裸の王様は恥ずかしい。@スサノオ
2004年4月2日 タカラヅカ 前日まですっかり忘れてたんだけど、それでも行ってきました、雪組初日。
そっか、もうそんな時期なのか……マジ忘れてた……。WHITEちゃんにメールもらって思い出したわ。
いつものごとく、予備知識はなにもナシ。立ち見券買って、いつもの場所で機嫌良く観劇。
まずミュージカル『スサノオ−創国の魁ー』。
姉弟ゲンカが元で、アマテラスオオミカミ@ガイチが天の岩戸に隠れ、大和の国から光が消えてしまった。
太陽が隠れてしまった大和の民は、生活していくために仕方なくヤマタノオロチに生贄を差し出して長らえている。今年の生贄はイナダヒメ@まーちゃんだ。生贄になることを拒み、大和の民から追われていたイナダヒメを助けた男がスサノオ@コムちゃん。アマテラスが隠れてしまった元凶、姉とケンカをした弟だ。
後悔と自己否定でいっぱいのスサノオは、イナダヒメを助けたのはいいが、ヤマタノオロチ退治には消極的。それでもふたりは、オロチの棲む森へ向かう。
そこではなんと、先にオロチの生贄となり、死んだはずのイナダヒメの姉たちが生きていた! 森の統治者アオセトナ@水くんに守られていたのだ。アオセトナとは何者か。そして、ヤマタノオロチ退治はどうなる? でもってアマテラスは天の岩戸から出てくるのか? てな話……のはず。
えー、わたしは本来、キムシン作品が好きです。
なかなかツボに合うんだわ。
だから期待していたの。キムシンの新作に。
キムシン最新作『スサノオ』。
ひとことで言うと、ものすげえ恥ずかしい作品でした。
あっちゃー。
やっちゃったよー。うわー。恥ずぅ。
観ていて、恥ずかしさに身悶えしちゃったよ。
モノを創る人間には、なにかしら「叫びたいこと」がある。
「表現したいこと」がある。
このひとことを叫びたいがためだけに、この作品を書く。……てなことが、たしかにある。
それはわかってる。知ってるよ。
でもな。
エンタメ作品のクリエイターならば、自分自身の「叫び」よりも、「エンタメ作品」を優先せねばならんのだ。
魅力的なキャラ、起承転結のあるストーリー、盛り上がるクライマックス、みんなが納得するラストシーン。
それをやったうえではじめて、「叫び」を組み込むことが許される。
エンタメ力と、テーマ性のバランス。
これが大切。
エンタメであることを忘れ、作者自身の叫びばかりが大きくなる。
……クリエイターに、ものすっげーありがちなこと。
とくに、エンタメ作家としてある程度成功し、名声を得てしまった作家が陥りやすい。
「大衆文化」だからたくさんの人に知られることになり、そこでちょっと「テーマ性」をちらつかせたらその部分を特に評価された。
「テーマ性」ってのはダイレクトにその作家の「人間性」に触れてくる。つまり、テーマ部分を誉められるってのは、作家本人の人格を誉められるよーなもん。
テーマ部分を誉められたもんだから、作家はどんどん暴走する。自分の叫びが正しいことを盲信し、自分が叫ぶことにこそ意義があると信じて盲進する。
それは俗に、カンチガイと言う。
そもそも「大衆文化」だから、たくさんの人が見てくれたわけだ。はじめから作家個人の「叫び」だけを重要視する「純文学畑」だったら、あんなにたくさんの人は見てくれていなかった。
なのに、カンチガイした作家はどんどん「純文学」に傾倒する。
いやあの、「エンタメ」だから評価されたんであって、アンタが「純文学作家」なら誰も振り向きもしないよ? てなカンチガイ道を自信満々に暴走する。
エンタメ作家でありながら、エンタメを否定する。
大衆をバカにし、高尚な自分に酔う。
…………そんなクリエイターを、何人見てきただろう…………。
最初はものすごーくおもしろくて、そのなかにもちらりと光るテーマがあって、とても気持ちのいい作品を創ってたのに。
売れてきたら、なにをカンチガイしたのか、社会派を気取って自己満足なだけのつまらない作品しか創らなくなった……。
あー、いるよなー、たくさん。
娯楽作品を書くからこそ価値のある作家なのに。
最初から芸術・純文学作家としてなら、まったく振り向かれもしないのに。
カンチガイして、マスターベーション大安売り。
という、クリエイターの陥りやすい罠。
「陥りやすい」ことで、「ありがち」だからこそ、そんなありふれたコースに足を踏み入れる作家の姿は、わたしにはとてもかっこわるく、恥ずかしく映る。
は、恥ずかしい……。
身の置きどころがなく、恥ずかしい。
やっぱ、自分に引き寄せて考えちゃうからかな。
自分があんなふうになったらいちばんいやだ、と思い、知らないうちにああなってしまうかも、という危惧を持っている姿だから。
同類嫌悪かもしれん。
だがとにかく、わたしにはものすげー恥ずかしかった。
キムシン最新作『スサノオ』。
はっきり言って、ストーリーありません!
