健康な人は、そのまっすぐさを誇ればいい。@ドルチェ・ヴィータ!
2004年8月25日 タカラヅカ 叫んでも誰も答えをくれなかったけど、博多座公演『ロマンチカ宝塚’04−ドルチェ・ヴィータ!−』の船のシーンで、ワタさんとケロさんがいちゃいちゃしていたのは、なんだったの?
ああいう演出なの? アドリブなの? みんなはアレを見て、なんとも思わないの? 腐女子は叫ばないの? そして、腐女子以外の人は、なんだと思って見ているの?
……謎だ。
さて、一般的に作家というモノは、良くも悪くもデビュー作にその作家のすべてが凝縮されている、という。
どれほど作風を変えたとしても、成長したとしても、やっぱり最初の1本にはすべてに通じるものがあるのだと。
荻田浩一にしても、そうなんだろうなと思う。
彼のショー・デビュー作である『パッサージュ』。
良くも悪くも、荻田浩一というクリエイターの象徴的作品なんだな。
わたしは、『パッサージュ』という作品に出会ったとき、人生変わるくらいショックを受けた。
幕開きからフィナーレまで、壊れたみたいに泣いていた。
こんなこわい思いをしたことなかった。
こんな痛さがあることを知らなかった。
『パッサージュ』についてかねすきさんと思い存分語り合ったあと、精神的に限界がきて、駅で倒れた。
人は、精神的ショックで立てなくなるのだということを、身をもって知った。
『パッサージュ』で描かれていたのは、絶望だった。
それは、美しい絶望。
甘美な破滅。
硝子が壊れる音に似た、死への誘い。
……これ見てスイッチ入っちゃった人が、発作的に自殺したとしても、わたしはおどろかない。
それくらい、おっそろしー作品だった。
オギーのすごいところは、ここまでおそろしいものを描いていても、ふつーの人には気づかせないことだ。ただ「美しいショー」だと思わせてしまっている。
「心が健康な人には、必要ないからですよ」
と、かねすきさんは言った。
ふつうの、健康な人にはあの絶望が見えない。あの痛さが伝わらない。ただ美しいだけに見える。
いやその、わたしもべつに、自分が不健康だと思っていたわけではないが……他の人たちが平気であのおそろしいものを見ているのが不思議だったので、かねすきさんの意見はすとんと納得できた。
健康な人には必要ない。
でも、わたしには必要だ。
あの痛さが。
絶望が。恐怖が。毒が。
何回観に行ったかな。毎回、観終わったあとは消耗するくらい泣き通し、心をかき乱された。
そして、期待と不安があった。
オギーという作家は、これからどうなるんだろう? いつまでこんな作品を作り続けるのだろう?
彼自身が大人になれば、こんなおそろしいものを吐き出し続けるような真似はしなくなるだろう。それは成熟なのか、退化なのか?
彼のこのぎりぎりのところで立ち止まっている才能は、いつまでバランスを保っていられるのだろう?
だっていつまでも、絶望ばかりを描いていられないだろう、商業作家ならば。
エンタメ作家である以上、愛や夢、幸福や生きる意欲を創らなければならない。
商業主義と作家性を、折り合いつけて生きていけるのだろうか?
