美しい物語と、美しい人たち。@マラケシュ・紅の墓標
2005年8月4日 タカラヅカ 博多座『マラケシュ−紅の墓標−』の話、その3。
感動の4列目ドセンターにて観劇。
当日券に並んだところ、1枚だけこんな良席が降ってわいたのね。んで、同行者のnanakoさんとジャンケンして(笑)、わたしがお芝居、nanakoさんがショーをこの席で観ることになった。
もともとわたしたちが持っていたチケットは9列目サブセンだったので、こちらもなかなかだったんだが、当日券並んでよかったよ。(張り切りすぎていたわたしたちの他、ぜんぜん人が並ばなくてかえってどきどきした・笑)
博多座は3列目までがオケピ用の可動席。4列目からが固定席なのね。
おかげで、3列目と4列目の座席の間がひろいこと!!
わたしもnanakoさんも縦に長い人種なので、いつもは膝が前の席に当たってつらかったりするんだが、この席は悠々自適だった。
またここに坐りたい……心底、坐りたい……。(無理だろ……)
思いがけない良席での新作『マラケシュ』観劇。
それだけで、わたしのテンションは上がりきっていた。
たとえ、隣の席のおねーさんが一切拍手をしないこわい人であったとしても、反対側の隣のおばーさまが芝居の間半分以上船を漕いでいても、そして幕が下りたあと号泣しているわたしを異様なモノを見る目で見ていたとしても、いいんだっ。
わたしは、『マラケシュ』を観に、はるばる博多まで行ったんだ。
そーやって、幕が上がった『マラケシュ』。
最初にぶったまげたこと。
ギュンターが耽美キャラだ。
最初に出てくるのがギュンター@みわっち。
服装はらんとむのときと同じ。黒スーツに謎のストールという、国籍不明な格好。
手には、紅い薔薇。
美しいんですけど。
耽美なんですけど、ギュンター。
ギュンターって、そんなキャラだっけ??
らんとむがやっていたときは、半分お笑いキャラじゃなかった?(語弊のある表現)
ギュンターの位置づけが変わっている。
彼は耽美で、神秘的な男。
大劇・東宝版の不思議青年イズメルのカラーをも内包する。
どこか歪んだ目で紅い薔薇を愛でながら、彼はイズメルの歌を歌う。
博多座版にイズメルはいない。存在しない。
なのに、彼の歌は健在。
あの神秘的な水先案内人の歌は、イズメルの歌じゃなくて、みわっちの持ち歌だったんかい。
みわっちあて書きだったんだ……役が変わっても、歌うのはみわっちなんだ。すげえなソレ。
みわっちは歌はあまり得意じゃない人だけど、そんなことはどーでもいー。これからはじまる「世界」へとわたしたちを案内するために、彼の歌声は必須なんだ。
紅い薔薇を手にする彼は、ここでその「色」をわたしたちに刻みつける。
紅。
血の色。
紅い薔薇を愛でる彼は、中盤で「紅」をその手にする。プロローグで持っていた薔薇のように。
パリの回想シーンにて。
イヴェットに殺された男のそばに駆け寄ったギュンターは、そこで「紅」を手にする。
手のひらを汚した、紅。
彼が壊れたのは、そのとき。
汚れたのは、彼自身。
紅に染まったのは、彼自身。
薔薇を愛した男ギュンターが、真に愛していたのは、自分自身じゃないのか?
美しい薔薇とは、美しい自分自身のこと。
彼は汚された。
紅に。
あの女に。あの男に。
血の罪は、血で贖え。
ギュンターはイヴェットを自殺に追い込み、リュドヴィークを刺し殺した。
彼の妄執を彩るものは、金の薔薇じゃない。
あざやかな血の紅。
『マラケシュ』はそもそも「美しい」物語であると思っている。「耽美」な物語であると思っている。
だからこそ、ギュンターが耽美になってくれたのはうれしい。
彼が博多座版のイヴェットごときを愛していないのもまた、小気味いい。
イヴェットごとき、と書いてしまったが、この役は難しいんだと再確認した。
イヴェット@きほちゃんは、なにが足りないんだろー?
