彼のいない世界。@王家に捧ぐ歌
2005年2月3日 タカラヅカ まず、彼がいない。
そのことが違和感だった。
星組中日公演『王家に捧ぐ歌』。
オープニングがはじまり、耳慣れた台詞、耳慣れた音楽が流れるだけで、涙がだーだー出た。
理屈じゃない。
わたしが生きている証拠だと思う。
役替わりがどうとか、変更がどうとかじゃなくて、ただたんに、「過ぎ去った時の流れ」に巻き込まれて、溺れただけだ。
あの日あのとき、わたしはしあわせだった。
たしかなのは、それだけだ。
わたしは、生きるせつなさや痛さを愛している。それがなきゃ、「こころ」のある「人間」なんて不経済な生物をやっている価値がないと思っている。
わたしは過去がなつかしい。
過去が愛しい。
うしなわれた、にどとかえらないものを、あいして、なつかしんで、こころのいたみをだきしめているのがすきだ。
だから、涙。
生きる醍醐味。
大切なもの、しあわせな時間があったからこそ感じる、今のかなしさ。
それを幸福だと思う。
だから、人知れずだーだー泣きました。
そうさ、あたしゃ泣きに来たんだ。いっぱい泣いて、摩擦されて、魂をまるくしていくんだから。
『王家に捧ぐ歌』は、大好きな作品でした。
わたしの愛した人が、出演している作品でした。
当たり役だと思った。ずーっと好きでいた人に、今さらこんなにめろめろに恋し直すなんて、とうろたえるほどのオチっぷりでした。
その人は、もういません。
1年半前、この作品を大劇場で、東宝で観ていたときは、こんな未来がやってくるなんて夢にも思わず、幸福の絶頂にいました。
わたしは16列目に坐っていたので、当然のようにオペラグラスを使っていたのだけど、冒頭のラダメスとアイーダが船に乗って出てくるところを見た瞬間に、敗北宣言。
オペラグラス使用はやめました。
痛いから。
この「作品」にもう一度出会えた。
そのことが、そのことだけがすでにものすごく痛いから、せっかくだからその痛みに集中しようと思った。
だってさあ、もったいないじゃん? ふつーに生きていてたら、誰のことも好きじゃなかったら、味わえない痛みなんだよ?
貪欲なわたしは、自分の心の動きを味わい尽くしたくて、「作品全体」を見ることに決めた。誰がどこに出ているとか、どんなことをしているとか、気にするのはまた次にしよう。
こんにちは、『王家』。また会えたね。
うれしいよ。大好きだよ。
……そう。
大好きなんだわ。
彼がいたから、彼があまりに素敵だったから、拍車がかかっていたけど、たとえ彼が出演していなくても、好きな作品だったんだ。
最初はたしかに「彼がいない」ことにだーだー泣いていたのに、途中から、作品自体にだーだー泣いていた。
好きなんだってば。
作品が、キャラが好きなの。
たのしいんだもん。わくわくするんだもん。どきどきするんだもん。
彼はいない。
だけど、わたしは生きていく。
彼がいた、彼の愛した世界を、これからも愛していく。
単純ですから、わたし!
いつでもHAPPY LIFE。
たのしかったよ、中日版『王家に捧ぐ歌』。
宝塚大劇場ってほんと、どでかい劇場なんだよね。よそへ行くと、それがよくわかる。
中日劇場も十分大きな劇場だと思うけど、それでも「小さい」もの。
うわー、舞台せまっ。
こんなにせまいところで、『王家』がやれるんかいな。
って感じ、するもんなあ。
ハコに関してのいちばん大きな違いは、銀橋がないことと、幅が狭いこと。
それでも、あの壁画と階段のあるセットは作られていたし、銀橋芝居もうまく本舞台や上下の短い花道を使ってまとめていた。
わたしがはじめて観た地方公演は、福岡の『ベルサイユのばら』で、そのとき「銀橋がないと、こーゆーことになるんだ」とがっかりした記憶がある。
本舞台の端から1メートルくらいを「銀橋」に見立てて、そこは一切使わない。
芝居は全部、舞台の奥の方でやり、銀橋を使うときは舞台の端を歩く。
舞台はあと1メートルも客席に近いところまであるのに、わざと使わない。だってそこは、「銀橋」設定だから。ふだんの芝居、つまり上演時間のほとんどは、舞台全部を使わない。
遠い遠い舞台。
前方席チケットなんか取れるはずもなかった、なんのツテもスキルもない若かったわたしとツレは、いちばん後ろの席からその遠い舞台を必死に眺めていた。
どうしてもその記憶があるもんだから。
銀橋芝居の多かった『王家』をどうするのか、興味深かった。
『王家』は、あの『ベルばら』みたいに、なんとかのひとつおぼえ的舞台の使い方は、してなかった。
銀橋のシーンは、舞台前方のタイトロープを銀橋に見立てる定番のやり方だけでなく、舞台中央を縦に使ったりして工夫されていた。
中日版を最初に観た人は、どこが本来の銀橋シーンなのか、全部はわからないかも?
