動物園の動物たちは、幸福なのだろうか。@長崎しぐれ坂
2005年8月13日 タカラヅカ 『長崎しぐれ坂』において、卯之助がどれだけ気持ち悪いかは、以前に書いた。
卯之助が気持ち悪く、伊佐次がムカつき、おしまはただのカンチガイ女。
これでいったいどうしろと。
ムラ初日はあまりの事態にメーターがブチ切れ、ラストの「愛の小舟」のシーンでは爆笑をこらえるのに必死だった。
それが、東宝楽の前日、泣いてしまうところまで行ってしまった。
ポイントは、伊佐次が主人公だと開き直って観る。ことかと。
伊佐次だけなら、それほど破綻せずに物語が進むのね。
卯之助を見てしまうとややこしくなるので、あくまでも伊佐次のみ。
伊佐次は子どもでかわいい男。
完璧だから慕われているのではなく、欠点をも愛されているのだろー。
自室でひとり港を眺めているときの伊佐次は、キョーアクにかわいいですよ。
あの彫刻のよーな美貌で、傷ついた少年のように爪を噛んでいるんですから。
そりゃ李花もめろめろになるわ……。
伊佐次だけを追い、彼に感情移入して観ると、『長崎』ってのはなかなかせつなくていい話です。
壊れてるところやまちがっているところ、無駄な演出、悪趣味なセンス、そんなところをまるっとスルーした上でだが。
伊佐次のキャラクタはまちがっていないところまで、筋が通ってしまった。
たのしく陽気に現在の生活を受け入れているが、根本に飢えを感じている男。
「自由」が伊佐次というキャラなんだろー。
他のなにを持っていたとしても、「自由」がなければ生きていけない。
彼は本能的で感情的。彼の魂はひたすら「自由」だから。今まで修羅場もくぐってきたが、それを生き抜いてこられたのも理論ではなく勘、すなわち本能と感情ゆえ。
傲慢で傍迷惑な野生の獣。
それが今は、「生きる」ために囲いの中。
「自由」でなければ意味のない野生の獣が、安全だからと檻の中にいて、それは「生きている」ことになるんだろうか。
だから本人も苛立っているし、周囲も今の状態が長く続かないことを察している。特に李花はいつもおびえているね。
本能に従う生き物だから、彼の心は簡単に揺れ動く。
「自由」に惹かれているときと。
「囲いの中でも、とりあえず生きる」と思っているときと。
そのときそのときで、真実なんだ。
たぶんそれは、子どもの魂と大人の分別の戦いでもあるだろう。
伊佐次は永遠の子どもなので、本能のみに従って生きたいと無意識に渇望している。
子どもの魂は「囲いを出たい」「自由さえあれば、あとはどうでもいい」と訴え、大人の分別が「囲いを出たら殺される」「自由をあきらめなければ生きていけない」と訴える。
物語の最初では、いちおー大人の分別が勝っている状態だろう。
囲いの中で、今あるものに満足して生活している姿。
しかし、それを許さない男がいた。
せっかく野生の本能を抑えつけて、損得を計算できる「人間」として妥協して生きていた伊佐次を、もてあそぶ男がいるんだ。
卯之助だ。
いつもいつも、卯之助が伊佐次をもてあそんでいる。
卯之助さえいなければ、伊佐次はもうしばらくは囲いの中にいただろう。いずれ耐えられなくなって飛び出していったかもしれないが、それはまた別の話だ。
現状で満足しようとする伊佐次に、卯之助は必ず「堕落するぐらいなら死を」とそそのかす。
伊佐次が渇望している「自由」を表す「江戸」を匂わせる女・おしまを紹介する。
おしまに再会しなければ、伊佐次は囲いを出ようとは思わなかったのに。
らしゃが死んだあと、酒を飲んで荒れている伊佐次に、余計なことを言うのも卯之助だ。
らしゃを埋めてやった、と説明する卯之助の言葉や、それに泣き出してしまう芳蓮の声を聞いているときの伊佐次はとても痛々しい。らしゃの死が相当堪えている。泣き出しそうになって、それを許すまいと大声を出す。泣きたくないから、泣きそうにさせる周囲を怒鳴りつけて追い払う。……それはひどい行動だけど、彼はそういう素直じゃないキャラだ。
