私は父を愛していた。

 私の父はやさしく寛大な人だった。
 男らしく強い人だった。
 多くの人に慕われ、また彼らの信頼に応えることのできる人だった。
 私は父を尊敬していた。
 ひとり娘の私は、父に愛され、かわいがられて育った。
 父がいるからこそ、私たちの国は平和なのだと、私はずっと誇らしく思っていた。
 父が王だからではない。父がすばらしい人だからこそ、私たちの国は保たれているのだ。
 やさしさと強さは同義語だった。
 父は強いからやさしい。やさしいから強い。
 すべてを許容する、アフリカの大地のように。

 強さとやさしさが同義語ならば。
 そのどちらかを失ったとき、その人はどうなるのだろう?

 父は、強さを失った。
 私たちの国は敗北し、父も私も敵国の囚われ人となった。
 殺されることはない。将軍の執り成しにより、わたしたち一家は処刑される代わりに、敵国で人質として暮らすことになった。
 もう、父にはなんの権力もない。
 強さを失った父は、やさしさも寛大さも失っていた。

「人は、自分のためになることしか、決して行わないものだ」
 父は言う。
 父があんなにやさしかったのは、男らしく魅力的だったのは、強かったからなのか。自分に余裕があったから、他人にもやさしくできただけのことなのか。

 なにもかも失ったら。
 持って生まれた権力も、成し得てきた業績も、本来の能力も全部奪われ禁じられてしまったら、人は変わってしまうのか。
 魂のかたちが、剥き出しになるのか。

 私は?
 私もまた、そうなのだろうか。
 なにもかも失い、自分の真の姿を見せつけられるときが来るのだろうか。

 そして、あの人も?

「私を愛するなら、あなたはエジプトを捨てなければならない」
 私は、私の恋人に言う。私の父にとって祖国とその王であることがすべてであるように、男性にとって国と地位は、私たち女性以上に重要なものであるはずだ。
 できるはずがない。
 私の父が、そうであるように。
 権力を失い、やさしさを失った父。本来の魂のかたちが剥き出しになった父。
 自分が幸福でないと、他人にやさしくできないひと。

 王という立場が安泰なときには、父は偉大な人だった。
 では、私の恋人は?
 強国の将軍であり、王位を継ぐのも夢ではない地位にいる彼は?
 彼がこれまであたりまえに持っていたものを、彼の価値観世界観をすべて失ったら、どんな姿になる?
 ……いやだ、そんなものは見たくない。
 自分が幸福なら、他人にやさしくすることは可能だ。
 自分が血を流し、死にかけているときに、他人を救うために立ち上がれるはずがないのと同じ。まず自分が自分の足で立っていなければ、いいことも悪いこともできはしない。
 私の父は今、血を流し死にかけているのと同じだ。他人のことまで考えられない。自分が生き残ることだけを考えている。それがどうして責められるだろう。
 私は責めたくはない。
 だから恋人よ、あなたも私をあきらめて。あなたのあさましい姿を私に見せないで。
 その勇ましく美しい姿だけを、私に焼き付けていて。

「あなたは私を見くびっているのか」
 恋人は言う。
 立場の変化で、想いが変わるはずがないと、彼は言う。
 なにもかも失うことで、本来の魂のかたちが剥き出しになるとしても。
 私たちが愛し求めたのは、魂そのものではなかったのか。

 私たちには、いろんなものがたくさん取り巻いている。
 国だとか立場だとか、人とのつながりだとか。
 それらが、私たち個人を創り上げている。
 そして、それらすべてを捨てたときに、本来の魂が浮かび上がる。

 その、魂を求め合えるなら。
 愛し合えるなら。

 これほど、幸福なことはない。

 もちろんそれは、ただの夢かもしれない。
 恋ゆえに錯覚しているだけかもしれない。
 ふたりで手に手を取って駆け落ちし、いざ見知らぬ土地で生活をはじめたら、後悔だけが満ちるのかもしれない。
 私の恋人も私自身も、あさましく変わり果てるのかもしれない。
 わたしの父のように。

 だけど、信じたい。
 魂のゆがみなど、相手への想いがあれば越えられるのだと。

「聞き出したか」
 父は私に言う。失った権力を取り戻すために、父は娘の私を利用しようというのだ。私に、私の恋人から情報を聞き出せと。
「聞き出したわ」
 私は言う。

 恋人は、私を愛しているからすべてを捨てると言ったわ。
 私も、恋人を愛しているからすべてを捨てると言ったわ。
 ではお父様、あなたは?

 私は、父を愛していた。
 父は、私を愛していた。

 信じさせて。
 魂のゆがみなど、相手への想いがあれば越えられるのだと。

 つづく
   

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