美しいし、スタイル抜群だし、歌もうまい。もともと好きな子だから、イヴェット役が彼女だとわかったときはうれしかった。新公のイヴェットも素敵だった。
新公で、リュドヴィーク@まぁくんと金の薔薇を手に向かい合い、「本当の贈り物だったら」と歌ったとき、舞台の色が変わったのをおぼえている。ふたりの若い愛がぎゅいーんと盛り上がり、切ない光を放っていた。
なのに、今回はソレがなかった。
見えるのはリュド@オサの光だけで、きほちゃんはくすんでいた。
そんな同等の光を放てない女に恋するリュドが、とても寂しい人に見えた。
まあ、オサ様は相手に合わせて演技する人じゃないと思うんで(笑)、彼が勝手に暴走しているのが悪いってのも、あると思うよ。
自分の演技についてこれない人のことは、置き去り。
今回はイヴェットもレオンも、見事に置き去りにされていた。
あすかちゃんと樹里ちゃんは、すごかったなあ。と、しみじみ思う。
さて、レオン@ゆみこちゃん。
この男は、どーしたもんでしょーか。
大幅に改稿したゆえに、レオンというキャラの意味が微妙にズレてるというか、やばくなっている気がした。
大劇・東宝版でのレオンは、「平凡な幸福」を持ちながらもそれに不満を感じ、「非凡な未来」を夢見ていた。
平凡な幸福をバカにし、捨てることを厭わなかったのに、最後はその「平凡な幸福」にすがろうとして裏切られ、殺されることになる。
平凡な幸福、てのはすなわち、「ふつーに食べていける仕事」「愛する家族」「愛する恋人」「信頼する友人」を持っているってことね。
それらを嫌って出て行こうとしたのに失敗し、逃げまどう彼は結局のところ「仲間」にすがろうとする。
が、そのときにはすでに、持っていたはずの「平凡な幸福」は意味を失っており、彼は仲間に殺される。
博多座版では、レオンははじめからなにも持ってないの。
唯一あるのは「ふつーに食べていける仕事」だけ。「家族」も「恋人」も「友人」も、なにもない。
対人関係最悪。すべての人をバカにして、悪意を持っている。
こんな男が「大きな仕事」に失敗して殺されても当然もというか。
自分を殺そうとするアリ@そのかに、「仲間だろ?」と問いかけるのが、すげー無意味。もともと仲間ちゃうやん、あんたら。
ベルベル人と白人のハーフである、という設定も薄くなり、彼の魂の漂泊に結びつかない。
「仲間」に殺され、どちらの天国にも行けない、とつぶやいて息絶えるシーンが、とても唐突に見えた。それゆえに、ラストのノマドとしてのダンスもつながりが見えなくて首を傾げた。
レオンがあそこまで心の壊れた男であるのは、どーゆー意図なんだろう。
彼が愛すべき悪党でなくなってしまうと、いろいろ破綻してくるんだけどなあ。物理的な計算式ではなく、心のつながりが。
なくなった母親役はあきらめるとしても、ちゃんと存在している役の、アリとの関係を全部Cutされているのは、痛いな。アリと最低限の心の交流がないと、彼に殺される意味がない。
てゆーか。
レオンが誰も愛していないのは、演出家の意図なんですか。それともゆみこちゃんの意志なんですか。
腑に落ちないんだよな。
感動の4列目ドセンターにて観劇。
当日券に並んだところ、1枚だけこんな良席が降ってわいたのね。んで、同行者のnanakoさんとジャンケンして(笑)、わたしがお芝居、nanakoさんがショーをこの席で観ることになった。
もともとわたしたちが持っていたチケットは9列目サブセンだったので、こちらもなかなかだったんだが、当日券並んでよかったよ。(張り切りすぎていたわたしたちの他、ぜんぜん人が並ばなくてかえってどきどきした・笑)
博多座は3列目までがオケピ用の可動席。4列目からが固定席なのね。
おかげで、3列目と4列目の座席の間がひろいこと!!
わたしもnanakoさんも縦に長い人種なので、いつもは膝が前の席に当たってつらかったりするんだが、この席は悠々自適だった。
またここに坐りたい……心底、坐りたい……。(無理だろ……)
思いがけない良席での新作『マラケシュ』観劇。
それだけで、わたしのテンションは上がりきっていた。
たとえ、隣の席のおねーさんが一切拍手をしないこわい人であったとしても、反対側の隣のおばーさまが芝居の間半分以上船を漕いでいても、そして幕が下りたあと号泣しているわたしを異様なモノを見る目で見ていたとしても、いいんだっ。
わたしは、『マラケシュ』を観に、はるばる博多まで行ったんだ。
そーやって、幕が上がった『マラケシュ』。
最初にぶったまげたこと。
ギュンターが耽美キャラだ。
最初に出てくるのがギュンター@みわっち。
服装はらんとむのときと同じ。黒スーツに謎のストールという、国籍不明な格好。
手には、紅い薔薇。
美しいんですけど。
耽美なんですけど、ギュンター。
ギュンターって、そんなキャラだっけ??
