冷静な感覚が戻らないまま、48時間。
 てゆーかコレたんに、風邪がひどくなっているせいだと思う。夜になると熱が上がる。
 のーみそを使いたくないので、コントローラを握る。『バイオハザード』はやっぱおもしろいねえ。キューブのリメイク『バイオ1』。正しいリメイクだわ。ボリュームアップとクオリティアップしながらも、「お約束」ははずさない器用さ。しかし、なんか『静岡』テイスト入ってない? リサだっけ、鎖の彼女とその周辺はかなりダーク……というか、『勝手に改蔵』の羽美ちゃんの精神世界のよーなこわさがあるんですが……。
 ジル編終了。次はクリスやるべかな。

 クリスを見ていると、ついワタさんを思い出す……。

 
 さて、星組公演『ドルチェ・ヴィータ!』

 細かいことはさておき、キャラクタについてちょいと意外だったこと。

 トウコとまとぶんの、毒のなさ。

 博多座でタニちゃんが演じていたサテュロスはまとぶんが演じ、トウコちゃんはディアボロという新しい役を演じておりました。

 共通項は、両性具有と毒と華。……のはず。

 しかし。
 ふたりとも、それらがとっても薄かったよーな。

 
 改めて、タニの偉大さを知る。
 タニちゃんサテュロスはものすっげー悪の華でした。毒がぎらぎら、なのに目が離せない蠱惑する力。
 問答無用で引きつける力。
 華、とは魔力である。そう思わせる強い強い輝き。

 ふだんのタニちゃんは、耽美世界に邪魔なくらい健康的で幼児的なのにね。
 あの変身ぶりはびっくりだ。
 子どもの残酷さが、オギー演出によって引き出された結果だと思う。虫の足を1本ずつちぎって遊ぶ幼児が持つ、毒。善悪の知識以前の存在が持つ、闇の部分。
 それは本人が無邪気であればあるほど、際立つモノだから。

 
 タニの役がトウコではなくまとぶだ、と聞いたときに納得したんだ。
 まとぶんなら、きっと美しいサテュロスになるだろう、と。まとぶんは黒っぽい役が得意な人だから、タニちゃんよりも柄に合っている分、男役としても女役としても、すばらしいものを見せてくれるだろう、と。

 ところが。
 サテュロスはあきらかにトーンダウンしていた。

 もちろん、まとぶんは美しい。それなりに華もある。
 しかし彼には、毒がなかった。

 まとぶんってさあ、男っぽい芸風で売ってたじゃん。素顔のかわいらしさとのギャップを大きくする戦略だったのかどうかは知らんが。
 黒い役、男くさい役をする人だったじゃん。わたし的には納得がいかなかったが、世間がそう認識しているよーなので、そうなんだろうと思っていた。
 だから毒もあるだろうと思っていたのよ。そこにいるだけで不安をあおるよーな、「棘」を演じられると思って安心していたのよ。

 びっくりだ。
 そうかまとぶん、あなた正当派の白い貴公子だったのね……。やっぱり今までの黒い男っぽさは、つくったものだったんだ……。

 毒のないサテュロスは、ただの美人なおねーさんでしかありません……。目にはたのしいけれど、作品の力にはなっていないっすよ。
 脇役サテュロスのすずみんとみらんくんの方が、「女装した男」だとわかる分、毒々しくて正しいくらいです。

 まとぶんはすっきり二枚目の一等航海士をやっているときの方が、絶対輝いてるっす……。

 
 サテュロスが失速してしまった舞台に、新たに加わったキャラクタ、ディアボロ。

 観る前は、ものすごーく期待していた。
 オギー全開なあの世界に、「悪魔」が加わる。しかも演じるのが陰の魅力を持つトウコ。
 どれほどダークで、痛いものを見せられるのだろうか、と。

 ありゃ?

 悪魔は、「毒」を持つ存在ではありませんでした。
 水先案内人というか、狂言回し? 解説役?

 抽象的だった物語に、ディアボロという「わかりやすい存在」を投入することによって、噛み砕いて説明されちゃってました。
 しかもこのディアポロ、ものすげー饒舌だし。トウコは歌の人だからねー、歌う歌う、歌で解説しまくりー。

 そうか。
 オギーだもんな。

 「悪魔」なんてわかりやすい名前のキャラに、ほんとうに悪魔的な役割をふるわけがない。

 『パッサージュ』でいちばん「毒」に満ちていたのが、「天使」のコムだったよーに。
 『バビロン』でいちばん残酷だったのが、「白い鳩」のかよこだったよーに。

 「悪魔」がほんとに悪魔なわけないじゃん……(笑)。

 そもそもトウコは、陰の魅力を持つ人だが、「毒」は持たない人だ。
 「哀」だとか「翳」だとか「寂」だとかは持っていても、「毒」は持たないんだよ。
 泥に落ちても自分で立ち上がって歩き出す人だから。

 
 ディアボロが「毒」を持たず、サテュロスが「毒」を持たず。
 そんじゃこの作品、どーなっちゃってんの? というと。

 博多座バージョンと、テーマ変わってます。確実に。

 大劇バージョンの『ドルチェ・ヴィータ!』のテーマは、ずばり別れです。

 後半、サヨナラショーみたいになってます。
 えーらいこっちゃ。

 海・船乗り・旅行者・港の街……モチーフはすべて「別れ」を含んだもの。
 出会いと別れ、寄せては返す波、つかのま・たまゆら・いっしゅん。
 なんてたのしそうに、「別れ」を演出していやがるのか。

 唯一の通し役?であり、作品の案内役であるディアボロが、あるときは妖しく、あるときは陽気に、あるときは哀切に、「別れ」を盛り上げる。
 彼個人が毒を持つ必要はない。彼はニュートラルにその場にいればいい。
 愉快なシーンも、きらきら陽気なシーンも、それが「海と港」である以上、舞台の外側には見えない部分に「別れ」の棘を持っている。
 舞台が棘、世界が毒、だから悪魔は案内するだけでいい。

 
 ああ、そして。
 主役であり、この舞台の、世界の中心立つワタさん。

 どんなに世界に棘があっても、別れがあっても、かなしみに満ちていても。
 彼自身、かなしい歌を歌っていても。かなしい役を演じていても。
 ワタさんの持つ生命力が、世界を絶望には染め上げない。

 そこにあるのは、すがすがしい別れだ。
 かなしみの向こうにある、うつくしいものだ。

 世界に、光がさす。
 泣いた人にも笑った人にも、同じように光は射す。

 闇の聖女・檀ちゃんが世界の色を決め、哀と時の吟遊詩人・トウコが語り、それらに翻弄されながらも堅固な存在感で希望を織る……ワタさんがいてこその、『ドルチェ・ヴィータ!』だ。

 
 キャラクタの力。
 その役者が持つ色。

 オギーはそれを全開にさせるから、おもしろいよね。
 「作品よりも人を見る」ヅカとして、正しいよね。

         

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