そう思っていたところに、2作目のショー『バビロン』が上演される。
オギーは大人になっていた。
『パッサージュ』にあった剥き出しの毒は薄められていた。「白い鳩」のシーンなどに残ってはいたけれど、彼はちゃんと方向を見つけていた。
商業作家として生きていく道を。
たぶん、オギーの作家としての本質は『パッサージュ』なんだと思う。剥き出しの絶望、波長の合う人間の精神を破壊しかねない毒。
でもそれじゃ作家として立ちゆかない。
本質を薄め、他のモノでカムフラージュして、エンタメとして練り直す。
愛や希望や、お客さんの求めるモノをちゃんと差し出す。
それは、正しいことだ。
彼は進歩している。
博多座公演『ドルチェ・ヴィータ!』を観て、その感を深くした。
『バビロン』で大衆性に目覚めた彼は、さらにより大衆にわかりやすく、受け入れやすいモノを創っている。
自己満足ではなく、多くの人に満足してもらえるモノを、創ろうとしているんだ。
それは、正しいことだ。
クリエイターとして、エンタメ作家として、正しい進化だ。
でも。
わたしは彼の、剥き出しの慟哭が好きだったよ。
大衆なんか置き去りで、「ついてくるモノだけついてこい」な絶望全開ぶりが、好きだった。
心を壊されてもいいから、その世界を漂いたかった。
オギーはこれからもきっと、質の高いエンターテイメントを作り続けるだろう。
誰が見ても美しく、センスがよく、たのしめるものを。
……もう、見た人が自殺したくなるような、おそろしいメッセージの入ったモノは、創らないんだろうね。少なくともヅカでは。
彼の姿勢は正しいけれど、わたしはちょっとさみしかった。
さみしかったよ。
なーんてたわごとを並べておりますが、早い話が『ドルチェ・ヴィータ!』は、すばらしい作品だった。ということですよ。
オギー、いい仕事してるなあ、毎回成長が見えるってのがすごいよなあ。
今年は90周年だとかで、ショーのタイトルにはすべて「タカラヅカ」という単語を入れなければならない、という笑止なしばりがあったので、この作品にも『ロマンチカ宝塚』という苦肉の策なタイトルがつけられております。
が、オギー自身の正式タイトルは『ドルチェ・ヴィータ!』でしょう。あんなくだらないしばりがなければ、オギーはふつーに『ドルチェ・ヴィータ!−*****−』という、いつものオギーらしい美しいタイトルを付けていたはず。
そう思うと、くやしくてならないわ。
オギーはいつも、サブタイトルとして、ショーの本質を美しい言葉でつけるのに。
『パッサージュ−硝子の空の記憶−』
『バビロンー浮遊する摩天楼ー』
ときて、『ドルチェ・ヴィータ!』もまた絶対、なにかしら美しいサブタイトルがついていたはずなのよ!
90周年のバカ。
ぜんぜん語り足りてないっていうか、前振り長すぎだ自分。
いつもにも増して痛い語りっちゅーか、緑野自己愛強すぎ!っていうか、恥ずかしいヤツっていうか。腐女子語りよりオギー語りの方が、さらにバカ丸出しになるっていうのは、いかがなものか。あー、うー。
ってことで、次の欄につづく。
ああいう演出なの? アドリブなの? みんなはアレを見て、なんとも思わないの? 腐女子は叫ばないの? そして、腐女子以外の人は、なんだと思って見ているの?
……謎だ。
さて、一般的に作家というモノは、良くも悪くもデビュー作にその作家のすべてが凝縮されている、という。
どれほど作風を変えたとしても、成長したとしても、やっぱり最初の1本にはすべてに通じるものがあるのだと。
荻田浩一にしても、そうなんだろうなと思う。
彼のショー・デビュー作である『パッサージュ』。
良くも悪くも、荻田浩一というクリエイターの象徴的作品なんだな。
わたしは、『パッサージュ』という作品に出会ったとき、人生変わるくらいショックを受けた。
幕開きからフィナーレまで、壊れたみたいに泣いていた。
こんなこわい思いをしたことなかった。
こんな痛さがあることを知らなかった。
『パッサージュ』についてかねすきさんと思い存分語り合ったあと、精神的に限界がきて、駅で倒れた。
人は、精神的ショックで立てなくなるのだということを、身をもって知った。
『パッサージュ』で描かれていたのは、絶望だった。
それは、美しい絶望。
甘美な破滅。
硝子が壊れる音に似た、死への誘い。
……これ見てスイッチ入っちゃった人が、発作的に自殺したとしても、わたしはおどろかない。
それくらい、おっそろしー作品だった。
オギーのすごいところは、ここまでおそろしいものを描いていても、ふつーの人には気づかせないことだ。ただ「美しいショー」だと思わせてしまっている。
「心が健康な人には、必要ないからですよ」
と、かねすきさんは言った。
ふつうの、健康な人にはあの絶望が見えない。あの痛さが伝わらない。ただ美しいだけに見える。
いやその、わたしもべつに、自分が不健康だと思っていたわけではないが……他の人たちが平気であのおそろしいものを見ているのが不思議だったので、かねすきさんの意見はすとんと納得できた。
健康な人には必要ない。
でも、わたしには必要だ。
あの痛さが。
絶望が。恐怖が。毒が。
何回観に行ったかな。毎回、観終わったあとは消耗するくらい泣き通し、心をかき乱された。
そして、期待と不安があった。
オギーという作家は、これからどうなるんだろう? いつまでこんな作品を作り続けるのだろう?
