まず、彼がいない。

 そのことが違和感だった。

 星組中日公演『王家に捧ぐ歌』

 
 オープニングがはじまり、耳慣れた台詞、耳慣れた音楽が流れるだけで、涙がだーだー出た。
 理屈じゃない。
 わたしが生きている証拠だと思う。

 役替わりがどうとか、変更がどうとかじゃなくて、ただたんに、「過ぎ去った時の流れ」に巻き込まれて、溺れただけだ。

 あの日あのとき、わたしはしあわせだった。

 たしかなのは、それだけだ。

 わたしは、生きるせつなさや痛さを愛している。それがなきゃ、「こころ」のある「人間」なんて不経済な生物をやっている価値がないと思っている。
 わたしは過去がなつかしい。
 過去が愛しい。
 うしなわれた、にどとかえらないものを、あいして、なつかしんで、こころのいたみをだきしめているのがすきだ。

 だから、涙。
 生きる醍醐味。
 大切なもの、しあわせな時間があったからこそ感じる、今のかなしさ。
 それを幸福だと思う。

 だから、人知れずだーだー泣きました。
 そうさ、あたしゃ泣きに来たんだ。いっぱい泣いて、摩擦されて、魂をまるくしていくんだから。

 
 『王家に捧ぐ歌』は、大好きな作品でした。
 わたしの愛した人が、出演している作品でした。
 当たり役だと思った。ずーっと好きでいた人に、今さらこんなにめろめろに恋し直すなんて、とうろたえるほどのオチっぷりでした。
 その人は、もういません。
 1年半前、この作品を大劇場で、東宝で観ていたときは、こんな未来がやってくるなんて夢にも思わず、幸福の絶頂にいました。

 わたしは16列目に坐っていたので、当然のようにオペラグラスを使っていたのだけど、冒頭のラダメスとアイーダが船に乗って出てくるところを見た瞬間に、敗北宣言。
 オペラグラス使用はやめました。

 痛いから。
 この「作品」にもう一度出会えた。
 そのことが、そのことだけがすでにものすごく痛いから、せっかくだからその痛みに集中しようと思った。
 だってさあ、もったいないじゃん? ふつーに生きていてたら、誰のことも好きじゃなかったら、味わえない痛みなんだよ?
 貪欲なわたしは、自分の心の動きを味わい尽くしたくて、「作品全体」を見ることに決めた。誰がどこに出ているとか、どんなことをしているとか、気にするのはまた次にしよう。

 こんにちは、『王家』。また会えたね。
 うれしいよ。大好きだよ。

 
 ……そう。
 大好きなんだわ。

 彼がいたから、彼があまりに素敵だったから、拍車がかかっていたけど、たとえ彼が出演していなくても、好きな作品だったんだ。

 最初はたしかに「彼がいない」ことにだーだー泣いていたのに、途中から、作品自体にだーだー泣いていた。

 好きなんだってば。
 作品が、キャラが好きなの。
 たのしいんだもん。わくわくするんだもん。どきどきするんだもん。

 彼はいない。
 だけど、わたしは生きていく。
 彼がいた、彼の愛した世界を、これからも愛していく。

 単純ですから、わたし!
 いつでもHAPPY LIFE。
 たのしかったよ、中日版『王家に捧ぐ歌』。

 
 宝塚大劇場ってほんと、どでかい劇場なんだよね。よそへ行くと、それがよくわかる。
 中日劇場も十分大きな劇場だと思うけど、それでも「小さい」もの。
 うわー、舞台せまっ。
 こんなにせまいところで、『王家』がやれるんかいな。
 って感じ、するもんなあ。

 ハコに関してのいちばん大きな違いは、銀橋がないことと、幅が狭いこと。

 それでも、あの壁画と階段のあるセットは作られていたし、銀橋芝居もうまく本舞台や上下の短い花道を使ってまとめていた。

 わたしがはじめて観た地方公演は、福岡の『ベルサイユのばら』で、そのとき「銀橋がないと、こーゆーことになるんだ」とがっかりした記憶がある。
 本舞台の端から1メートルくらいを「銀橋」に見立てて、そこは一切使わない。
 芝居は全部、舞台の奥の方でやり、銀橋を使うときは舞台の端を歩く。
 舞台はあと1メートルも客席に近いところまであるのに、わざと使わない。だってそこは、「銀橋」設定だから。ふだんの芝居、つまり上演時間のほとんどは、舞台全部を使わない。
 遠い遠い舞台。
 前方席チケットなんか取れるはずもなかった、なんのツテもスキルもない若かったわたしとツレは、いちばん後ろの席からその遠い舞台を必死に眺めていた。

 どうしてもその記憶があるもんだから。
 銀橋芝居の多かった『王家』をどうするのか、興味深かった。

 『王家』は、あの『ベルばら』みたいに、なんとかのひとつおぼえ的舞台の使い方は、してなかった。
 銀橋のシーンは、舞台前方のタイトロープを銀橋に見立てる定番のやり方だけでなく、舞台中央を縦に使ったりして工夫されていた。
 中日版を最初に観た人は、どこが本来の銀橋シーンなのか、全部はわからないかも?

 作品構成でいちばん大きな変化は、凱旋シーンの変更。
 不評の限りを尽くしたあの凱旋シーンが、別物になってますよ!!
 暗転のなか、「凱旋だーっ」の声が響き、あの音楽が流れ出したときは、「げっ、このシーンカットになってねえのかよ」とげんなりしたんだけど。
 暗闇の中、ライトに照らされ浮かび上がるひとりの男。
 ええっ、メレルカ@みらんくんっ?!
 メレルカのダンスソロからはじまりやがりますよ、凱旋シーン!
 しかも生髪ですよ。あのみょーーなかぶりものナシっすよ。
 うわわわ、かっこいー!
 兵士たちの総踊りに、ラダメス@ワタル登場。たしか脚をケガしてたはずだが(なんで脚に変更されたんだろう……そんなとこだと、一歩まちがうとお尻を刺されたように見えちゃうんだけど……)、そんな設定どこにもなく、元気に踊ってくれる。
 振り付けは微妙な感じがしないでもないが、元の凱旋シーンに比べれば百倍マシだ。やったー!

 ファラオのブランコがなかったとか、地下牢の入口が小人サイズでワタさんがアタマぶつけたよーに見えたとか(笑)、フィナーレの5人歌&ダンスがまとぶんソロになっていて、あまりに長くて場が持たなかったとか(5人で歌い継ぐシーンをひとりで、じゃあそりゃ自爆するわなあ。『エリザベート』でトートたちが昇天した後出てきたフランツが主題歌を2番までひとりで歌うくらい無謀だ←もちろん1番だけです)、かぶりものワタさんと脚線美トウコがちゃんが絡むとか(ケロとハイタッチしてきゃぴきゃぴしていたシーンな……そうか、第二の男がいないと、まっとーに旦那と絡むんだ。←いや、チガウから!)、他にも小さな変更はいろいろありました。

 内容的にいちばん印象がちがったのは、「主役3人だけの物語」に見えたこと。ムラより東宝より、ラダメスとアイーダ、アムネリスのラヴストーリーとして際立って見えた。小劇場らしく、キャラをしぼってきたな、って感じ。
 なんでかなー、と思って。
 愕然。

 ウバルドが、恋敵じゃないからだ。

 続く〜〜。


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