赦すことは傲慢なのか。@ドッグヴィル
2004年3月25日 映画 画面の美しさに惹かれて、見に行きました『ドッグヴィル』。
監督・脚本ラース・フォン・トリアー、出演ニコール・キッドマン、ポール・ベタニー。
黒い床に白い線を引いただけのセット。『ガラスの仮面』のマヤのひとり舞台を思い出すわ。ここが玄関、ここが階段。マヤがひとつひとつパントマイムで説明するだけで、「世界」が浮かび上がってくるあの不思議。
それをまさか、映画でやるなんて。
美しいと思うの。
黒い床と白い線だけの世界。
ここがトムの家、隣は集会所で、向かいはジンジャーさんのお店。……てなことが、全部床に白線で書いてある。
壁も建物もなにもない。あるのは最低限の家具と、人間だけ。
この不安な美しさに惹かれた。
予備知識はない。どーゆー映画なのか、なんのことなのやら。なんにもわからないまま、見に行った。
こ、こわかったんですけど……っ!!
ホラーじゃないです。オギー系です。痛くてこわくてかなしいのです。
山の中の小さな村ドッグヴィルに謎の女グレース@ニコール・キッドマンが逃げ込んでくる。どうやらギャングに追われているらしい。ドッグヴィルに匿われることになった彼女は、閉鎖的な村の人々のもとで懸命に生活しようとするが……。
前半はけっこー眠いです。
謎の女グレースと、善良な村人たちの生活。
村人たちはそれぞれ癖が強いけど、ふつーに善良な、どこにでもいそうな人々。毎日働き、糧を得、自分を愛したいと思っている・愛している、ふつーの人。
そして、ギャングに追われているといってもグレースもまた、悪人には見えず、ひたすら美しく、善良に思えた。
「私はこれまで傲慢な生き方をしてきたわ。だから謙虚になることを学ばなければならないの」……登場してすぐのこの台詞で、あー、いい子なんだなー、と思った。
みんな悪人ではなく、ふつーにいい人たち。どこにでもありそうな生活、いそうな人たち。
それが。
変貌しはじめる。
邪悪に。
善良な平凡な人々の持つ「牙」が、徐々に明らかになっていく。
閉鎖されているからこそ顕著だった安定した世界。絶妙だったパワーバランス。そこへ迷い込んだ異邦人。
「善良なる人々」が持つ「暗黒面」がすべて、その異邦人へ向けられる。
はじめは「新しい友人」「共に暮らす仲間」として迎えられただけに、壊れていく力関係が残酷。
セットのない、床に線が引かれただけの空間。隣の家も外を歩いている人も、全部あけすけ、全部丸見え。
小さな小さな村、村人にプライバシーなんてものはない。なにかも知られている、監視されている。
壁がないからこそわき上がる、閉塞感と緊張感が秀逸。
小さな村を舞台にしているけれどコレ、他の場所が舞台でもぜんぜんあったりまえにあり得る話だよね。
親しみやすいところでいくと、「教室」。
小学校でも中学校でもいいよ。
ひとつの教室を舞台にしても、同じ物語を構築可能。
はじめはみんな「仲間」だった。対等なクラスメイトだった。
でも、そのうち、パワーバランスが変化する。
たとえば、ひとりの親が破産して多額の借金をしていることがクラス中に知られてしまった。たとえば、ひとりの子が万引きするのを見られてしまった。
とにかくなにかしら「きっかけ」があった。
「大義名分」があった。
あいつは人より劣っている。あいつには悪い部分がある。
それを「理由」にしてたったひとりを、いじめる。全員で。とてもたのしく。あたりまえに。日常的に。
だってあの子は、そうされても仕方ないもの。あたしたちだって、したくてしてるわけじゃないわ。
掲げるのは大義。行為の正当化。その世界を共有する全員で行う正義。
いじめられている子も、だんだん感覚がマヒしてくる。だって、自分以外の全員から「お前は悪だ。悪だから制裁されているだけだ」と毎日言い続けられてるんだ。判断基準は狂い、自分が受けている仕打ちを「当然の報い」と受け止めるようになる。
そーゆー物語。
やろうと思えばどこでも、起こそうと思えばどこでも起こすことができる、起こりかねない物語。
実際、グレースに対する仕打ちの残酷さは、ものすごかった……。村人全員の「奴隷」。
足枷と首輪をつけられ、毎日女たちは酷使し、男たちはレイプする。
両腕でようやく持ち上げることができる錘をつけられ、足を引きずって歩く。重すぎて、ふつうに歩けないんだよね。首には、ベルのついた首輪。少しでも動けば大きな音が耳元で鳴る。しかも、いつも首を曲げていないといけない形。……こんな、人間としての尊厳を踏みにじられた姿で労働させられ、犯される。
物語のラスト、「審判の日」は想像通りの終わり方をするのだけど、それが「想像通り」っていうのがまた、痛いんだよな。
ここまで邪悪さ残虐さを披露した村人たちを、被害者のグレースが「赦して」しまうことを、わたしは「傲慢だ」と思った。
「彼らは、善良で弱い人たちなの」と言ってしまうヒロインに、腹が立ったさ。
床に線を引くだけで表現された村、ドッグヴィル。すべてを神の目線で俯瞰することができる閉鎖空間。
罪を犯すのは人間、偽善に酔うのは人間。
罪と罰と、赦すことと糾弾することと。
なにが正しいのかなんてわたしは知らないし、それは人の数だけ答えがあっていいものだと思っているけれど。
けれどわたしは、傲慢だと感じたんだよ、グレース。
罪は罪だよ。
人を裁くことは、自分をも裁くことだよ。
人を殴ったら、自分の手だって傷つくんだよ。
自分の手が痛くなるのは嫌だから、殴るのはやめておこうって、そういうことだろ?
