またしても、うっかり寝ていない。
 いかんね、寝不足で観ちゃったら。

 せっかくの前補助センター席だっつーに。
 襲い来る睡魔と戦うのに必死。

 でも……。
 眠くなるよね、第1幕?

 花組バウホール公演『月の燈影』。

 友人から「近年まれにみるバウでのサバキ嵐」と報告を受けていたが、わたしが見た限りではそれほどでもなかったよ。
 需要と供給が釣り合ってる感じだった。

 全体として、よいお話でした。
 なるほど、地味に骨太な印象。
 プロット破綻してないし、ちゃんとキャストに合った役をさせているし。

 しかし。

 わたしはだめだなあ。

 局地的な萌えはあるんだが、全体として評価できないんだもんよ。
 それは作品の質とはべつの部分。

 なんでこれ、タカラヅカで上演してんだろう?

 この疑問がずーーーっと頭の中にあった。
 梅コマでいいんやないの? 高橋*樹とか北島*郎とかでいいんやないの?

 なんか、根本的な疑問なのよ。

 さすがに北島*郎とかなら、演出はもっとベタにせにゃならんだろーが、ふつーに外部の年配の人向けの興行ができる内容だと思ったの。
 つまりそれって、ヅカである意味ないじゃん。

 タカラヅカってなんなんだろーなぁ、と、和服の着こなしのなってない下級生男役の立ち回りや群舞を見ながらぼーっと考えた。
 カタチができていない和モノって、きっついなー。男役たちに「お嬢ちゃん」が透けて見えると、萎えるのだわ。
 なまじ、作品が梅コマ系なだけに、下級生の技術不足が目に付く。
 これ、ほんとの男の人がやったらかっこいいんだろーな、とか思わせないでくれよー。

 タカラヅカには、タカラヅカでしかできないことをやってほしい。
 『月の燈影』は作品単体で見れば佳作だが、タカラヅカとしては、あまりうれしいものじゃない。
 江戸モノを誠実に創り上げた意気込みと成果は評価する。
 しかし何故、江戸モノなのか。
 くりんくりんの金髪巻き毛よりも、青天には「男役」のリアリティがない。わたし的にな。

 リアリティとは、「どれだけ上手に嘘を付くか」だ。ここはタカラヅカで、女性が演じる男役なわけだからな。
 それは演技以前に、ジャンルの向き不向きがあると思う。
 マンガで言うならばだ、『北斗の拳』の絵柄の人と、『ベルばら』の絵柄の人と、『サザエさん』の絵柄の人は、まったく同じ話を描いたとしても別物になってしまうってことだ。
 どの絵柄が優れていて、どの絵柄が下等だというわけじゃない。ただ、絵柄には向き不向きがある。
 『ベルばら』の絵柄で江戸人情モノやられてもな……。収まりがわるいっちゅーか。みんな睫毛がぴんぴんして目の中に星が輝いてます。バックには薔薇がとんできらきら光ってます。ウエストは顔より細いです。
 タカラヅカは絵柄で言うならやはり、少女マンガ系でしょう。少年マンガじゃないし、ましてやオヤジ向け青年マンガじゃない。だから、少女マンガの絵で描いて似合うジャンルのものが、いちばんよく表現できる。
 それが、売りであり醍醐味でもある。
 『北斗の拳』や『サザエさん』では描けない物語を描くことができるのだから。
 絵柄は、その作品世界のリアリティを作る武器だ。『ベルばら』はあの絵だからこそ、嘘をほんとうらしく盛り上げることができた。もし『北斗の拳』の絵柄だったら、オスカルは男装の麗人ではなく肉感的な美女になっていたろうな。男女は骨格から描き分けされているから。誰も彼女を男だとまちがえたりしない。
 もしも典型的少女マンガの絵柄で、青年誌に載っているような江戸人情モノをやろうとしたら大変だ。なんせ、絵柄の段階ですでにマイナスがついている。江戸人情モノの持つ雰囲気を、絵柄が台無しにしてしまうからだ。
 この絵で江戸モノ? という、ページをめくった第一印象でマイナス点がついているわけだから、それを挽回して高得点をたたき出すには並ならぬ力量がいる。
 同じ力量の作家が、少女マンガ絵で少女マンガを描くのと、江戸モノを描くのとでは、できあがった作品に明らかな優劣がつく。仕方ないさ、スタート地点がちがうんだもの。0から出発したものと、マイナス100から出発したものとでは、同じ速さで走ったとしてもゴールインの時間がちがって当然だ。

 『月の燈影』の出来はいいと思うよ。
 でももしこれが、タカラヅカのタカラヅカたる、得意分野で表現されていたとしたら?
 たとえば、ギャングエイジのアメリカ。アンタッチャブル・ゾーンとして名高い街が舞台。スーツにフェルト帽の若きギャングたちと、ボブ・ヘアのギャルソンヌ・スタイルの美女たち。銃と酒と誇りと罪と。
 ありがちだよ。5万回は観たよーな話になるだろうさ。
 でも、萌えると思うな。