作品構成でいちばん大きな変化は、凱旋シーンの変更。
不評の限りを尽くしたあの凱旋シーンが、別物になってますよ!!
暗転のなか、「凱旋だーっ」の声が響き、あの音楽が流れ出したときは、「げっ、このシーンカットになってねえのかよ」とげんなりしたんだけど。
暗闇の中、ライトに照らされ浮かび上がるひとりの男。
ええっ、メレルカ@みらんくんっ?!
メレルカのダンスソロからはじまりやがりますよ、凱旋シーン!
しかも生髪ですよ。あのみょーーなかぶりものナシっすよ。
うわわわ、かっこいー!
兵士たちの総踊りに、ラダメス@ワタル登場。たしか脚をケガしてたはずだが(なんで脚に変更されたんだろう……そんなとこだと、一歩まちがうとお尻を刺されたように見えちゃうんだけど……)、そんな設定どこにもなく、元気に踊ってくれる。
振り付けは微妙な感じがしないでもないが、元の凱旋シーンに比べれば百倍マシだ。やったー!
ファラオのブランコがなかったとか、地下牢の入口が小人サイズでワタさんがアタマぶつけたよーに見えたとか(笑)、フィナーレの5人歌&ダンスがまとぶんソロになっていて、あまりに長くて場が持たなかったとか(5人で歌い継ぐシーンをひとりで、じゃあそりゃ自爆するわなあ。『エリザベート』でトートたちが昇天した後出てきたフランツが主題歌を2番までひとりで歌うくらい無謀だ←もちろん1番だけです)、かぶりものワタさんと脚線美トウコがちゃんが絡むとか(ケロとハイタッチしてきゃぴきゃぴしていたシーンな……そうか、第二の男がいないと、まっとーに旦那と絡むんだ。←いや、チガウから!)、他にも小さな変更はいろいろありました。
内容的にいちばん印象がちがったのは、「主役3人だけの物語」に見えたこと。ムラより東宝より、ラダメスとアイーダ、アムネリスのラヴストーリーとして際立って見えた。小劇場らしく、キャラをしぼってきたな、って感じ。
なんでかなー、と思って。
愕然。
ウバルドが、恋敵じゃないからだ。
続く〜〜。
そのことが違和感だった。
星組中日公演『王家に捧ぐ歌』。
オープニングがはじまり、耳慣れた台詞、耳慣れた音楽が流れるだけで、涙がだーだー出た。
理屈じゃない。
わたしが生きている証拠だと思う。
役替わりがどうとか、変更がどうとかじゃなくて、ただたんに、「過ぎ去った時の流れ」に巻き込まれて、溺れただけだ。
あの日あのとき、わたしはしあわせだった。
たしかなのは、それだけだ。
わたしは、生きるせつなさや痛さを愛している。それがなきゃ、「こころ」のある「人間」なんて不経済な生物をやっている価値がないと思っている。
わたしは過去がなつかしい。
過去が愛しい。
うしなわれた、にどとかえらないものを、あいして、なつかしんで、こころのいたみをだきしめているのがすきだ。
だから、涙。
生きる醍醐味。
大切なもの、しあわせな時間があったからこそ感じる、今のかなしさ。
それを幸福だと思う。
だから、人知れずだーだー泣きました。
そうさ、あたしゃ泣きに来たんだ。いっぱい泣いて、摩擦されて、魂をまるくしていくんだから。
『王家に捧ぐ歌』は、大好きな作品でした。
わたしの愛した人が、出演している作品でした。
当たり役だと思った。ずーっと好きでいた人に、今さらこんなにめろめろに恋し直すなんて、とうろたえるほどのオチっぷりでした。
その人は、もういません。
1年半前、この作品を大劇場で、東宝で観ていたときは、こんな未来がやってくるなんて夢にも思わず、幸福の絶頂にいました。
わたしは16列目に坐っていたので、当然のようにオペラグラスを使っていたのだけど、冒頭のラダメスとアイーダが船に乗って出てくるところを見た瞬間に、敗北宣言。
オペラグラス使用はやめました。
痛いから。
この「作品」にもう一度出会えた。
そのことが、そのことだけがすでにものすごく痛いから、せっかくだからその痛みに集中しようと思った。
だってさあ、もったいないじゃん? ふつーに生きていてたら、誰のことも好きじゃなかったら、味わえない痛みなんだよ?