らんとむがやっていたときは、半分お笑いキャラじゃなかった?(語弊のある表現)
ギュンターの位置づけが変わっている。
彼は耽美で、神秘的な男。
大劇・東宝版の不思議青年イズメルのカラーをも内包する。
どこか歪んだ目で紅い薔薇を愛でながら、彼はイズメルの歌を歌う。
博多座版にイズメルはいない。存在しない。
なのに、彼の歌は健在。
あの神秘的な水先案内人の歌は、イズメルの歌じゃなくて、みわっちの持ち歌だったんかい。
みわっちあて書きだったんだ……役が変わっても、歌うのはみわっちなんだ。すげえなソレ。
みわっちは歌はあまり得意じゃない人だけど、そんなことはどーでもいー。これからはじまる「世界」へとわたしたちを案内するために、彼の歌声は必須なんだ。
紅い薔薇を手にする彼は、ここでその「色」をわたしたちに刻みつける。
紅。
血の色。
紅い薔薇を愛でる彼は、中盤で「紅」をその手にする。プロローグで持っていた薔薇のように。
パリの回想シーンにて。
イヴェットに殺された男のそばに駆け寄ったギュンターは、そこで「紅」を手にする。
手のひらを汚した、紅。
彼が壊れたのは、そのとき。
汚れたのは、彼自身。
紅に染まったのは、彼自身。
薔薇を愛した男ギュンターが、真に愛していたのは、自分自身じゃないのか?
美しい薔薇とは、美しい自分自身のこと。
彼は汚された。
紅に。
あの女に。あの男に。
血の罪は、血で贖え。
ギュンターはイヴェットを自殺に追い込み、リュドヴィークを刺し殺した。
彼の妄執を彩るものは、金の薔薇じゃない。
あざやかな血の紅。
『マラケシュ』はそもそも「美しい」物語であると思っている。「耽美」な物語であると思っている。
だからこそ、ギュンターが耽美になってくれたのはうれしい。
彼が博多座版のイヴェットごときを愛していないのもまた、小気味いい。
イヴェットごとき、と書いてしまったが、この役は難しいんだと再確認した。
イヴェット@きほちゃんは、なにが足りないんだろー?
美しいし、スタイル抜群だし、歌もうまい。もともと好きな子だから、イヴェット役が彼女だとわかったときはうれしかった。新公のイヴェットも素敵だった。
新公で、リュドヴィーク@まぁくんと金の薔薇を手に向かい合い、「本当の贈り物だったら」と歌ったとき、舞台の色が変わったのをおぼえている。ふたりの若い愛がぎゅいーんと盛り上がり、切ない光を放っていた。
なのに、今回はソレがなかった。
見えるのはリュド@オサの光だけで、きほちゃんはくすんでいた。
そんな同等の光を放てない女に恋するリュドが、とても寂しい人に見えた。
まあ、オサ様は相手に合わせて演技する人じゃないと思うんで(笑)、彼が勝手に暴走しているのが悪いってのも、あると思うよ。
自分の演技についてこれない人のことは、置き去り。
今回はイヴェットもレオンも、見事に置き去りにされていた。
あすかちゃんと樹里ちゃんは、すごかったなあ。と、しみじみ思う。
さて、レオン@ゆみこちゃん。
この男は、どーしたもんでしょーか。
大幅に改稿したゆえに、レオンというキャラの意味が微妙にズレてるというか、やばくなっている気がした。
大劇・東宝版でのレオンは、「平凡な幸福」を持ちながらもそれに不満を感じ、「非凡な未来」を夢見ていた。
平凡な幸福をバカにし、捨てることを厭わなかったのに、最後はその「平凡な幸福」にすがろうとして裏切られ、殺されることになる。
平凡な幸福、てのはすなわち、「ふつーに食べていける仕事」「愛する家族」「愛する恋人」「信頼する友人」を持っているってことね。
それらを嫌って出て行こうとしたのに失敗し、逃げまどう彼は結局のところ「仲間」にすがろうとする。
が、そのときにはすでに、持っていたはずの「平凡な幸福」は意味を失っており、彼は仲間に殺される。
博多座版では、レオンははじめからなにも持ってないの。
唯一あるのは「ふつーに食べていける仕事」だけ。「家族」も「恋人」も「友人」も、なにもない。
対人関係最悪。すべての人をバカにして、悪意を持っている。
こんな男が「大きな仕事」に失敗して殺されても当然もというか。
自分を殺そうとするアリ@そのかに、「仲間だろ?」と問いかけるのが、すげー無意味。もともと仲間ちゃうやん、あんたら。
ベルベル人と白人のハーフである、という設定も薄くなり、彼の魂の漂泊に結びつかない。
「仲間」に殺され、どちらの天国にも行けない、とつぶやいて息絶えるシーンが、とても唐突に見えた。それゆえに、ラストのノマドとしてのダンスもつながりが見えなくて首を傾げた。
レオンがあそこまで心の壊れた男であるのは、どーゆー意図なんだろう。
彼が愛すべき悪党でなくなってしまうと、いろいろ破綻してくるんだけどなあ。物理的な計算式ではなく、心のつながりが。
なくなった母親役はあきらめるとしても、ちゃんと存在している役の、アリとの関係を全部Cutされているのは、痛いな。アリと最低限の心の交流がないと、彼に殺される意味がない。
てゆーか。
レオンが誰も愛していないのは、演出家の意図なんですか。それともゆみこちゃんの意志なんですか。
腑に落ちないんだよな。
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