002年6月22日 タカラヅカ さあ、『二戦』の話をしよう。
わたしが正塚晴彦と最初に出会ったのが、この『二人だけの戦場』だ。
トドロキ目当てで観に行った。思えば、わたしのくじ運はこのときが最高、これ以上のものはなかったな。最前列センターで千秋楽を含めた複数回の観劇。トド様の美貌が目の前で、いたたまれないほどの至福を感じたっけ。
わたしは『二戦』が好きだ。
これほど衝撃を受けた作品は少ない。
たぶんわたしは、タカラヅカを軽く見ていた。
ヅカの持つ特殊性を愛し、それゆえに「あきらめていた」。所詮ヅカはヅカだって。
それが、くつがえされた。
これ、ほんとにタカラヅカ?
もちろん、タカラヅカだ。タカラヅカでしかありえない作品だ。だが、タカラヅカである以上の可能性を見せてくれた。
わかりにくい、というのがいちばん前にあるな。
油断して見ていたら、わからない、置いていかれることがある。
でもそれさえ突破してしまえば、すごくたのしい作品だぞ。
わたし、なんだかんだいってもプロットの緻密な作品が好きなのね。
キャラ萌えもするけどさ、まず第一にプロット。
キャラ優先ストーリー破綻型の作品より、地味でも計算された作品が好き。
『二戦』って、プロット緻密だよね。正塚作品の中でも、いちばんじゃない?
三重構造なのはすぐにわかるとしても、この三重が、うまく機能しているの。
きれいな計算式。
まず、「現在」のシンクレアが、作家に過去を語る、というパート。これは最後の仕掛け。
次に、「裁判」パート。これは「物語」を盛り上げるための道具。
そして、「過去」。これがメイン・ストーリー。
べつに、「過去」パートだけでもいいんだよね。士官学校卒業シーンからはじめたって。彼らに派手に歌い踊らせりゃあ、プロローグを兼ねられるでしょう。
そして時系列に沿ってすすむ。最後だけ「現在」パートを入れて、年を取ったふたりの再会、で終わらせるのはぜんぜんOK。
ふつうはこうでしょう。
そこに、「裁判」パートをからませている。
そのせいでややこしくなっているけれど、わたしはこの手法が好き。
ミステリなんかではよく使われている手法だよね。
事実の断片を提示することによって、謎を深める。
まず、「すべては徒労だったのかもしれない」と「現在」パートのシンクレアの独白。ネガティヴ。
そのうえ軍事法廷。裁かれる罪は「上官殺害」。軍隊において、最大級の罪のひとつ。
いったいなにがあったのか?
と、問題提起。
なのに舞台はうってかわって、クソ明るい卒業式。希望と理想に燃えた青年士官。
「過去」と「裁判」が交互に描かれることによって、謎が深まる。
いったいなにがあって、シンクレアは犯罪者となったのか。
シンクレアの青春が生き生きとしているだけに、裁判の暗く硬質な雰囲気が異様。明確なコントラスト。
とても愉快で魅力的な司令官、ハウザー大佐登場と、その直後の裁判シーンが好き。
「おいおいおっさん、大丈夫か」てな、とびきり愉快なハウザー。陽気でおちゃめ、だけど真剣に人間を信じ、手を取り合えるはずだと思っている人。
ああ、いいなあ、このおじさん。「信じ合えばわかりあえる」……そんな理想を本気で信じ、そのために努力のできる人。
思い切り笑って、ほっこりしたその直後。
「裁判」パートでばっさりやられる。
「ハウザー大佐は軍籍を剥奪」……なんでぇ?!
あの愉快なおじさんが、魅力的な男性が、なにもかも失ってしまっているの?
