で、昨日の『アバウト・ア・ボーイ』の話。とっても期待して観に行ったんだってばよ。

 ところがどっこい。
 こちらは大ハズレ。

 わたしの逆ツボを直撃。
 不愉快さのあまり、途中で席を立って帰りたくなった(笑)。

 まず、あまりのナレーションの多さに辟易。
 これって映画……映像である意味あるの?
 キャラクターの状態、心情をすべて、ナレーションが語る。それじゃあ役者が演技をする意味はどこにあるの? 朗読劇ですか?
 最初から、いつまでもいつまでもナレーションが続くので、首を傾げたよ。いつになったら本編がはじまるんだろう、って。まさか、全編ナレーションだけでつづられるとは思わなかった。
 ナレーションがなかったら、意味が通じない映画なんですかね、これって。

 マンガ描いてる友人は言う。
「台詞やナレーションで説明できたら、どんなに楽かと思うよ。でも、オレが描いてるのはマンガなんだから、絵の演出でそれを表現しなきゃと思って、いつも悩んでる。台詞にしろナレーションにしろ文字の説明は極力省いて、絵だけで表現するために努力している」と。
 そうでないと、「マンガである意味がない」と。

 「死にたいほど傷ついた」なら、映像でそれを表現してなんぼだろう。
 ナレーションで「死にたいほど傷ついた」と言葉で言うな!(例。んな台詞はないぞ)
 なにもかも台詞で言うなら、小説で十分だろう。
 なんのために映画なんだ?
 なんのために映像なんだ?

 「映画」としての作りに、まず疑問を抱いた。
 カスなんじゃねーの? と首をひねっていた。
 それでも、とりあえずストーリーを見てみようと思った。

 そして……。
 これがいちばんの、逆ツボ直撃。
 ストーリー、最悪。

 ダメ男がナンパ目的で嘘をついて女に近づいた。このことによって起こる物語。
 ……なのはいい。
 ダメ男のヒューが、嘘をつくのはべつにいい。そういうキャラだからな。それによって悲惨な状態になるのもお約束。
 問題は、もう一人の主役、ガキの方だ。
 ガキはヒューをストーカーして、嘘をついていることを見破る。そしてヒューを脅す。彼の家に押しかける。
 ガキの行動はべつにいい。ガキには事情があるので、そういう行動を取るのも仕方ないのかもしれん。
 だがガキがやっていることは「犯罪」だ。
 ストーカーして、脅迫して、友好関係を迫る。もしこれが、ヒューが女性でガキが大人の男なら、まちがいなく警察沙汰だ。「嘘をばらされたくなかったら、オレの女になれ」って言ってるよーなもんだからな。
 わたしにとっての逆鱗は、このガキの行動が作品中で「是」とされていることだ。
 おいおい、たしかに嘘をついているヒューが悪いよ。だからといって、彼を脅迫するガキはゆるされるのか?
 ガキの行動は犯罪だ。なのにそれを「愉快でけなげな行動」として描いている。
 ガキが母親のためにしていることだからか? 母親のために、ヒューを利用しようとしているんだぞ? 赤の他人を脅迫して利用することを「愉快」だとか「心温まる」とかにしてしまっていいのか?

 よく、男の子向けのラブコメにあるよね。
 主人公の男のところに、ものすごーい美人が押しかけてくる。男が生活をかき回されて大変なことになるのに、女は「だってアナタが好きなの!」と、自分を正当化。男は実際こまってるんだけど、彼女についついほだされてしまう……てやつ。
 もしくは、美人な女の子と突然ひとつ屋根の下に住むことになって、男はものすごーくこまるんだけどついついほだされてしまう……とか。
 共通項は、本来ならば「迷惑」であるということ。だけど相手が「美人な女」だからOKだということ。
 ブスな女だったら、即たたき出されてるんだろーなー、ということさ……。

 美人だろうが子どもだろうが、迷惑は迷惑、犯罪は犯罪だろう。
 美人だからゆるされて、子どもだからゆるされる。そんなことはまちがってる。
 と、わたしは思っている人間なんだ。

 押しかけ美人が、「わたしがやっていることは悪。悪だけど、あとに引けない」と思っているならいい。
 だけど大抵、こーゆー立場の美人は「わたしは正しい」と思って傍若無人道を突っ走っている。

