それにしても「英国の貴公子」ヒュー様はトシをとったよな@アバウト・ア・ボーイ
2002年10月6日 映画 で、昨日の『アバウト・ア・ボーイ』の話。とっても期待して観に行ったんだってばよ。
ところがどっこい。
こちらは大ハズレ。
わたしの逆ツボを直撃。
不愉快さのあまり、途中で席を立って帰りたくなった(笑)。
まず、あまりのナレーションの多さに辟易。
これって映画……映像である意味あるの?
キャラクターの状態、心情をすべて、ナレーションが語る。それじゃあ役者が演技をする意味はどこにあるの? 朗読劇ですか?
最初から、いつまでもいつまでもナレーションが続くので、首を傾げたよ。いつになったら本編がはじまるんだろう、って。まさか、全編ナレーションだけでつづられるとは思わなかった。
ナレーションがなかったら、意味が通じない映画なんですかね、これって。
マンガ描いてる友人は言う。
「台詞やナレーションで説明できたら、どんなに楽かと思うよ。でも、オレが描いてるのはマンガなんだから、絵の演出でそれを表現しなきゃと思って、いつも悩んでる。台詞にしろナレーションにしろ文字の説明は極力省いて、絵だけで表現するために努力している」と。
そうでないと、「マンガである意味がない」と。
「死にたいほど傷ついた」なら、映像でそれを表現してなんぼだろう。
ナレーションで「死にたいほど傷ついた」と言葉で言うな!(例。んな台詞はないぞ)
なにもかも台詞で言うなら、小説で十分だろう。
なんのために映画なんだ?
なんのために映像なんだ?
「映画」としての作りに、まず疑問を抱いた。
カスなんじゃねーの? と首をひねっていた。
それでも、とりあえずストーリーを見てみようと思った。
そして……。
これがいちばんの、逆ツボ直撃。
ストーリー、最悪。
ダメ男がナンパ目的で嘘をついて女に近づいた。このことによって起こる物語。
……なのはいい。
ダメ男のヒューが、嘘をつくのはべつにいい。そういうキャラだからな。それによって悲惨な状態になるのもお約束。
問題は、もう一人の主役、ガキの方だ。
ガキはヒューをストーカーして、嘘をついていることを見破る。そしてヒューを脅す。彼の家に押しかける。
ガキの行動はべつにいい。ガキには事情があるので、そういう行動を取るのも仕方ないのかもしれん。
だがガキがやっていることは「犯罪」だ。
ストーカーして、脅迫して、友好関係を迫る。もしこれが、ヒューが女性でガキが大人の男なら、まちがいなく警察沙汰だ。「嘘をばらされたくなかったら、オレの女になれ」って言ってるよーなもんだからな。
わたしにとっての逆鱗は、このガキの行動が作品中で「是」とされていることだ。
おいおい、たしかに嘘をついているヒューが悪いよ。だからといって、彼を脅迫するガキはゆるされるのか?
ガキの行動は犯罪だ。なのにそれを「愉快でけなげな行動」として描いている。
ガキが母親のためにしていることだからか? 母親のために、ヒューを利用しようとしているんだぞ? 赤の他人を脅迫して利用することを「愉快」だとか「心温まる」とかにしてしまっていいのか?