いったい、なにが起こったの。
うまいよなあ。
ここでこれを入れるかあ。
「裁判」パートは、物語を盛り上げるための付加部分だから、なくてもいいものなのね。
それによって謎が深まっているけど、同時に、ややこしくうざくなっている。無用だと思う箇所もある。
だけど。
やはり、この作品には「裁判」パートが必要だったと思う。
ただの恋愛終始ものでなくすために。
「過去」パートだけだったら、おぼっちゃまシンクレアくんの、恋愛事情だけで終始するおそれがあった。
異民族の娘に惚れたがために、上官を殺した男になってしまうかもしれなかった。
「裁判」という、硬質なベルトで、やわらかなタカラヅカ・カラーを引き締めた。
そのことによって、シンクレアの恋がよりあざやかに浮かびあがる。
彼は、異民族の娘に恋をした。
それは何故か。
彼は、上官を殺害した。
それは何故か。
すべてが必然だった。
そこは多民族国家。中枢民族であり政権を持つ勢力の中に、彼は生まれた。軍人の家庭に生まれ、軍人に抱かれて育つ。愛国心と理想心。
国をよくしたいと、彼は考えていた。だからこそ、異民族を理解したい、手を取り合いたいと思っていた。
みんなが、しあわせであるようにと。
そんな彼だから、異民族の美しい少女に惹かれた。
異民族への親愛がなければ、そんな気持ちは最初から生まれない。
士官学校を卒業した彼は、もっとも民族間の軋轢の激しい地へ、志願して赴任する。
異民族と理解しあいたい。そう思っている彼が、赴任先で少女と再会したならば、恋に堕ちるのは当然のことだ。
民族が異なっても、街の人々はやさしいし、花は美しい。空は美しい。歌は歌えるし、ダンスも踊れる。
同じでしょう? みんなただ、しあわせになりたいと思っている。
少女と、街の人々。少女への気持ちと、異民族への気持ち。
どちらが先ではなく、一体となって盛り上がっていく。
彼は少女を愛する。異民族を理解したいと思う。
必然だ。
彼が彼だから、そうなった。
恋愛も政治的な事件も、同じことなんだ。
どちらかを描いても、意味がない。
シンクレアはシンクレアだから、そこにたどりついた。
恋と軍人であること、どちらが欠けてもダメだ。
だから「裁判」パートは必要だった。
流れゆく時間の中で、「ここ」にいること。
歴史の濁流の中で、ささやかだけどたしかに今、「ここ」にいること。
その、一瞬のきらめきに似た恋の絶唱が、はかなくも美しい。
これがふつーのタカラヅカなら、まちがいなく「裁判」パートはなかったね。
恋愛事情さえ描ければ、それでいいのがタカラヅカ。それでいいのに、恋愛事情さえ描けていない作品が多いという、なさけないタカラヅカ。
なのにあえて、「裁判」パートを描いた正塚に乾杯。
わたしはそれまで、「あきらめていた」よ。タカラヅカをね。
好きだから、あきらめていた。そーゆーもんなんだと。
ああだけどごめん、謝るよ。
タカラヅカにだって、できるんじゃん、こんなことが!
プロットの美しさだけでなく、場面構成も美しい。派手なセットやスパンコール衣装だけが美しさじゃない。
端正であること。余分なモノがないという、美しさ。
それらも総合して、とてもすばらしい作品だった。
以来、正塚ファンだ。
未だ『二戦』以上の作品にめぐりあっていないけれど、いいんだそれは。
これを創った作家だもの。
わたしはずっと好きでいるよ。
わたしが正塚晴彦と最初に出会ったのが、この『二人だけの戦場』だ。
トドロキ目当てで観に行った。思えば、わたしのくじ運はこのときが最高、これ以上のものはなかったな。最前列センターで千秋楽を含めた複数回の観劇。トド様の美貌が目の前で、いたたまれないほどの至福を感じたっけ。
わたしは『二戦』が好きだ。
これほど衝撃を受けた作品は少ない。
たぶんわたしは、タカラヅカを軽く見ていた。
ヅカの持つ特殊性を愛し、それゆえに「あきらめていた」。所詮ヅカはヅカだって。
それが、くつがえされた。
これ、ほんとにタカラヅカ?
もちろん、タカラヅカだ。タカラヅカでしかありえない作品だ。だが、タカラヅカである以上の可能性を見せてくれた。
わかりにくい、というのがいちばん前にあるな。
油断して見ていたら、わからない、置いていかれることがある。
でもそれさえ突破してしまえば、すごくたのしい作品だぞ。
わたし、なんだかんだいってもプロットの緻密な作品が好きなのね。
キャラ萌えもするけどさ、まず第一にプロット。
キャラ優先ストーリー破綻型の作品より、地味でも計算された作品が好き。
『二戦』って、プロット緻密だよね。正塚作品の中でも、いちばんじゃない?
三重構造なのはすぐにわかるとしても、この三重が、うまく機能しているの。
きれいな計算式。
まず、「現在」のシンクレアが、作家に過去を語る、というパート。これは最後の仕掛け。
次に、「裁判」パート。これは「物語」を盛り上げるための道具。
そして、「過去」。これがメイン・ストーリー。
べつに、「過去」パートだけでもいいんだよね。士官学校卒業シーンからはじめたって。彼らに派手に歌い踊らせりゃあ、プロローグを兼ねられるでしょう。
そして時系列に沿ってすすむ。最後だけ「現在」パートを入れて、年を取ったふたりの再会、で終わらせるのはぜんぜんOK。
ふつうはこうでしょう。
そこに、「裁判」パートをからませている。
そのせいでややこしくなっているけれど、わたしはこの手法が好き。
ミステリなんかではよく使われている手法だよね。
事実の断片を提示することによって、謎を深める。
まず、「すべては徒労だったのかもしれない」と「現在」パートのシンクレアの独白。ネガティヴ。
そのうえ軍事法廷。裁かれる罪は「上官殺害」。軍隊において、最大級の罪のひとつ。
いったいなにがあったのか?
