星組バウホール公演『巌流』観劇。
 作・演出・齋藤吉正、主演・安蘭けい。

 いつもならなにがなんでも初日にこだわるのだが、第九の本番だったのでスルー。
 てなわけで、2日目にいそいそ行ってきました。

 チケ取り、がんばったなあ。
 ここ数年でいちばんがんばったよ。ここまでがんばったのって、『血と砂』以来かなあ。

 観終わったあと印象的だったのが、友人のチェリさんの言葉。
「さばきが出てたら買おうと思って」
 とわたしが言ったら、彼女は真顔で、
「さばきを探すんですか? コレを? 緑野さん、『ヴィンターガルテン』は観たあとにチケットさばいたんですよね?」
 と、言った。

 ……すみません。『ヴィンターガルテン』はたしかに、観終わったあと速攻チケットさばきました。
「こんなもん、もう観たくねえよっ」
 と。

 『ヴィンターガルテン』はさばいたけど、『巌流』はさばきを探しました。
 す、すみません。たしかに言動が一致してないっすね。
 『ヴィンターガルテン』ほどじゃないにしろ、『巌流』もレベル低い作品です。
「ふざけんな、こんな作品のチケットなんて、もういらねーよっ」
 と、わたしが言ったとしてもおかしくないです。チェリさんが指摘したのはそのことだと思う。Aを駄作と言った人間が、Aと似たりよったりの作品を駄作と言わないことに、おどろいたのでせう。

 わたしの採点が甘甘なのはひとえに、出演者への愛ゆえです……(笑)。

 もっとも、いくら出演者を愛していても、『ヴィンターガルテン』だったらやはり、チケットをさばいていたと思うけど。

 『ヴィンターガルテン』のように嫌悪感を持つほどひどくはないです、『巌流』。

 しかし……誉めることもできやしねえ……。こまった……。

 『巌流−散りゆきし花の舞−』はタイトル通り、佐々木小次郎を主人公にした物語。
 悲劇の天才剣士の物語。愛に傷つき、孤独を背負い、剣に生き剣に死んだ男の物語。

 この作品の感想をひとことで言うなら、

「つまらない作品」

 です。
 残念ながら。
 主演ふたりを好きでないなら、べつに無理して観なくてもいいと思う。チケットがあるなら1回観る分にはいいと思う。でも、リピートする必要はないでしょう。てなレベル。

 わたしがいちばんおどろいたのは、この作品が「ただ、つまらない」こと。
 だって作者、齋藤くんだよ? あの斎藤くんが、ふつーの作家みたいに「つまらないだけの作品」を書くなんて。

 斎藤吉正というクリエイターは、「つまらないだけの作品」は書かないのです。

 彼の失敗作は「ぶっ壊れきってて作品としての体裁すらない」くらいものすごいもんなのです。
 そのかわり、「つまらなくはない」の。
 ある意味おもしろいの。萌えがあるの。

 おもしろいけど、壊れてて不愉快。
 萌えるけど、失敗作。

 そーゆー、希有な才能を持った作家なんだ。

 世の中にいる作家の多くは、「そこそこの出来のものを創るけれど、おもしろくない」だとか、「破綻はないけど、萌えもない」てな作品をなんとなーく産出している。
 いつもいつも平均点。悪くないからいいよね? みたいな。

 斎藤くんのような、「壊れきってるけど魅力的」な作品を書く作家はめずらしいんだ。

 ふつーは、「壊れきってる」「物語として成立しないくらいめちゃくちゃ」な段階で、プロデビューできてないだろーしな(笑)。

 そんな斎藤くんが、世の中のふつーの作家みたいに、「壊れてないけど、たんにつまらない」モノを創るなんてっ。
 そんなの、斎藤くんじゃないわーっ(笑)。

 たしかに『ヴィンターガルテン』はひどかったさ。ここまで壊れていて、おかしいと自分で思わないのか? 客観性皆無なのか? 筋を組み立てる能力がないのか? などと失礼なことをいろいろ考えたよ。
 だけど……。
 壊れてなきゃいいってもんでも、ないよなあ。
 しみじみ。
 『ヴィンターガルテン』ほど壊れるのは勘弁だけど、『花恋吹雪』くらいは壊れてくれてもよかったのに。
 おもしろければ。

 そう。
 おもしろかったら、OKだったのよ。
 『花恋』も『血と砂』も、壊れてたけどおもしろかった。萌えがあった。

 壊れてない代わりにつまらなくなるくらいなら、壊れててもおもしろいものが観たかったよ。

 わたしは、焼き直し作家は嫌いだけど、ひとつのものしか描けない作家、はべつにキライじゃないんだ。
 ひとつのテーマだけをライフワークとして描き続ける。
 そーゆーのはアリだと思う。

 斎藤くんは、ひとつのものしか描けない作家、だよね?

 今のところ彼は、同じ話しか描いていない。
 彼のリビドーは実に明快に、ひとつの方向だけを示している。
 ソレを描くためだけに、彼はクリエイターになったのだろう。

 繊細な主人公は、生身の女との愛に傷つく。そして、聖母に抱かれ癒される。だが聖母との愛は、現実の恋愛でも性愛でもない。
 主人公は才能豊かで、誰からも愛されるのに、心に孤独を秘めている。
 主人公は親の愛に飢えている。
 主人公には、彼を愛し同じ熱さで憎む男がいる。
 主人公は悲劇的な最期を、これ以上なく美しく迎える。

 とまあ、設定は同じであっても、チガウ話を描くことは可能だ。同じ設定でチガウ話を、一生書き続けることも可能だ。
 『水戸黄門』が同じテーマで4桁ものストーリーがあるようにな。

 だから斎藤くんは斎藤くんのままでいい。
 ひとつのテーマを追求しつづけてくれ。
 それが好きな人は何度でも同じ話を新作としてたのしむだろうし、嫌な人は二度と観ないだけだから。

 わたしは彼の描くテーマが好きなので、何度でも観たいクチだ。
 そーいや夢枕貘の作品も、テーマは全部同じだけど、そのテーマが好きで好きでしょーがないから、どの作品もがーがー泣きながら読んでたなあ。
 そんなふうに、惹きつけられるモノって、あるよ。

 そう割り切っているので、『巌流』が過去の齋藤作品の焼き直しであったとしても、わたしのマイナス評価対象にはならない。
 わかってるよ、斎藤くんがソレしか描けないことは。だからソレはどーでもいい。

 問題は、彼のライフワーク、彼のリビドーが正しく表現されていなかったこと。

 なんでこんなことになっちゃったの?

 いちばんの敗因は、「W主演作ではなかった」ってことだと思う。

 齋藤作品の主人公は、女との愛に傷つき、最終的に男との愛を選ばなければならない。
 男との愛、てのはべつに、恋愛とは限らない。
 日常や生活と結びつかない愛、であればそれでいいわけだから。
 生身の女との愛に破れ、行きつくところなわけだから。
 同性にそこまで愛される(同義語「憎まれる」)ことが、主人公のすばらしさを表現しているのであり、作者の萌えポイントなんだろう。

 『巌流』では、生身の女との愛に破れ、聖母に癒される……までは描いてある。
 ただ、物語のオチの部分、収束部分であるところの「最終的に男との愛を選ぶ」を描き切れていないんだ。

 よーするに、主人公・小次郎の運命の相手、武蔵を描きそこなったってことだ。

 文字数足りないので、次の欄へつづく。

        

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