よく、男の子向けのラブコメにあるよね。
主人公の男のところに、ものすごーい美人が押しかけてくる。男が生活をかき回されて大変なことになるのに、女は「だってアナタが好きなの!」と、自分を正当化。男は実際こまってるんだけど、彼女についついほだされてしまう……てやつ。
もしくは、美人な女の子と突然ひとつ屋根の下に住むことになって、男はものすごーくこまるんだけどついついほだされてしまう……とか。
共通項は、本来ならば「迷惑」であるということ。だけど相手が「美人な女」だからOKだということ。
ブスな女だったら、即たたき出されてるんだろーなー、ということさ……。
美人だろうが子どもだろうが、迷惑は迷惑、犯罪は犯罪だろう。
美人だからゆるされて、子どもだからゆるされる。そんなことはまちがってる。
と、わたしは思っている人間なんだ。
押しかけ美人が、「わたしがやっていることは悪。悪だけど、あとに引けない」と思っているならいい。
だけど大抵、こーゆー立場の美人は「わたしは正しい」と思って傍若無人道を突っ走っている。
この映画のガキもそうだ。自分がまちがっていることを自覚していない。だからちょっとヒューに冷たくされたら、「被害者」という顔をする。てめーは脅迫者だっつーの。被害者の愛を求めるな。
ガキだから無知である、という設定ならいいが、映画自体がガキの肩を持っているので、ヒューに冷たくされたガキを「可哀想」という撮り方をする。
それがわたしには、致命的に不愉快。
無神経な物語が、わたしはいちばんキライなんだ。
まちがった人間を「可哀想」と美談にするな。
まちがった人間は「まちがっている」と描け。そのうえで「やっていることは、まちがっている。でも可哀想」だと観客に感じさせろ。
全編に置いて、この映画は倫理観がわたしとはチガウところにあるようだった。
それがもー、つらくてつらくて。
いっそのこと、ガキがヒューに近づいたのは、彼を愛していたからだっちゅーことにさせろ。ヒューとガキの恋愛モノにしちまえ。
愛ゆえにまちがっちまったならまだ、許せる。
だがガキはべつに、ヒューを愛してないだろ? 「母親のために都合がいい」から近づいただけだろ。ヒューとガキの間に友情が芽生えたのは結果論であって、もしそれが芽生えなかった場合、ガキのやっていることはただの暴力だ。
恋愛が行き過ぎというならせめて、ヒューに「パパになってほしかった」ということにしろよ。
気持ちもなにもないで近づいたのに、どーしてそれを「美談」として「温かい」目でとらえるのよ、この映画。感性がわたしには理解できないよ。
つまり、先に結果があるからじゃないの?
ぐーたら男ヒューと、可哀想なガキの間に「友情」が芽生え、ヒューもガキもその友情によって救われ、「次のステップ」へ進む。
という結果が先に決まっているから、なにがなんでもふたりを接近させなきゃなんない。それで無理矢理こじつけた。
そうとしか思えない。
どうしてキャラの立場と心情を誠実に描かないんだ? ひとつひとつのエピソードを正しく組み立てたら、正しい結果にたどりつくのに。
結果のために、キャラの人格を破壊するなよ。
『ブリジット・ジョーンズ』は好きだったんだけどね……。
ヒロインの心情と、それゆえの行動に感情移入できた。
しかしこの『アバウト・ア・ボーイ』では、壊れたキャラたちにまったく感情移入できない……。なんでそこでそう思うの、なんでそこでそう行動するの。疑問符ばかり、わたしは置き去りさ。
心を描いてくれ。行動もストーリーも、まず「心」があってこそ動き出すものなのよ。
なにかっちゃー、ヒット作『ブリジット・ジョーンズ』の名前を出すのも、かっこわるいよね。この作品単体では売れないってわかってるからだよね。
つーか、あからさまな「2匹目のドジョウ」を狙った映画……。
ひたすら、かっこわるい……。
つってもまー、とても印象に残ったよ。
見終わって「わたしこの映画、大嫌い」と口に出して言える映画は少ないからな。
「つまんない映画」「まー、おもしろいんじゃない?(と言ってすぐに内容を忘れる映画)」なら、いくらでもあるからな。
☆
今日は梅田で、キティちゃんとエクスさんとお茶。既婚者はエクスさんだけ。
「なんでか知らないけどアタシって、ひとから女優みたいってよく言われる」
と、キティちゃん。なんとなくわかる、それ。わたしはウケる。
「服装がコレで、態度がコレだから?」
とキティちゃんは本日のゴールドラメのアンサンブルの、豊かな胸をぶるんと振ってツンと顎を高くつきあげる。
服の趣味が派手派手ゴージャスお嬢様系なんだよね。そして性格なのか、姿勢なのか、とても「えらそー」な風情……。
それを「女優みたい」と評する人がいるのか。うまいこと言うなあ。
そんなキティちゃんは、「年下の男とつきあいたい」と言う。エクスさんは「絶対無理」と言う。
「緑野ちゃんは年下でもいいけど、キティちゃんは絶対無理。アンタ、金のかかる女でしょ」
女優だもんな。
わたしははげしく納得。「ジーパンって穿いたことない」とかゆーキティちゃんは、若い男とはつきあえないでしょう。服装からして、お金のない若い男とは釣り合わない。
……キティちゃんに関しては納得したけど。
あれ? そーするとエクスさん、わたしは「見るからにびんぼーくさい」ってことですか? 若い男の子と、金のないびんぼーデートが似合いそうな? しししシツレイなっ!!(笑)
たしかにわたし、びんぼくさい(実際びんぼー)よなー。性格も下っぱ気質だしなー(笑)。
ところがどっこい。
こちらは大ハズレ。
わたしの逆ツボを直撃。
不愉快さのあまり、途中で席を立って帰りたくなった(笑)。
まず、あまりのナレーションの多さに辟易。
これって映画……映像である意味あるの?
