バウホールの椅子は、薄い。

 バウホールにしろ大劇場にしろ、さすが宝塚の劇場、夢を損なうことなく居住性のいいきれいな椅子だ。
 でも。
 大劇場に比べて、バウは微妙に薄いんだ。

 それを身をもって知った最初のきっかけは、バウホールで『血と砂』が上演されていたときだ。
 わたしは「我が人生でここまでハマることが他にあるだろうか。いやない。(反語)」ってくらい、ハマりきって劇場に通っていた。何回観に行ったんだっけな。おぼえてないけど、たぶん、自己最高回数。

 その、何回目かの観劇において。

 顰蹙な客がひとりいた。

 その人は、どでかいカメラを持ち込み、周囲を完全無視で撮影しまくっていたんだ。
 舞台の盗撮ではない。
 そのとき客席に「客として」やってきていた某スターを撮っていたんだ。

 彼女はおそらく、舞台になんの興味もなかったんだろう。某スターがバウの客席に現れると前もって知り、写真を撮るためだけにチケットを手に入れた。
 幕が下りる少し前から舞台なんか観もせず、巨大なカメラバッグを開け、音をたてながらカメラの用意をする。そして客電が点くなり撮影。幕間は、ひたすらカメラのチェック。
 2幕の終わりなんか、出演者の挨拶に尻を向けて通路に立ち、立ち去る瞬間の客席の某スターを連射し続ける。

 上演している舞台を撮影しているわけじゃないから、これらの行動はすべて野放しだ。

 しかし。
 わたしは舞台の盗撮以上に、不快だった。

 舞台を観る気がないなら、来るな。
 某スターを撮るためだけに、舞台の邪魔をするな。
 真剣に演じ、それをまた真剣に観劇している他の客全員を愚弄するな。

 違法行為はしていない。だから誰も彼女をとがめない。
 わたしもなにも言う気はない。某スターの名前も出さない。
 彼女にとっての人生の優先順位は、某スターの写真を撮ることで、某スターの出ていない舞台なんざどーでもいいんだろう。上演中も舞台ではなく客席だけを見、時計を何度も確認し、終わりに近づくとカメラを持って通路でスタンバイするのも、常識なんだろうさ。

 某スターは、通路にしゃがんで待ちかまえ、真正面から自分の写真を撮るその女性に一瞥をくれ、さっさと退場していった。

 某スターがいなくなったんだから、それで終わってくれればよかったんだけど。
 その女性は席から動かない。カメラのチェックに忙しいようだ。
 あの、舞台はもう終わったんですが。観客はそれぞれ席を立っているんですが。
 通路際のあなたが動いてくれないと、不便なんですが。

 なにしろ彼女は巨大なカメラバッグを足下に置いているので、前を通ることもできないのさ。
 もちろん、「某スター様」以外の世界が存在しない彼女は、荷物をどけて通路をつくるなんてことはしない。自分の作業に夢中。

 おかげで起こる、交通渋滞。
 わたしたちの列だけ、片方が彼女によってせき止められ、もう片方から通路を目指すしかなくなった。

 彼女の隣の席だったわたしは、当然列の最後尾になる。
 いらいらいら。
 渋滞自体いやなものなのに、そのうえ、この不快な女の隣で列が進むのを待つのはさらに精神衛生上よくない。

 つーことで仕方なくわたしは、座席をまたぎました。

 椅子をまたいで、後ろの列に降り、そのままさっさとホールを出た。渋滞しているのはわたしたちの列だけで、後ろの列はもう人がいなかったもの。

 
 とまあ、書いてるうちにいろいろ思い出してむかついたので(笑)長くなっちゃったけど、結論はバウホールの椅子は、簡単にまたぐことができるということ。

 
 さて。
 このことにわたしは、味を占めた。
 劇場を出る際の交通渋滞、好きじゃないんだわー。ちゃきちゃき歩きたいのよ、大阪人としては。
 だからつい、大劇でもやっちゃったのだわ。

 自分の列の進みが遅く渋滞こいてるのに、後ろの列がすいていた場合。
 座席、またいじゃえ!

 
 宝塚トリビア。
 大劇場の椅子は、バウホールの椅子より、分厚い。

 …………またげなかったの!!
 背もたれを「よいしょ」っとまたいだ状態で、足が反対側に届かなかったのよ!!

 ああ、あの身も凍る一瞬!!

 ふつーに考えて、座席をまたぐなんてことは、はしたない行為です。
 だからやるときは躊躇なく、一瞬で行わなければなりません。周囲の人を蹴飛ばしたりしないよーに、また、椅子に靴を当てて汚したりしないよーに、ひょいっとスマートにまたがなければなりません。
 周囲の人が気づかないくらいの瞬間技でなくては、ならないんですってば。

 なのに。
 足が、届かない。

 わたしは、座席にまたがった姿のまま、固まりました。
 両足は床から浮き、背もたれを股ではさんだ姿のまま。固定。
 わたしの股はゆーてます。

 
「思ってたより、分厚い!!」

 
 ああ。
 バカですかわたしは。バカですがな!!

 まあ、凍りついていたのは一瞬で、あとは必死こいて後ろの通路側へ体重移動してなんとか片脚を床につけ、残った脚を引きずり下ろしたけどな。それほど時間はかかってなかったと思うけどな。

 こうしてわたしは、身をもって知ったのだ。
 バウホールの椅子はまたげる分厚さ。
 しかし、大劇はまたげない。

 
 みなさんも、大劇場の椅子をまたぐときは、気をつけてください。
 バウホールの椅子より、分厚いっすよ! 知らずにまたぐと凍りますよ!!

 
 そして。
 話はバウホールに戻る。

 
 バウの椅子は、薄い。
 わたしはいつも、背もたれに盛大にもたれかかって観劇する。沈み込むよーに坐る。
 この間の花バウ初日もまた、そうやって坐っていた。

 そのわたしの耳に。

 真後ろから、低い呼吸音がずーっと、聞こえていた。

 コーホー、コーホー。
 シュゴーッ、シューッ。
 スー、ハー、スー、ハー。

 真後ろ、しかも耳のすぐ後ろだ!!

 感じるのは、並々ならぬプレッシャー。
 わたしのアタマのすぐ後ろの空間に、誰かの顔がある!! つか、呼吸してる!!
 いや、生きてるんだから呼吸するだろうけど……し、しかしアタマのすぐ後ろは、なにもない空間のはずでしょ? 宝塚の座席は空間に余裕があるんだから。座席にふつうに坐ってたら、前の席の背もたれにくっつくよーな位置に顔は来ないよ!
 よっぽど前のめりになってるってこと? しかし、こんなに椅子と椅子が離れてるのに? ものすげー座高の高い人がカラダをくの字に追ってるってこと??

 疑問が回る。
 それでも振り返れない。だって、気配はわたしの顔のすぐ真後ろなんだよ? 振り返ってそこに目があったら、こわいじゃないかぁぁあ。

 
 結局、休憩時間にこっそり振り返って確認しました。

 わたしの後ろに坐っていたのは、ものすげー体格のいい男性でした。まるい……。

 な、なるほど……。
 あの分厚さならば、椅子にふつーに坐っても、顔が前に押し出されちゃうんだ……。でもって、音のしない呼吸ができないんだ……。

 そして、バウホールの椅子は薄い。
 彼のやたら大きな呼吸音は、リアルに前の席のわたしの耳に届くんだ。

 スーコーッ、スーコーッ。シューッ、シューッ。

 舞台では萌え萌えな世界。耳の後ろにはダースベイダー。
 ちょっとスリリング。

         

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