告白する。
わたしは過去、一度だけ隠し撮りをしたことがある。
雪組『エリザベート』、大劇場千秋楽のことだ。
その日退団する人の挨拶が、どーしても欲しかった。いっちゃんなら、テレビがちゃんと映してくれる。劇団がビデオを発売してくれる。
だが、わたしのあの人は、映らない。会にも入っていない、一般人のわたしにはどうしようもない。
それで、最後の挨拶のときだけ、ビデオカメラを回した。
席は2階最前列サブセンター。こー言っちゃなんだが、いい画が撮れる場所だぞ。
そのせいだか知らんが、ラストになるとわたしの周りの席は、見渡す限りカメラとビデオカメラで埋まっていた。うん、隣の人もそうだったしその隣もその隣もそうだったし、後ろ振り返ったらずらりとレンズが並んでて、こわかったよ。
芝居やショーのときはダメだけど、挨拶なら撮っていいんだよ。
そんなふうに言われていたのは、いつのことだった?
昔はたしかに、そう言われていた。わたしはそう聞いていた。わたし自身は撮ったことなかったけど。
でないと変だよな、ってくらい、昔は挨拶時にみんな堂々と写真を撮っていたもの。ある新公のときなんか、隣の席のおじさん、わざわざ通路でカメラ構えて、挨拶を撮ってたよ。通路際だったんだけどさ。席から離れてまで撮るのは「すげえ」と思ったよ。
そういう認識があったから、「挨拶時も撮影は禁止」というビラが配られたり放送されたりするようになったんだよね。
わたしがビデオを撮ったあのときに、その認識がまだあったのかどうかは、おぼえていない。
だがわたしは、「隠し撮りはいけないこと」だと思っていた。
いけないとわかっているのに、やろうとしていた。
愛に追いつめられ、犯罪に手を染めるわけだ。
撮ったのは、挨拶だけだ。しかし。
挨拶を隠し撮りする、という決意だけで、その日のわたしは落ち着かなかった。せっかくの『エリザベート』千秋楽も、ほんとうの意味でたのしめたとは思えない。
撮っているときも、心臓ばくばくで、苦しかった。
わたしは悪いことをしている! という事実が、こわくてこわくてしょーがなかった。
たしかに、周りの人は見渡す限り、同じように隠し撮りをしていた。だけど。
他人がしているからって、わたしがしていいわけじゃない。そんなの、ちっとも言い訳にならない。
わたしは悪いことをしている。周りなんか関係ない。わたしが、今、悪いことをしている。
それだけで、わたしはもー、つらくてしょーがなかった。
隣の席の友だちも、気持ちは同じだったらしい。
わたしと彼女は同じ人のファンで、ビデオカメラは彼女の持ち物だし、ふたりしてどーしても、その人の退団挨拶が欲しかったんだ。それで、ふたりで協力してビデオを撮ろう、ということになった。
実際にカメラを回したのはわたしだけど、わたしは恐怖と緊張と罪悪感でぼろぼろだったし、彼女も同じ感覚を味わったらしい。
こわくてこわくて仕方なかった、と彼女も言った。
そのあとの、劇場横の退団者のパレードは堂々とカメラを回した。撮っていいのがわかってるからね。
だけどわたしはまだ、隠し撮りから立ち直ってなかったし、心臓ばくばくさせたままだった。
なんというか。
バカなことしたなあ。
わたしには、隠し撮りは向かない。
犯罪ができるタマではないのだ。小心だからな。よーっくわかったよ。
隠し撮りなんかするヒマがあったら、自分の目と心に焼き付けておくべきだった。
わたしのこの心以上に、あざやかに残るものなど、あり得ないのに。
せっかくのあの人の最後の姿が、ビデオを撮ることだけに必死で、心で味わうことができなかった。
パレードだってそうだ。隠し撮りじゃないから罪悪感はなかったけれど、ビデオをきれいに撮らなきゃ、ということに気持ちを使った。100%の心で、見つめることができなかった。
バカなことをした。
くだらない物欲に負けた。
わたしはもっと、わたしの心を信じるべきだ。
映像なんかなくったって、わたしはあの人を忘れない。
とゆー、あれ以来、わたしは隠し撮りはしないし、また、劇場にカメラ自体持ち込まない。
昨日の千秋楽で、パレードのときえらくいい場所をゲットしてしまったんで「ああここならさぞかし、いい写真が撮れるだろーなー」と思ったんで、ふと思い出したんだな。
周りでは、ものすごい数の人たちが、必死でカメラをのぞいていたよ。
ファインダー越しにしか、大好きな人の最後の姿を見られないんだね。
それはただの価値観のちがいだ。
わたしは、わたしの目の方がいい。心の方がいい。
そして、今日は数日書けなかった分の日記を、一気に書いたわけだけど。
…………ふと気づいたら、5時過ぎてた。
うわーん、ファッションショーの友会エントリー忘れた〜〜。
行くなってことよね。もうお金ないしね。
しくしく。
わたしは過去、一度だけ隠し撮りをしたことがある。
雪組『エリザベート』、大劇場千秋楽のことだ。
その日退団する人の挨拶が、どーしても欲しかった。いっちゃんなら、テレビがちゃんと映してくれる。劇団がビデオを発売してくれる。
だが、わたしのあの人は、映らない。会にも入っていない、一般人のわたしにはどうしようもない。
それで、最後の挨拶のときだけ、ビデオカメラを回した。
席は2階最前列サブセンター。こー言っちゃなんだが、いい画が撮れる場所だぞ。
そのせいだか知らんが、ラストになるとわたしの周りの席は、見渡す限りカメラとビデオカメラで埋まっていた。うん、隣の人もそうだったしその隣もその隣もそうだったし、後ろ振り返ったらずらりとレンズが並んでて、こわかったよ。
芝居やショーのときはダメだけど、挨拶なら撮っていいんだよ。
そんなふうに言われていたのは、いつのことだった?