 この映画のガキもそうだ。自分がまちがっていることを自覚していない。だからちょっとヒューに冷たくされたら、「被害者」という顔をする。てめーは脅迫者だっつーの。被害者の愛を求めるな。
 ガキだから無知である、という設定ならいいが、映画自体がガキの肩を持っているので、ヒューに冷たくされたガキを「可哀想」という撮り方をする。
 それがわたしには、致命的に不愉快。

 無神経な物語が、わたしはいちばんキライなんだ。

 まちがった人間を「可哀想」と美談にするな。
 まちがった人間は「まちがっている」と描け。そのうえで「やっていることは、まちがっている。でも可哀想」だと観客に感じさせろ。

 全編に置いて、この映画は倫理観がわたしとはチガウところにあるようだった。
 それがもー、つらくてつらくて。

 いっそのこと、ガキがヒューに近づいたのは、彼を愛していたからだっちゅーことにさせろ。ヒューとガキの恋愛モノにしちまえ。
 愛ゆえにまちがっちまったならまだ、許せる。
 だがガキはべつに、ヒューを愛してないだろ? 「母親のために都合がいい」から近づいただけだろ。ヒューとガキの間に友情が芽生えたのは結果論であって、もしそれが芽生えなかった場合、ガキのやっていることはただの暴力だ。
 恋愛が行き過ぎというならせめて、ヒューに「パパになってほしかった」ということにしろよ。
 気持ちもなにもないで近づいたのに、どーしてそれを「美談」として「温かい」目でとらえるのよ、この映画。感性がわたしには理解できないよ。

 つまり、先に結果があるからじゃないの?
 ぐーたら男ヒューと、可哀想なガキの間に「友情」が芽生え、ヒューもガキもその友情によって救われ、「次のステップ」へ進む。
 という結果が先に決まっているから、なにがなんでもふたりを接近させなきゃなんない。それで無理矢理こじつけた。
 そうとしか思えない。
 どうしてキャラの立場と心情を誠実に描かないんだ? ひとつひとつのエピソードを正しく組み立てたら、正しい結果にたどりつくのに。
 結果のために、キャラの人格を破壊するなよ。

 『ブリジット・ジョーンズ』は好きだったんだけどね……。
 ヒロインの心情と、それゆえの行動に感情移入できた。
 しかしこの『アバウト・ア・ボーイ』では、壊れたキャラたちにまったく感情移入できない……。なんでそこでそう思うの、なんでそこでそう行動するの。疑問符ばかり、わたしは置き去りさ。
 心を描いてくれ。行動もストーリーも、まず「心」があってこそ動き出すものなのよ。

 なにかっちゃー、ヒット作『ブリジット・ジョーンズ』の名前を出すのも、かっこわるいよね。この作品単体では売れないってわかってるからだよね。
 つーか、あからさまな「2匹目のドジョウ」を狙った映画……。
 ひたすら、かっこわるい……。

 つってもまー、とても印象に残ったよ。
 見終わって「わたしこの映画、大嫌い」と口に出して言える映画は少ないからな。
 「つまんない映画」「まー、おもしろいんじゃない?(と言ってすぐに内容を忘れる映画)」なら、いくらでもあるからな。

          ☆

 今日は梅田で、キティちゃんとエクスさんとお茶。既婚者はエクスさんだけ。
「なんでか知らないけどアタシって、ひとから女優みたいってよく言われる」
 と、キティちゃん。なんとなくわかる、それ。わたしはウケる。
「服装がコレで、態度がコレだから?」
 とキティちゃんは本日のゴールドラメのアンサンブルの、豊かな胸をぶるんと振ってツンと顎を高くつきあげる。
 服の趣味が派手派手ゴージャスお嬢様系なんだよね。そして性格なのか、姿勢なのか、とても「えらそー」な風情……。
 それを「女優みたい」と評する人がいるのか。うまいこと言うなあ。
 そんなキティちゃんは、「年下の男とつきあいたい」と言う。エクスさんは「絶対無理」と言う。
「緑野ちゃんは年下でもいいけど、キティちゃんは絶対無理。アンタ、金のかかる女でしょ」
 女優だもんな。
 わたしははげしく納得。「ジーパンって穿いたことない」とかゆーキティちゃんは、若い男とはつきあえないでしょう。服装からして、お金のない若い男とは釣り合わない。
 ……キティちゃんに関しては納得したけど。
 あれ? そーするとエクスさん、わたしは「見るからにびんぼーくさい」ってことですか? 若い男の子と、金のないびんぼーデートが似合いそうな? しししシツレイなっ!!(笑)
 たしかにわたし、びんぼくさい(実際びんぼー)よなー。性格も下っぱ気質だしなー(笑)。


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