弟、「大友宗麟」を熱く語る。
 母とふたりで、NHKの正月ドラマの再放送を見たそうな。

 すまんなあ、わたしソレ、本放送を20分くらい見て、「つまんねー」と見るのやめちゃったんだよ。
 そう言ったら、傷ついた顔をした。
 ……そうか、語りたかったんだね。

 てかわたし、そのヒト知らないし。知らないヒトの伝記ドラマで、冒頭の設定解説がまだるっこしくてタルくてうざかったんで、見るのやめちゃったんだよ。
 松平健の太りっぷりもつらかったし、財前直見のヅラも似合ってなくてつらかったし。

「まあな、原作読んでないと、わかりづらいかもしんないけど……てゆーか、あの話を2時間でやるには無理があるんだ。ほとんどただのあらすじだったし」

 しかも原作、遠藤周作でしょ? わたし、そのヒト苦手なんだわ。価値観が合わなくてな……。

「原作も、キリスト教マンセーですべてカタをつけるところはどうかと思うが、それまでは異色の戦国モノとしてけっこういいんだ」

 どろどろの人間模様中心の戦国モノ。だそうだ。たしかにそれなら、おもしろいかもしれない。

「ドラマも、はしょりすぎでただのあらすじになってたけど、ちゃんと奥方が狂っていくのを描いてたから、まだよかったよ」

 キャスティングがあそこまで重くなければ、まだ見られたのになあ。

 話すわたしたちの横で、母はひとりで、
「キャスティングがよかったわ。アタシたちの世代が知っている人しか出てなくて!」
 と、よろこんでいる。
 ……年寄り向きだったってことよね?
 大河の『新選組!』には父とふたりで文句しかつけてなかったのに、よろこんでいるところをみると。

 時代劇は、そのうち絶滅する文化だと思う。

 今の時代劇を見ていると、そう思う。
 視聴者がいなくて、実際おもしろくもなくて、先細りになっていずれ消えると思う。
 時代劇を支えているのが、母たちの世代だからだ。
 彼らがいなくなれば、必要がなくなるので、消えるだろう。
 今の子どもたちは、おもしろい時代劇を見ていないので、大人になっても時代劇を見たいと思わないだろう。

 母と父の話を聞いていると、思うんだ。
 彼らが好きなのは「時代劇」ではなくて、「自分たちが若いころに見ていたモノ」なんだ。
 だから、同じ時代劇でも新しい風を含んだモノには拒絶反応を示す。
 石坂浩二の「新しい『水戸黄門』」には誰もついていかなかった。三谷幸喜の『新選組!』もあら探ししかしない。
 自分たちの青春時代に流行っていたモノ、そのものを今も求め、それ以外は必要としない。
 演歌歌手が何十年も前のヒット曲を歌い続け、新しい曲はヒットしないように、みんな「過去」しか求めない。
 世の中が進化していく中、変わり続けていく中、老人たちは「変わらないモノ」を求める。
 だから彼らが支える「時代劇」は、時が止まっている。
 大昔と同じレベルの単純なストーリー。勧善懲悪、お約束、進化なし。お涙頂戴、人情至上主義。
 出演者は何十年同じ顔ぶれ。若者の役を50過ぎの中年が演じる。
 それこそ、先年放映の新選組ドラマの主演、近藤勇役が渡哲也だったように。還暦過ぎた老人が演じる、20代の若者。高橋英樹が未だに織田信長を演じてみたりな。舞台ならそれでもいいけど、テレビではキツイ。せめて、その役の人物の享年より若い役者を使ってくれと、どれほど願ったか。
 ただたんに、「新しいモノ」がキライ。
 自分の知っているモノ以外、認めない。

 いつか時代劇は、絶滅すると思う。

 水は流れないと、腐るから。
 変化を嫌い、新しい要因を排除し、老俳優たちの重厚で大袈裟な演技のみに頼っているなら。
 今の老人たちがいなくなり、世代交代したあかつきには、消え失せていると思う。