 もしも舞台設定がちがっていたら、もっと客を呼べたし、キャストの人気も出ただろう。
 しかし。
 わかっているのよ。
 この作品が、江戸人情モノとしてのこだわりでもってできあがった作品だということは。
 「もしも」なんていうのが、お門違いだってことは。
 タカラヅカには日本物が必要だし、日本物を書ける作家も必要だ。こうして文化は継いでゆかなければならない。
 意義はわかる、心意気もわかる。

 それでも。
 この作品じゃ、客は呼べねーだろーなー、と、思う。
 いい作品だよ、キャストもがんばっていたよ、でも1回で十分。

 んじゃいつも客に媚びた、王子様ものばかり上演してりゃいいのかタカラヅカ、ってことになるけどさー。
 タカラヅカとはなにか、という、とてもヘヴィな命題にぶちあたっちゃうけどさー。

 もうこうなりゃあとは、ファン心理に架すしかねーな。
 ファンなら、通え。そしてヅカにおける日本物の意義と地位を確立しろ。

 ゆみこちゃんはそりゃー、かっこいいさ。堂に入ったもんだね。この作品において、中央が彼女だということが、よくわかるよ。
 たとえばわたし、この役がケロなら、通ってます。ファンだから。そして、ケロならこーゆー役はハマるでしょう。
 イナセなケロ兄貴を見るためだけに、わたしは日参することでしょう。
 良い作品をありがとう、とすべての関係者に感謝するでしょう。
 ……が。それでも、前述した通りの「これはヅカとして板に乗せるのはどうよ?」という疑問も、抱き続けるでしょう。わたしは主役のファンだからいいけどさ、そーでない人にはただ「よかったわね、でも地味ね」で終わるだけのもんじゃんよー、と。そもそも「観たい」と思ってさえもらえないかも、と口惜しい思いもするでしょうよ。

 さて。
 なんか、不満めいたことばかり書いた気がする。
 ケナシているつもりじゃないんだが。
 萌えもあったし、プロットしっかりしているし、わたしは好きな作品なんだけどな。

 先に観ていたかねすきさんは、最後の「ねずみ小僧」オチを許せなかったよーだが、わたしはそんなこともなかったし。
 プロローグで同心がねずみ小僧を捕縛した、と語っていたので、そこへどうたどりつくのかを楽しんで観ていたからな。次郎吉というとらんとむくんだけど、このキャラの性格でどーやってねずみ小僧になるんだ? と素直に疑問に思って見ていたからなあ。なるほど、ゆみこちゃんならわかるよ、ということで納得。

 くるみちゃんが美しかったなあ。
 芸者言葉がかっこいいよう。「わっち(わたし)」とか「ござんす」とかいう言葉をかっこよく響かせてしまうんだもの。
 このくるみちゃんを見れただけでも、行った甲斐があった。こういう背筋の伸びた女性は大好き。

 らんとむくんはかわいかったけど……正直、ゆみこちゃんやくるみちゃんほど目を見張る良さは、わたしには感じられなかった。予定調和っていうか、わかってますっていうか。
 しかしらんとむくん、いったい犬系何連続? そーゆーキャラで行くの? まー、若いうちはなんでもやっておけってことか。


 そしてまあ、これを語らないとわたしじゃないよな(笑)、ということで、やおひ語りいってみよー。

 これ、男3人の愛憎物語だよね?
 幸蔵は、真性ホモ。女に興味なし。幼馴染みの次郎吉を愛しているが、ノーマルな彼にはなにも言えないでいる。
 そして、幸蔵を絡め取ったのが淀辰。若い性を弄び(笑)、自分の色に染め上げる。最初は淀辰の大人のテクニック(笑)に翻弄され溺れていた幸蔵だが、やがて彼のもとから逃げ出す。
 が、淀辰は幸蔵を手放す気なんかこれっぽっちもない。手のひらの上で遊ばせている感じ。
 このへん、『バナナフィッシュ』とイメージかぶるんですが。幸蔵がアッシュ、次郎吉がエイジ、淀辰がディノっすね。
 淀辰の目的は、幸蔵ただひとり。喜の字でもなんでもない。幸蔵を再び腕の中へ取り戻すために、邪魔ものはみんな片付けちゃうのさ。

 すごいのは、あの終わり方っすね。
 幸蔵と、次郎吉。
 自分をかばってその腕の中で死んだ、愛した男の名前を名乗り、その男の名で刑死するなんて、究極の愛っすよ!!
 すばらしいわ、大野くん。
 『更に狂わじ』も、顎が落ちるくらいものすげーホモ作品だったが(鬼畜チャル様×被虐に耐えるきりやん)、今回もまたやってくれたわ。

 最後に。
 そのかちゃんに、伊七役をやってほしかった……。

      

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