と、問題提起。
なのに舞台はうってかわって、クソ明るい卒業式。希望と理想に燃えた青年士官。
「過去」と「裁判」が交互に描かれることによって、謎が深まる。
いったいなにがあって、シンクレアは犯罪者となったのか。
シンクレアの青春が生き生きとしているだけに、裁判の暗く硬質な雰囲気が異様。明確なコントラスト。
とても愉快で魅力的な司令官、ハウザー大佐登場と、その直後の裁判シーンが好き。
「おいおいおっさん、大丈夫か」てな、とびきり愉快なハウザー。陽気でおちゃめ、だけど真剣に人間を信じ、手を取り合えるはずだと思っている人。
ああ、いいなあ、このおじさん。「信じ合えばわかりあえる」……そんな理想を本気で信じ、そのために努力のできる人。
思い切り笑って、ほっこりしたその直後。
「裁判」パートでばっさりやられる。
「ハウザー大佐は軍籍を剥奪」……なんでぇ?!
あの愉快なおじさんが、魅力的な男性が、なにもかも失ってしまっているの?
いったい、なにが起こったの。
うまいよなあ。
ここでこれを入れるかあ。
「裁判」パートは、物語を盛り上げるための付加部分だから、なくてもいいものなのね。
それによって謎が深まっているけど、同時に、ややこしくうざくなっている。無用だと思う箇所もある。
だけど。
やはり、この作品には「裁判」パートが必要だったと思う。
ただの恋愛終始ものでなくすために。
「過去」パートだけだったら、おぼっちゃまシンクレアくんの、恋愛事情だけで終始するおそれがあった。
異民族の娘に惚れたがために、上官を殺した男になってしまうかもしれなかった。
「裁判」という、硬質なベルトで、やわらかなタカラヅカ・カラーを引き締めた。
そのことによって、シンクレアの恋がよりあざやかに浮かびあがる。
彼は、異民族の娘に恋をした。
それは何故か。
彼は、上官を殺害した。
それは何故か。
すべてが必然だった。
そこは多民族国家。中枢民族であり政権を持つ勢力の中に、彼は生まれた。軍人の家庭に生まれ、軍人に抱かれて育つ。愛国心と理想心。
国をよくしたいと、彼は考えていた。だからこそ、異民族を理解したい、手を取り合いたいと思っていた。
みんなが、しあわせであるようにと。
そんな彼だから、異民族の美しい少女に惹かれた。
異民族への親愛がなければ、そんな気持ちは最初から生まれない。
士官学校を卒業した彼は、もっとも民族間の軋轢の激しい地へ、志願して赴任する。
異民族と理解しあいたい。そう思っている彼が、赴任先で少女と再会したならば、恋に堕ちるのは当然のことだ。
民族が異なっても、街の人々はやさしいし、花は美しい。空は美しい。歌は歌えるし、ダンスも踊れる。
同じでしょう? みんなただ、しあわせになりたいと思っている。
少女と、街の人々。少女への気持ちと、異民族への気持ち。
どちらが先ではなく、一体となって盛り上がっていく。
彼は少女を愛する。異民族を理解したいと思う。
必然だ。
彼が彼だから、そうなった。
恋愛も政治的な事件も、同じことなんだ。
どちらかを描いても、意味がない。
シンクレアはシンクレアだから、そこにたどりついた。
恋と軍人であること、どちらが欠けてもダメだ。
だから「裁判」パートは必要だった。
流れゆく時間の中で、「ここ」にいること。
歴史の濁流の中で、ささやかだけどたしかに今、「ここ」にいること。
その、一瞬のきらめきに似た恋の絶唱が、はかなくも美しい。
これがふつーのタカラヅカなら、まちがいなく「裁判」パートはなかったね。
恋愛事情さえ描ければ、それでいいのがタカラヅカ。それでいいのに、恋愛事情さえ描けていない作品が多いという、なさけないタカラヅカ。
なのにあえて、「裁判」パートを描いた正塚に乾杯。
わたしはそれまで、「あきらめていた」よ。タカラヅカをね。
好きだから、あきらめていた。そーゆーもんなんだと。
ああだけどごめん、謝るよ。
タカラヅカにだって、できるんじゃん、こんなことが!
プロットの美しさだけでなく、場面構成も美しい。派手なセットやスパンコール衣装だけが美しさじゃない。
端正であること。余分なモノがないという、美しさ。
それらも総合して、とてもすばらしい作品だった。
以来、正塚ファンだ。
未だ『二戦』以上の作品にめぐりあっていないけれど、いいんだそれは。
これを創った作家だもの。
わたしはずっと好きでいるよ。
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