キャラクターの状態、心情をすべて、ナレーションが語る。それじゃあ役者が演技をする意味はどこにあるの? 朗読劇ですか?
最初から、いつまでもいつまでもナレーションが続くので、首を傾げたよ。いつになったら本編がはじまるんだろう、って。まさか、全編ナレーションだけでつづられるとは思わなかった。
ナレーションがなかったら、意味が通じない映画なんですかね、これって。
マンガ描いてる友人は言う。
「台詞やナレーションで説明できたら、どんなに楽かと思うよ。でも、オレが描いてるのはマンガなんだから、絵の演出でそれを表現しなきゃと思って、いつも悩んでる。台詞にしろナレーションにしろ文字の説明は極力省いて、絵だけで表現するために努力している」と。
そうでないと、「マンガである意味がない」と。
「死にたいほど傷ついた」なら、映像でそれを表現してなんぼだろう。
ナレーションで「死にたいほど傷ついた」と言葉で言うな!(例。んな台詞はないぞ)
なにもかも台詞で言うなら、小説で十分だろう。
なんのために映画なんだ?
なんのために映像なんだ?
「映画」としての作りに、まず疑問を抱いた。
カスなんじゃねーの? と首をひねっていた。
それでも、とりあえずストーリーを見てみようと思った。
そして……。
これがいちばんの、逆ツボ直撃。
ストーリー、最悪。
ダメ男がナンパ目的で嘘をついて女に近づいた。このことによって起こる物語。
……なのはいい。
ダメ男のヒューが、嘘をつくのはべつにいい。そういうキャラだからな。それによって悲惨な状態になるのもお約束。
問題は、もう一人の主役、ガキの方だ。
ガキはヒューをストーカーして、嘘をついていることを見破る。そしてヒューを脅す。彼の家に押しかける。
ガキの行動はべつにいい。ガキには事情があるので、そういう行動を取るのも仕方ないのかもしれん。
だがガキがやっていることは「犯罪」だ。
ストーカーして、脅迫して、友好関係を迫る。もしこれが、ヒューが女性でガキが大人の男なら、まちがいなく警察沙汰だ。「嘘をばらされたくなかったら、オレの女になれ」って言ってるよーなもんだからな。
わたしにとっての逆鱗は、このガキの行動が作品中で「是」とされていることだ。
おいおい、たしかに嘘をついているヒューが悪いよ。だからといって、彼を脅迫するガキはゆるされるのか?
ガキの行動は犯罪だ。なのにそれを「愉快でけなげな行動」として描いている。
ガキが母親のためにしていることだからか? 母親のために、ヒューを利用しようとしているんだぞ? 赤の他人を脅迫して利用することを「愉快」だとか「心温まる」とかにしてしまっていいのか?