ただただ、作者がテーマを叫んでいるだけです!!
恥ずかしい……。
誰か、止めてやれなかったのか。
ストーリーを作ることは、難しい。
だが、テーマを叫ぶことは、易しい。
経験を積み、実績をあげ、名声を得て何故、簡単な方に流れるんだよ、キムシン。
テーマを叫ぶのはいい。
だが、それを表現するためのストーリーを作ろうよ。作ってくれよ。
テーマを叫ぶついでにストーリーがあるんじゃないよ。ストーリーのなかに、テーマがあるんだよ。
1行の台詞を言わせるために、5万行の物語を書くんじゃないか。
それがエンタメだろう?
1時間半の芝居の中で、ストーリーの動きはほとんどナシ。主人公たちがテーマを語り合うだけの、ひとつの場面がえんえんえんえん続く。
あらすじを書こうとして、途方に暮れたもんな。
ナリス様とヴァレリウスが向かい合って「おお」だの「お美しい」だの会話してるだけで文庫本1冊終わってしまう、かの大河小説を見ているかのようだった。
キムシンが鼻息荒く掲げているテーマについては、今のところつっこむ気はなし。今はそれ以前の段階で顎が落ちたからさ。
テーマを台詞で会話するだけで、ストーリーがないなんて……。
ちゃんとエピソードを絡ませて、物語を作って、そのなかでどーして表現しないのか。
台詞の応酬だけじゃ、せっかく鼻息荒く唱えているすばらしいらしーテーマも、なに言ってんだかわかんねーよ。登場人物がなにをしたいのか、なにをやってんのか、さっぱりわかんねーよ。
よくわかんねーけど、なんか妙なことで悩んでいるスサノオと、なにがしたいのかわかんねーけどお色気むんむんのアオセトナと、分裂症かな言動意味不明のアマテラスが、とりあえずきれーでかっこよくてコスプレすてきで、太鼓どんどんで大人数でパワー炸裂で、とりあえずエンドマーク、てなことになってますがな。えらいこっちゃ。
とまあ、「物語」として見た場合はコレ、大失敗作だと思うのよね。わたしは。
2時間半の1本モノなら、まだなんとかなったのかもな。
時間があればもっとエピソードを作っていたと思う。
1時間半でやるにはテーマが多すぎた。致命的な欠陥。
「物語」として見た場合の話よ。
それ以外の話を、翌日欄で続けます。
そっか、もうそんな時期なのか……マジ忘れてた……。WHITEちゃんにメールもらって思い出したわ。
いつものごとく、予備知識はなにもナシ。立ち見券買って、いつもの場所で機嫌良く観劇。
まずミュージカル『スサノオ−創国の魁ー』。
姉弟ゲンカが元で、アマテラスオオミカミ@ガイチが天の岩戸に隠れ、大和の国から光が消えてしまった。
太陽が隠れてしまった大和の民は、生活していくために仕方なくヤマタノオロチに生贄を差し出して長らえている。今年の生贄はイナダヒメ@まーちゃんだ。生贄になることを拒み、大和の民から追われていたイナダヒメを助けた男がスサノオ@コムちゃん。アマテラスが隠れてしまった元凶、姉とケンカをした弟だ。
後悔と自己否定でいっぱいのスサノオは、イナダヒメを助けたのはいいが、ヤマタノオロチ退治には消極的。それでもふたりは、オロチの棲む森へ向かう。
そこではなんと、先にオロチの生贄となり、死んだはずのイナダヒメの姉たちが生きていた! 森の統治者アオセトナ@水くんに守られていたのだ。アオセトナとは何者か。そして、ヤマタノオロチ退治はどうなる? でもってアマテラスは天の岩戸から出てくるのか? てな話……のはず。
えー、わたしは本来、キムシン作品が好きです。
なかなかツボに合うんだわ。
だから期待していたの。キムシンの新作に。
キムシン最新作『スサノオ』。
ひとことで言うと、ものすげえ恥ずかしい作品でした。
あっちゃー。
やっちゃったよー。うわー。恥ずぅ。
観ていて、恥ずかしさに身悶えしちゃったよ。
モノを創る人間には、なにかしら「叫びたいこと」がある。
「表現したいこと」がある。
このひとことを叫びたいがためだけに、この作品を書く。……てなことが、たしかにある。
それはわかってる。知ってるよ。
でもな。
エンタメ作品のクリエイターならば、自分自身の「叫び」よりも、「エンタメ作品」を優先せねばならんのだ。
魅力的なキャラ、起承転結のあるストーリー、盛り上がるクライマックス、みんなが納得するラストシーン。
それをやったうえではじめて、「叫び」を組み込むことが許される。
エンタメ力と、テーマ性のバランス。
これが大切。
エンタメであることを忘れ、作者自身の叫びばかりが大きくなる。
……クリエイターに、ものすっげーありがちなこと。
とくに、エンタメ作家としてある程度成功し、名声を得てしまった作家が陥りやすい。