赦すってのは、そういうことだろ?
「善良で弱い人たち」って見下して、完全無欠の被害者でいるってことだろう?
…………そう感じてしまうわたし自身に、わたしは、痛みを感じるんだ。
わたしもまぎれもなく、「罪人」であるのだという自覚が、胸を貫くから。
慈悲は素晴らしい。
赦すことは素晴らしい。
暴力は悪だし、殺人は悪だ。
それは誰もが謳う真理。ひとのみち。
だけど「裁き」はあるんだ。
という、こわくて痛くて、せつない映画だった。
画面の美しさと、ニコール・キッドマンの美しさ。
かなりオギー系。ヅカ以外のオギー芝居好きにはおすすめです。
あと、作者が『サイレントヒル』にも影響を受けた、と語っているのが個人的にツボです(笑)。なるほど、『静岡』ファンかよ……わかるわ、このダークさ。
「『静岡』は、ヘボゲーだし、日本じゃぜんぜん売れてないけど、クリエイターとかでアレを好きだという人は多いからなあ」
と、弟は言う。
たしかに、モノを創る人間の琴線に触れる世界観だよな、アレは。
監督・脚本ラース・フォン・トリアー、出演ニコール・キッドマン、ポール・ベタニー。
黒い床に白い線を引いただけのセット。『ガラスの仮面』のマヤのひとり舞台を思い出すわ。ここが玄関、ここが階段。マヤがひとつひとつパントマイムで説明するだけで、「世界」が浮かび上がってくるあの不思議。
それをまさか、映画でやるなんて。
美しいと思うの。
黒い床と白い線だけの世界。
ここがトムの家、隣は集会所で、向かいはジンジャーさんのお店。……てなことが、全部床に白線で書いてある。
壁も建物もなにもない。あるのは最低限の家具と、人間だけ。
この不安な美しさに惹かれた。
予備知識はない。どーゆー映画なのか、なんのことなのやら。なんにもわからないまま、見に行った。
こ、こわかったんですけど……っ!!