昔はたしかに、そう言われていた。わたしはそう聞いていた。わたし自身は撮ったことなかったけど。
でないと変だよな、ってくらい、昔は挨拶時にみんな堂々と写真を撮っていたもの。ある新公のときなんか、隣の席のおじさん、わざわざ通路でカメラ構えて、挨拶を撮ってたよ。通路際だったんだけどさ。席から離れてまで撮るのは「すげえ」と思ったよ。
そういう認識があったから、「挨拶時も撮影は禁止」というビラが配られたり放送されたりするようになったんだよね。
わたしがビデオを撮ったあのときに、その認識がまだあったのかどうかは、おぼえていない。
だがわたしは、「隠し撮りはいけないこと」だと思っていた。
いけないとわかっているのに、やろうとしていた。
愛に追いつめられ、犯罪に手を染めるわけだ。
撮ったのは、挨拶だけだ。しかし。
挨拶を隠し撮りする、という決意だけで、その日のわたしは落ち着かなかった。せっかくの『エリザベート』千秋楽も、ほんとうの意味でたのしめたとは思えない。
撮っているときも、心臓ばくばくで、苦しかった。
わたしは悪いことをしている! という事実が、こわくてこわくてしょーがなかった。
たしかに、周りの人は見渡す限り、同じように隠し撮りをしていた。だけど。
他人がしているからって、わたしがしていいわけじゃない。そんなの、ちっとも言い訳にならない。
わたしは悪いことをしている。周りなんか関係ない。わたしが、今、悪いことをしている。
それだけで、わたしはもー、つらくてしょーがなかった。
隣の席の友だちも、気持ちは同じだったらしい。
わたしと彼女は同じ人のファンで、ビデオカメラは彼女の持ち物だし、ふたりしてどーしても、その人の退団挨拶が欲しかったんだ。それで、ふたりで協力してビデオを撮ろう、ということになった。
実際にカメラを回したのはわたしだけど、わたしは恐怖と緊張と罪悪感でぼろぼろだったし、彼女も同じ感覚を味わったらしい。
こわくてこわくて仕方なかった、と彼女も言った。
そのあとの、劇場横の退団者のパレードは堂々とカメラを回した。撮っていいのがわかってるからね。
だけどわたしはまだ、隠し撮りから立ち直ってなかったし、心臓ばくばくさせたままだった。
なんというか。
バカなことしたなあ。
わたしには、隠し撮りは向かない。
犯罪ができるタマではないのだ。小心だからな。よーっくわかったよ。
隠し撮りなんかするヒマがあったら、自分の目と心に焼き付けておくべきだった。
わたしのこの心以上に、あざやかに残るものなど、あり得ないのに。
せっかくのあの人の最後の姿が、ビデオを撮ることだけに必死で、心で味わうことができなかった。
パレードだってそうだ。隠し撮りじゃないから罪悪感はなかったけれど、ビデオをきれいに撮らなきゃ、ということに気持ちを使った。100%の心で、見つめることができなかった。
バカなことをした。
くだらない物欲に負けた。
わたしはもっと、わたしの心を信じるべきだ。
映像なんかなくったって、わたしはあの人を忘れない。
とゆー、あれ以来、わたしは隠し撮りはしないし、また、劇場にカメラ自体持ち込まない。
昨日の千秋楽で、パレードのときえらくいい場所をゲットしてしまったんで「ああここならさぞかし、いい写真が撮れるだろーなー」と思ったんで、ふと思い出したんだな。
周りでは、ものすごい数の人たちが、必死でカメラをのぞいていたよ。
ファインダー越しにしか、大好きな人の最後の姿を見られないんだね。
それはただの価値観のちがいだ。
わたしは、わたしの目の方がいい。心の方がいい。
そして、今日は数日書けなかった分の日記を、一気に書いたわけだけど。
…………ふと気づいたら、5時過ぎてた。
うわーん、ファッションショーの友会エントリー忘れた〜〜。
行くなってことよね。もうお金ないしね。
しくしく。
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