彼自身が大人になれば、こんなおそろしいものを吐き出し続けるような真似はしなくなるだろう。それは成熟なのか、退化なのか?
彼のこのぎりぎりのところで立ち止まっている才能は、いつまでバランスを保っていられるのだろう?
だっていつまでも、絶望ばかりを描いていられないだろう、商業作家ならば。
エンタメ作家である以上、愛や夢、幸福や生きる意欲を創らなければならない。
商業主義と作家性を、折り合いつけて生きていけるのだろうか?
そう思っていたところに、2作目のショー『バビロン』が上演される。
オギーは大人になっていた。
『パッサージュ』にあった剥き出しの毒は薄められていた。「白い鳩」のシーンなどに残ってはいたけれど、彼はちゃんと方向を見つけていた。
商業作家として生きていく道を。
たぶん、オギーの作家としての本質は『パッサージュ』なんだと思う。剥き出しの絶望、波長の合う人間の精神を破壊しかねない毒。
でもそれじゃ作家として立ちゆかない。
本質を薄め、他のモノでカムフラージュして、エンタメとして練り直す。
愛や希望や、お客さんの求めるモノをちゃんと差し出す。
それは、正しいことだ。
彼は進歩している。
博多座公演『ドルチェ・ヴィータ!』を観て、その感を深くした。
『バビロン』で大衆性に目覚めた彼は、さらにより大衆にわかりやすく、受け入れやすいモノを創っている。
自己満足ではなく、多くの人に満足してもらえるモノを、創ろうとしているんだ。
それは、正しいことだ。
クリエイターとして、エンタメ作家として、正しい進化だ。
でも。
わたしは彼の、剥き出しの慟哭が好きだったよ。
大衆なんか置き去りで、「ついてくるモノだけついてこい」な絶望全開ぶりが、好きだった。
心を壊されてもいいから、その世界を漂いたかった。
オギーはこれからもきっと、質の高いエンターテイメントを作り続けるだろう。
誰が見ても美しく、センスがよく、たのしめるものを。
……もう、見た人が自殺したくなるような、おそろしいメッセージの入ったモノは、創らないんだろうね。少なくともヅカでは。
彼の姿勢は正しいけれど、わたしはちょっとさみしかった。
さみしかったよ。
なーんてたわごとを並べておりますが、早い話が『ドルチェ・ヴィータ!』は、すばらしい作品だった。ということですよ。
オギー、いい仕事してるなあ、毎回成長が見えるってのがすごいよなあ。
今年は90周年だとかで、ショーのタイトルにはすべて「タカラヅカ」という単語を入れなければならない、という笑止なしばりがあったので、この作品にも『ロマンチカ宝塚』という苦肉の策なタイトルがつけられております。
が、オギー自身の正式タイトルは『ドルチェ・ヴィータ!』でしょう。あんなくだらないしばりがなければ、オギーはふつーに『ドルチェ・ヴィータ!−*****−』という、いつものオギーらしい美しいタイトルを付けていたはず。
そう思うと、くやしくてならないわ。
オギーはいつも、サブタイトルとして、ショーの本質を美しい言葉でつけるのに。
『パッサージュ−硝子の空の記憶−』
『バビロンー浮遊する摩天楼ー』
ときて、『ドルチェ・ヴィータ!』もまた絶対、なにかしら美しいサブタイトルがついていたはずなのよ!
90周年のバカ。
ぜんぜん語り足りてないっていうか、前振り長すぎだ自分。
いつもにも増して痛い語りっちゅーか、緑野自己愛強すぎ!っていうか、恥ずかしいヤツっていうか。腐女子語りよりオギー語りの方が、さらにバカ丸出しになるっていうのは、いかがなものか。あー、うー。
ってことで、次の欄につづく。
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