「大衆文化」だからたくさんの人に知られることになり、そこでちょっと「テーマ性」をちらつかせたらその部分を特に評価された。
「テーマ性」ってのはダイレクトにその作家の「人間性」に触れてくる。つまり、テーマ部分を誉められるってのは、作家本人の人格を誉められるよーなもん。
テーマ部分を誉められたもんだから、作家はどんどん暴走する。自分の叫びが正しいことを盲信し、自分が叫ぶことにこそ意義があると信じて盲進する。
それは俗に、カンチガイと言う。
そもそも「大衆文化」だから、たくさんの人が見てくれたわけだ。はじめから作家個人の「叫び」だけを重要視する「純文学畑」だったら、あんなにたくさんの人は見てくれていなかった。
なのに、カンチガイした作家はどんどん「純文学」に傾倒する。
いやあの、「エンタメ」だから評価されたんであって、アンタが「純文学作家」なら誰も振り向きもしないよ? てなカンチガイ道を自信満々に暴走する。
エンタメ作家でありながら、エンタメを否定する。
大衆をバカにし、高尚な自分に酔う。
…………そんなクリエイターを、何人見てきただろう…………。
最初はものすごーくおもしろくて、そのなかにもちらりと光るテーマがあって、とても気持ちのいい作品を創ってたのに。
売れてきたら、なにをカンチガイしたのか、社会派を気取って自己満足なだけのつまらない作品しか創らなくなった……。
あー、いるよなー、たくさん。
娯楽作品を書くからこそ価値のある作家なのに。
最初から芸術・純文学作家としてなら、まったく振り向かれもしないのに。
カンチガイして、マスターベーション大安売り。
という、クリエイターの陥りやすい罠。
「陥りやすい」ことで、「ありがち」だからこそ、そんなありふれたコースに足を踏み入れる作家の姿は、わたしにはとてもかっこわるく、恥ずかしく映る。
は、恥ずかしい……。
身の置きどころがなく、恥ずかしい。
やっぱ、自分に引き寄せて考えちゃうからかな。
自分があんなふうになったらいちばんいやだ、と思い、知らないうちにああなってしまうかも、という危惧を持っている姿だから。
同類嫌悪かもしれん。
だがとにかく、わたしにはものすげー恥ずかしかった。
キムシン最新作『スサノオ』。
はっきり言って、ストーリーありません!
ただただ、作者がテーマを叫んでいるだけです!!
恥ずかしい……。
誰か、止めてやれなかったのか。
ストーリーを作ることは、難しい。
だが、テーマを叫ぶことは、易しい。
経験を積み、実績をあげ、名声を得て何故、簡単な方に流れるんだよ、キムシン。
テーマを叫ぶのはいい。
だが、それを表現するためのストーリーを作ろうよ。作ってくれよ。
テーマを叫ぶついでにストーリーがあるんじゃないよ。ストーリーのなかに、テーマがあるんだよ。
1行の台詞を言わせるために、5万行の物語を書くんじゃないか。
それがエンタメだろう?
1時間半の芝居の中で、ストーリーの動きはほとんどナシ。主人公たちがテーマを語り合うだけの、ひとつの場面がえんえんえんえん続く。
あらすじを書こうとして、途方に暮れたもんな。
ナリス様とヴァレリウスが向かい合って「おお」だの「お美しい」だの会話してるだけで文庫本1冊終わってしまう、かの大河小説を見ているかのようだった。
キムシンが鼻息荒く掲げているテーマについては、今のところつっこむ気はなし。今はそれ以前の段階で顎が落ちたからさ。
テーマを台詞で会話するだけで、ストーリーがないなんて……。
ちゃんとエピソードを絡ませて、物語を作って、そのなかでどーして表現しないのか。
台詞の応酬だけじゃ、せっかく鼻息荒く唱えているすばらしいらしーテーマも、なに言ってんだかわかんねーよ。登場人物がなにをしたいのか、なにをやってんのか、さっぱりわかんねーよ。
よくわかんねーけど、なんか妙なことで悩んでいるスサノオと、なにがしたいのかわかんねーけどお色気むんむんのアオセトナと、分裂症かな言動意味不明のアマテラスが、とりあえずきれーでかっこよくてコスプレすてきで、太鼓どんどんで大人数でパワー炸裂で、とりあえずエンドマーク、てなことになってますがな。えらいこっちゃ。
とまあ、「物語」として見た場合はコレ、大失敗作だと思うのよね。わたしは。
2時間半の1本モノなら、まだなんとかなったのかもな。
時間があればもっとエピソードを作っていたと思う。
1時間半でやるにはテーマが多すぎた。致命的な欠陥。
「物語」として見た場合の話よ。
それ以外の話を、翌日欄で続けます。
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