よみがえる記憶。
 若かったわたしたち。
 薄暗い室内と、不安な赤いランプ。

 そして。

「宝塚歌劇団星組トップスター・日向薫退団決定!」

             ☆

 この日は、荻田浩一演出の、バレエ観劇の日。
 ところが。
 わたしは、それどころではなくなった。

 朝目が覚めると、身体のあちこちがカユかった。
 へんだなー、と思いつつも、JRに並びに行く。夏恒例のコミケ旅行のチケットを買うために。
 みどりの窓口のオヤジの対応ははなはだ鈍くさく、「きくぞうくんに投書するか?」とWHITEちゃんとふたりで話し合うくらい、ひどい対応をされた。

 そのあといったん帰宅。どーにもこうにも、体調が悪い。なんでだろー、昨日は元気だったのに。
 横になれば少しはマシになるかな、と休息を取っていたのだが。
 出かける間際になって、異変を自覚する。
 全身に走る、地図のような腫れ。これは、じんましんだ。

 なぜ?

 わたし、じんましんなんてもの、およそ出したことないのよ。
 本人も家族も、まったくそんな体質ではないのよ。
 昨日はいつもの店でいつもの食事をしただけだし、食べ物にあたったとはとても思えない。

 じんましんという状態自体のつらさ。めちゃくちゃかゆいー。
 じんましんになったというショック。免疫ないから、「わたしにナニが起こったの?! 超ショ〜〜ックッ!!」状態。
 そして、もうひとつ。

 明日、温泉に行くんですけど。
 ……こんなんで、行けるの?

 ショックが3つ重なり、わたしはくらくらしたままオギー・バレエを観るためにドラマシティへ行きました。
 まったくもって集中できない。
 舞台でなにが起こっているの? わたしにナニが起こっているの? 明日の温泉はどうなの? もう今さらキャンセルできないよ。忘帰洞と「リベンジ山上館」はどうなるの?
 くらくら。

 オギー作品は、コンディションのいいときに観ましょう。
 美しくてこわくて、深みが好みのはずなんだが、近寄ることができませんでした、今回。
 「立っている位置」が興味深かったんだが。ダンスアクト『草原の風 白い馬の伝説』。映画『白い馬』と、それに取り込まれていたモンゴル民話『スーホの白い馬』、両方を料理してある作品なのね。
 舞台には、スーホとナラン、白い馬を愛したふたりの少年がいた。彼らを描く、舞台としての「立ち位置」がとても興味深く、考察するのがたのしそーだったんだが。
 だがしかし。

 緑野、沈没。
 感性よりも、体調と精神状態に敗北。

 公演のあとは買い物する予定だったのに、わたしは早々にWHITEちゃんに別れを告げて帰宅しました。

 じんましんになったことはないけれど、アレルギーであることや、時間が経てば回復することぐらいは小耳に挟んでいる。
 だから、おとなしくしていればそのうち治るだろー、ぐらいには思っていた。なまじ今日は日曜日。病院もお休みだ。平日なら、さっさと病院に行っていただろうけど、救急外来に飛び込むのはためらわれた。
 ただ問題は、何度も繰り返すが、明日から温泉旅行だってことだ。
 じんましんって、温泉に入ってもいいもんなの?
 いいとしても、このみっともない身体をさらしていいの?
 それで治りが遅れたりとか、周囲に迷惑をかけたりとか、そーゆーのはどうなの?

 たぶん貧血も起こしているんだと思うので、おとなしくベッドに入っていたんだが、結局夕方に、病院へ駆け込んだ。

 唇が、腫れ上がったから。

 きんどーさんみたいな、ものすごい唇になったのよ。
 いかりや長介どころじゃない。

 こんな唇で、外に出られないっ。
 旅行になんて行けないっ。

 ……トシは取っても女だから。
 顔が変形したら、パニックになる。

 飛び込んだ救急病院は、時が止まったよーななつかしさ。

 昔一度だけ、来たことがある。

 あれは何年前だったかねえ。
 夜中に、当時いちばんの親友だったぺーちゃんが、半べそかきながら電話してきたんだ。
「弟が病気らしく、とても苦しんでる。あたしひとりで、どうしたらいいのかわからない」
 そんなもん、わたしにもまったくわからなかったが、とにかくわたしはぺーちゃんの家に駆けつけた。
 わたしがいても役に立たないことはわかっていたが、ぺーちゃんをひとりにしたくなかったんだ。
 たしか、**病院は救急指定病院だったはず。そんな聞きかじりの知識だけで、救急車を手配して**病院に乗り込んだ。
 真夜中の救急病院。
 診察中のぺーちゃんの弟。
 暗い待合所のベンチに並んで坐る、わたしとぺーちゃん。
 不安でたまらないのを、会話でごまかして。

 そのとき、待合所に置いてあったスポーツ新聞で知ったんだ。

「宝塚歌劇団星組トップスター・日向薫退団決定!」

 当時はインターネットなんかなかったし、ヅカ友だちもいなかった。
 スポーツ新聞の記事だけが、リアルタイムの情報源だったよ。
「ええっ、日向さん辞めちゃうって!」
「うそっ、なんでっ?!」
 ぺーちゃんが会社でもらった無料招待券で『戦争と平和』を3列目で観て以来、日向薫ファンだったわたしたちは、薄暗い病院でショックの声をあげたんだった。
 3列目、てのがポイントなのよ。あの長身と長い足を、間際で見上げたもんでさ……。劇場を出るなり、本物の男たちのスタイルの悪さを見て溜息をついたもんさ。
 以来、ネッシーさんはわたしとぺーちゃんの間では特別なスターさんだったのよねえ。たとえ、その次の星組公演でふたりそろってシメさんに転んでいたとしてもだ(笑)。

 もひとつショックだったのは、スター・日向薫の本名と年齢も、ずばりと書いてあったことよ……。
 夢が壊れる……。
 当時のわたしたちには、ちょっとショックなおばさん年齢だったもんでな……あのころはわたしらもまだ、若かったのよ。ふっ。

 結局ぺーちゃんの弟はなんということもなく、3人で歩いてぺーちゃんの家に帰ることができました。
 だけどわたしには、忘れられない記憶のひとつ。
 しっかり者で強気なぺーちゃんの泣きべそ電話と、ふたりで坐っていた薄暗い待合所のベンチ。そして、日向薫退団の記事。青春の思い出ってやつ。

 **病院の救急外来は、まったく変わってませんでした。

 あれからずいぶん経つのになー。そっか、変化ナシか。より薄汚れて、しょぼくなっているだけか……。

 最初に書かされる問診票の「どこをいちばん治して欲しいですか」という問いに、「かゆみと、外見。明日から温泉旅行に行くので、なんとかしてください」と書いたよ……だってだって、外見は重要だもん!!

 どっから見てもただのじんましんだし、問診だけで原因がわかるわけでなし。
 一時的なアレルギーだと医者もわたしも思っているから、関心事はひとつ。
「今すぐ治して。明日、温泉に入りたいの!」

 …………無理でした。

 温泉はやんわりとストップかけられた。
 つーか、お風呂自体、やめておけ、と。
 完治したなら入ってもいいけど、そうでない場合は血行をよくするのは逆効果。

 めそめそめそ。

 それでも明日は旅行なのだ。

 

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