 そしてわたしは、それでもいいと思っている。

 消えていいよ、時代劇。

 いや、わたしは時代劇好きだけど。
 人情モノだと大々的に銘打っているモノ以外は、できるだけ見たいと思っているクチだけど。
 今も『必殺仕事人』の再放送を嬉々としてビデオ取りしてDVDに焼いていたりするけど。

 でも、今の時代劇は、消えていいよ。このまま腐っていくなら、なくなってもかまわないよ。

 一度絶滅しても、また復活すると思うから。

 一度絶滅すれば、旧悪を廃して、新しい時代劇が作られると思うから。
 時代劇という異世界ファンタジーのよさを継承し、老人たちへのご機嫌取り部分を捨てた、新しい時代劇が作られる日を、たのしみにしている。

 時代劇と言えば、『零〜紅い蝶〜』。
 ちょんまげ時代ではないにしろ、アレもある意味時代劇。明治か大正か、とりあえずみんな当たり前に着物を着ている時代。
 わたしと弟の話題はそこへ。

「アレって、時代的にはいつなわけ?」
「えーと、1作目のヒロインの祖母にあたるのが八重だろ。で、その八重がまだ少女だから……」
「射影機を作ったのが、宗方の先生なんだよね? 大人になった八重が拾った射影機と同じモノ?」
「アレはハナから氷室邸にあったから、別物じゃないのか?」
「氷室邸のご神体の鏡の破片が入ってるわけだから……うーん、やっぱ別物? 計算合わないよねえ」
「なにも無理して1作目と2作目の話をこじつけなくてもよかったのにな、制作側」
「2作目だけやった人は、八重だけは助かってハッピーエンドだと思うよねえ。1作目であんなことになってるのに」
「八重は自殺、夫の宗方はあんなことに……(笑)」
「あんなことに……(笑)」

 『零』の1作目の名台詞と言えば、宗方氏の「や〜え〜、みこと〜。や〜え〜、みこと〜(エンドレス)」だもんなあ(笑)。

「それにしても、2作目はストーリーがよくなかったな。1作目の方がよかった」
 と、弟。

 えっ?
 わたし、2作目の方がよかったと思ってるよ?

「なんで? 2作目はすべて、『おねーちゃんが電波でした』で終始してるじゃん」

 そ、それを言うと身も蓋もない……。
 いや、その電波っぷりのなかにだね、大人になることを厭う少女のはかなさがあってだね……。

「呪われた村に迷い込んでしまった姉妹が脱出するだけなら、話は簡単だったのに。ややこしくなったのはすべて、おねーちゃんが電波受信して勝手にどこか行っちゃうからだろ。澪はいつも、勝手にどこかへ行ってしまうおねーちゃんを探して走り回ってた」

 それはそうなんだが……。
 1作目はいちおー、キャラの目的ははっきりしてたなあ。
 民俗学的に貴重でもある呪われた屋敷・氷室邸に、某作家が取材に行ったまま行方不明になり、その作家に恩があるおにーちゃんが行方を捜しに行き消息を絶ち、今度は兄を捜してヒロイン美紅が氷室邸に入る……。
 美紅の目的も、氷室邸の怨霊の目的も、クリアだったなあ。
 ついでに、おにーちゃんとその作家の関係を妄想したりして、たのしかったなあ(笑)。

「2はラスボスがアレっても、納得いかない。そりゃあのキャラも怨念持ってるだろうけど、小物すぎ。1の霧絵ほどのインパクトがない」

 あー、霧絵はこわかったねえ。でもって、かなしかったねえ。
 でもそれってやっぱり、「真のエンディング」がさらにあるからじゃない?

「あるだろうな。そっちでは、あのキャラが真のラスボスとして出てくるんじゃないか?」

 予言しておくわ。
 「真のエンディング」とやらでは、おねーちゃんも助かってハッピーエンド。

「今度は『おねーちゃん、早ッ』かよ(笑)」

 1の「真のエンディング」を見た、緑野姉弟の感想は…

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