貪欲なわたしは、自分の心の動きを味わい尽くしたくて、「作品全体」を見ることに決めた。誰がどこに出ているとか、どんなことをしているとか、気にするのはまた次にしよう。
こんにちは、『王家』。また会えたね。
うれしいよ。大好きだよ。
……そう。
大好きなんだわ。
彼がいたから、彼があまりに素敵だったから、拍車がかかっていたけど、たとえ彼が出演していなくても、好きな作品だったんだ。
最初はたしかに「彼がいない」ことにだーだー泣いていたのに、途中から、作品自体にだーだー泣いていた。
好きなんだってば。
作品が、キャラが好きなの。
たのしいんだもん。わくわくするんだもん。どきどきするんだもん。
彼はいない。
だけど、わたしは生きていく。
彼がいた、彼の愛した世界を、これからも愛していく。
単純ですから、わたし!
いつでもHAPPY LIFE。
たのしかったよ、中日版『王家に捧ぐ歌』。
宝塚大劇場ってほんと、どでかい劇場なんだよね。よそへ行くと、それがよくわかる。
中日劇場も十分大きな劇場だと思うけど、それでも「小さい」もの。
うわー、舞台せまっ。
こんなにせまいところで、『王家』がやれるんかいな。
って感じ、するもんなあ。
ハコに関してのいちばん大きな違いは、銀橋がないことと、幅が狭いこと。
それでも、あの壁画と階段のあるセットは作られていたし、銀橋芝居もうまく本舞台や上下の短い花道を使ってまとめていた。
わたしがはじめて観た地方公演は、福岡の『ベルサイユのばら』で、そのとき「銀橋がないと、こーゆーことになるんだ」とがっかりした記憶がある。
本舞台の端から1メートルくらいを「銀橋」に見立てて、そこは一切使わない。
芝居は全部、舞台の奥の方でやり、銀橋を使うときは舞台の端を歩く。
舞台はあと1メートルも客席に近いところまであるのに、わざと使わない。だってそこは、「銀橋」設定だから。ふだんの芝居、つまり上演時間のほとんどは、舞台全部を使わない。
遠い遠い舞台。
前方席チケットなんか取れるはずもなかった、なんのツテもスキルもない若かったわたしとツレは、いちばん後ろの席からその遠い舞台を必死に眺めていた。
どうしてもその記憶があるもんだから。
銀橋芝居の多かった『王家』をどうするのか、興味深かった。
『王家』は、あの『ベルばら』みたいに、なんとかのひとつおぼえ的舞台の使い方は、してなかった。
銀橋のシーンは、舞台前方のタイトロープを銀橋に見立てる定番のやり方だけでなく、舞台中央を縦に使ったりして工夫されていた。
中日版を最初に観た人は、どこが本来の銀橋シーンなのか、全部はわからないかも?
作品構成でいちばん大きな変化は、凱旋シーンの変更。
不評の限りを尽くしたあの凱旋シーンが、別物になってますよ!!
暗転のなか、「凱旋だーっ」の声が響き、あの音楽が流れ出したときは、「げっ、このシーンカットになってねえのかよ」とげんなりしたんだけど。
暗闇の中、ライトに照らされ浮かび上がるひとりの男。
ええっ、メレルカ@みらんくんっ?!
メレルカのダンスソロからはじまりやがりますよ、凱旋シーン!
しかも生髪ですよ。あのみょーーなかぶりものナシっすよ。
うわわわ、かっこいー!
兵士たちの総踊りに、ラダメス@ワタル登場。たしか脚をケガしてたはずだが(なんで脚に変更されたんだろう……そんなとこだと、一歩まちがうとお尻を刺されたように見えちゃうんだけど……)、そんな設定どこにもなく、元気に踊ってくれる。
振り付けは微妙な感じがしないでもないが、元の凱旋シーンに比べれば百倍マシだ。やったー!
ファラオのブランコがなかったとか、地下牢の入口が小人サイズでワタさんがアタマぶつけたよーに見えたとか(笑)、フィナーレの5人歌&ダンスがまとぶんソロになっていて、あまりに長くて場が持たなかったとか(5人で歌い継ぐシーンをひとりで、じゃあそりゃ自爆するわなあ。『エリザベート』でトートたちが昇天した後出てきたフランツが主題歌を2番までひとりで歌うくらい無謀だ←もちろん1番だけです)、かぶりものワタさんと脚線美トウコがちゃんが絡むとか(ケロとハイタッチしてきゃぴきゃぴしていたシーンな……そうか、第二の男がいないと、まっとーに旦那と絡むんだ。←いや、チガウから!)、他にも小さな変更はいろいろありました。
内容的にいちばん印象がちがったのは、「主役3人だけの物語」に見えたこと。ムラより東宝より、ラダメスとアイーダ、アムネリスのラヴストーリーとして際立って見えた。小劇場らしく、キャラをしぼってきたな、って感じ。
なんでかなー、と思って。
愕然。
ウバルドが、恋敵じゃないからだ。
続く〜〜。
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