ホラーじゃないです。オギー系です。痛くてこわくてかなしいのです。
山の中の小さな村ドッグヴィルに謎の女グレース@ニコール・キッドマンが逃げ込んでくる。どうやらギャングに追われているらしい。ドッグヴィルに匿われることになった彼女は、閉鎖的な村の人々のもとで懸命に生活しようとするが……。
前半はけっこー眠いです。
謎の女グレースと、善良な村人たちの生活。
村人たちはそれぞれ癖が強いけど、ふつーに善良な、どこにでもいそうな人々。毎日働き、糧を得、自分を愛したいと思っている・愛している、ふつーの人。
そして、ギャングに追われているといってもグレースもまた、悪人には見えず、ひたすら美しく、善良に思えた。
「私はこれまで傲慢な生き方をしてきたわ。だから謙虚になることを学ばなければならないの」……登場してすぐのこの台詞で、あー、いい子なんだなー、と思った。
みんな悪人ではなく、ふつーにいい人たち。どこにでもありそうな生活、いそうな人たち。
それが。
変貌しはじめる。
邪悪に。
善良な平凡な人々の持つ「牙」が、徐々に明らかになっていく。
閉鎖されているからこそ顕著だった安定した世界。絶妙だったパワーバランス。そこへ迷い込んだ異邦人。
「善良なる人々」が持つ「暗黒面」がすべて、その異邦人へ向けられる。
はじめは「新しい友人」「共に暮らす仲間」として迎えられただけに、壊れていく力関係が残酷。
セットのない、床に線が引かれただけの空間。隣の家も外を歩いている人も、全部あけすけ、全部丸見え。
小さな小さな村、村人にプライバシーなんてものはない。なにかも知られている、監視されている。
壁がないからこそわき上がる、閉塞感と緊張感が秀逸。
小さな村を舞台にしているけれどコレ、他の場所が舞台でもぜんぜんあったりまえにあり得る話だよね。
親しみやすいところでいくと、「教室」。
小学校でも中学校でもいいよ。
ひとつの教室を舞台にしても、同じ物語を構築可能。
はじめはみんな「仲間」だった。対等なクラスメイトだった。
でも、そのうち、パワーバランスが変化する。
たとえば、ひとりの親が破産して多額の借金をしていることがクラス中に知られてしまった。たとえば、ひとりの子が万引きするのを見られてしまった。
とにかくなにかしら「きっかけ」があった。
「大義名分」があった。
あいつは人より劣っている。あいつには悪い部分がある。
それを「理由」にしてたったひとりを、いじめる。全員で。とてもたのしく。あたりまえに。日常的に。
だってあの子は、そうされても仕方ないもの。あたしたちだって、したくてしてるわけじゃないわ。
掲げるのは大義。行為の正当化。その世界を共有する全員で行う正義。
いじめられている子も、だんだん感覚がマヒしてくる。だって、自分以外の全員から「お前は悪だ。悪だから制裁されているだけだ」と毎日言い続けられてるんだ。判断基準は狂い、自分が受けている仕打ちを「当然の報い」と受け止めるようになる。
そーゆー物語。
やろうと思えばどこでも、起こそうと思えばどこでも起こすことができる、起こりかねない物語。
実際、グレースに対する仕打ちの残酷さは、ものすごかった……。村人全員の「奴隷」。
足枷と首輪をつけられ、毎日女たちは酷使し、男たちはレイプする。
両腕でようやく持ち上げることができる錘をつけられ、足を引きずって歩く。重すぎて、ふつうに歩けないんだよね。首には、ベルのついた首輪。少しでも動けば大きな音が耳元で鳴る。しかも、いつも首を曲げていないといけない形。……こんな、人間としての尊厳を踏みにじられた姿で労働させられ、犯される。
物語のラスト、「審判の日」は想像通りの終わり方をするのだけど、それが「想像通り」っていうのがまた、痛いんだよな。
ここまで邪悪さ残虐さを披露した村人たちを、被害者のグレースが「赦して」しまうことを、わたしは「傲慢だ」と思った。
「彼らは、善良で弱い人たちなの」と言ってしまうヒロインに、腹が立ったさ。
床に線を引くだけで表現された村、ドッグヴィル。すべてを神の目線で俯瞰することができる閉鎖空間。
罪を犯すのは人間、偽善に酔うのは人間。
罪と罰と、赦すことと糾弾することと。
なにが正しいのかなんてわたしは知らないし、それは人の数だけ答えがあっていいものだと思っているけれど。
けれどわたしは、傲慢だと感じたんだよ、グレース。
罪は罪だよ。
人を裁くことは、自分をも裁くことだよ。
人を殴ったら、自分の手だって傷つくんだよ。
自分の手が痛くなるのは嫌だから、殴るのはやめておこうって、そういうことだろ?
赦すってのは、そういうことだろ?
「善良で弱い人たち」って見下して、完全無欠の被害者でいるってことだろう?
…………そう感じてしまうわたし自身に、わたしは、痛みを感じるんだ。
わたしもまぎれもなく、「罪人」であるのだという自覚が、胸を貫くから。
慈悲は素晴らしい。
赦すことは素晴らしい。
暴力は悪だし、殺人は悪だ。
それは誰もが謳う真理。ひとのみち。
だけど「裁き」はあるんだ。
という、こわくて痛くて、せつない映画だった。
画面の美しさと、ニコール・キッドマンの美しさ。
かなりオギー系。ヅカ以外のオギー芝居好きにはおすすめです。
あと、作者が『サイレントヒル』にも影響を受けた、と語っているのが個人的にツボです(笑)。なるほど、『静岡』ファンかよ……わかるわ、このダークさ。
「『静岡』は、ヘボゲーだし、日本じゃぜんぜん売れてないけど、クリエイターとかでアレを好きだという人は多いからなあ」
と、弟は言う。
たしかに、モノを創る人間の琴線に触れる世界観だよな、アレは。
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