よく、男の子向けのラブコメにあるよね。
主人公の男のところに、ものすごーい美人が押しかけてくる。男が生活をかき回されて大変なことになるのに、女は「だってアナタが好きなの!」と、自分を正当化。男は実際こまってるんだけど、彼女についついほだされてしまう……てやつ。
もしくは、美人な女の子と突然ひとつ屋根の下に住むことになって、男はものすごーくこまるんだけどついついほだされてしまう……とか。
共通項は、本来ならば「迷惑」であるということ。だけど相手が「美人な女」だからOKだということ。
ブスな女だったら、即たたき出されてるんだろーなー、ということさ……。
美人だろうが子どもだろうが、迷惑は迷惑、犯罪は犯罪だろう。
美人だからゆるされて、子どもだからゆるされる。そんなことはまちがってる。
と、わたしは思っている人間なんだ。
押しかけ美人が、「わたしがやっていることは悪。悪だけど、あとに引けない」と思っているならいい。
だけど大抵、こーゆー立場の美人は「わたしは正しい」と思って傍若無人道を突っ走っている。
この映画のガキもそうだ。自分がまちがっていることを自覚していない。だからちょっとヒューに冷たくされたら、「被害者」という顔をする。てめーは脅迫者だっつーの。被害者の愛を求めるな。
ガキだから無知である、という設定ならいいが、映画自体がガキの肩を持っているので、ヒューに冷たくされたガキを「可哀想」という撮り方をする。
それがわたしには、致命的に不愉快。
無神経な物語が、わたしはいちばんキライなんだ。
まちがった人間を「可哀想」と美談にするな。
まちがった人間は「まちがっている」と描け。そのうえで「やっていることは、まちがっている。でも可哀想」だと観客に感じさせろ。
全編に置いて、この映画は倫理観がわたしとはチガウところにあるようだった。
それがもー、つらくてつらくて。
いっそのこと、ガキがヒューに近づいたのは、彼を愛していたからだっちゅーことにさせろ。ヒューとガキの恋愛モノにしちまえ。
愛ゆえにまちがっちまったならまだ、許せる。
だがガキはべつに、ヒューを愛してないだろ? 「母親のために都合がいい」から近づいただけだろ。ヒューとガキの間に友情が芽生えたのは結果論であって、もしそれが芽生えなかった場合、ガキのやっていることはただの暴力だ。
恋愛が行き過ぎというならせめて、ヒューに「パパになってほしかった」ということにしろよ。
気持ちもなにもないで近づいたのに、どーしてそれを「美談」として「温かい」目でとらえるのよ、この映画。感性がわたしには理解できないよ。
つまり、先に結果があるからじゃないの?
ぐーたら男ヒューと、可哀想なガキの間に「友情」が芽生え、ヒューもガキもその友情によって救われ、「次のステップ」へ進む。
という結果が先に決まっているから、なにがなんでもふたりを接近させなきゃなんない。それで無理矢理こじつけた。
そうとしか思えない。
どうしてキャラの立場と心情を誠実に描かないんだ? ひとつひとつのエピソードを正しく組み立てたら、正しい結果にたどりつくのに。
結果のために、キャラの人格を破壊するなよ。
『ブリジット・ジョーンズ』は好きだったんだけどね……。
ヒロインの心情と、それゆえの行動に感情移入できた。
しかしこの『アバウト・ア・ボーイ』では、壊れたキャラたちにまったく感情移入できない……。なんでそこでそう思うの、なんでそこでそう行動するの。疑問符ばかり、わたしは置き去りさ。
心を描いてくれ。行動もストーリーも、まず「心」があってこそ動き出すものなのよ。
なにかっちゃー、ヒット作『ブリジット・ジョーンズ』の名前を出すのも、かっこわるいよね。この作品単体では売れないってわかってるからだよね。
つーか、あからさまな「2匹目のドジョウ」を狙った映画……。
ひたすら、かっこわるい……。
つってもまー、とても印象に残ったよ。
見終わって「わたしこの映画、大嫌い」と口に出して言える映画は少ないからな。
「つまんない映画」「まー、おもしろいんじゃない?(と言ってすぐに内容を忘れる映画)」なら、いくらでもあるからな。
☆
今日は梅田で、キティちゃんとエクスさんとお茶。既婚者はエクスさんだけ。
「なんでか知らないけどアタシって、ひとから女優みたいってよく言われる」
と、キティちゃん。なんとなくわかる、それ。わたしはウケる。
「服装がコレで、態度がコレだから?」
とキティちゃんは本日のゴールドラメのアンサンブルの、豊かな胸をぶるんと振ってツンと顎を高くつきあげる。
服の趣味が派手派手ゴージャスお嬢様系なんだよね。そして性格なのか、姿勢なのか、とても「えらそー」な風情……。
それを「女優みたい」と評する人がいるのか。うまいこと言うなあ。
そんなキティちゃんは、「年下の男とつきあいたい」と言う。エクスさんは「絶対無理」と言う。
「緑野ちゃんは年下でもいいけど、キティちゃんは絶対無理。アンタ、金のかかる女でしょ」
女優だもんな。
わたしははげしく納得。「ジーパンって穿いたことない」とかゆーキティちゃんは、若い男とはつきあえないでしょう。服装からして、お金のない若い男とは釣り合わない。
……キティちゃんに関しては納得したけど。
あれ? そーするとエクスさん、わたしは「見るからにびんぼーくさい」ってことですか? 若い男の子と、金のないびんぼーデートが似合いそうな? しししシツレイなっ!!(笑)
たしかにわたし、びんぼくさい(実際びんぼー)よなー。性格も下っぱ気質だしなー(笑)。
コメント