素直に泣けば、「ああ、悲しんでいるのね」と周囲も同情的になるのに、あえて攻撃にまわる。同情されるぐらいなら顰蹙をかう方を選ぶ。子どもなんだね。
そんなふうに、誰よりも泣きたいからこそ、簡単に泣く芳蓮に苛立っている伊佐次に、卯之助は容赦がない。泣きそうな伊佐次をわざとからかったあげく、そのときの伊佐次の唯一の心の拠り所だったおしまを逆手にとってもてあそぶ。
芳蓮を怒鳴りつけるときまで、たしかにらしゃのことを思ってヘコんでいた伊佐次を、卯之助がわざわざ言葉で「女のことでうじうじしている」ことにしてしまい、弟分のさそりに愛想を尽かさせる。
もちろん、おしまのこともあったろう。伊佐次にとっておしまは「自由」につながる存在だから。たかが色恋やスケベ心ゆえじゃない。
さそりに悪態をつかれた伊佐次は、逆ギレする。「オマエも死ね!」と叫ぶ声は、ほとんど泣き声だ。
らしゃの死がつらいから、ここで出る悪態が「死ね」なんだ。泣く芳蓮に怒鳴ったのと同じ、本心と反対のことを口にする。
さそりにまで拒絶され、さらに傷ついた伊佐次に、李花はやさしい。
単純な伊佐次はころりとほだされる。
李花へ今までの非礼を詫び、「ずっとここにいる」と誓う。
本心だろう。だって彼は今、とても疲れているから。欲しいのは自由。だけど、ここで今、この女のもとで生きる未来があってもいいかもしれない。
子どもの魂を封印し、分別ある大人としての選択。
しかしそれもまた、卯之助が許さない。
囲いの中で平穏に生きる可能性を考え出した伊佐次に、彼にとっての「自由」であるおしまの話を持ち出す。
せっかく李花と生きることを考えたのに。
おしまを選んで死ね、と卯之助はそそのかすんだ。
あ、でも、おしまが堺へ帰った話を聞いて、伊佐次が思わず飛び出して行こうとしたときにさそりの名前を出したのは、完全に口実だと思うけど(笑)。あさはかだわ。
伊佐次はキャラクタとして、筋が通っている。
彼の言動は、ちゃんと理解できる。
だから彼を「主人公」だと思って観れば、ちゃんとした物語なんだよね、『長崎』。
「自由」と「生きること」、子どもの魂と大人の分別で揺れ動く男……てのは、普遍的な物語だよね。
会社の犬となって生きるか、破滅覚悟で独立するか、とか、いくらでもバリエーションのあるお約束の設定さ。
伊佐次の場合、「破滅」が透けて見えるから切ないのね。
大抵の人間は「夢」より「妥協した現実」を選ぶから。
「夢」(伊佐次の場合は「自由」)を選んで破滅する姿は、かなしい憧れをかきたてる。
つーことで、伊佐次中心だとクリアになった『長崎しぐれ坂』。
だがどーしても、もうひとりの主役・卯之助が問題になってくる。
何故に卯之助はいつも、善人面して伊佐次を追いつめ、もてあそぶのか。
植爺は計算とか伏線とか辻褄とか知らない人だから、なんにも考えていない結果だと思う。伊佐次がこのまま唐人屋敷で平和にしあわせに暮らしておしまい、じゃダメだから、彼を外へ出すために引っかき回す必要があった。
じゃあそれをどうする? 誰にやらせる? もうひとりの主役にやらせれば、出番が増えるから、それでいいや、程度の無意識さだろう。
次は、卯之助の話。
卯之助が気持ち悪く、伊佐次がムカつき、おしまはただのカンチガイ女。
これでいったいどうしろと。
ムラ初日はあまりの事態にメーターがブチ切れ、ラストの「愛の小舟」のシーンでは爆笑をこらえるのに必死だった。
それが、東宝楽の前日、泣いてしまうところまで行ってしまった。
ポイントは、伊佐次が主人公だと開き直って観る。ことかと。
伊佐次だけなら、それほど破綻せずに物語が進むのね。
卯之助を見てしまうとややこしくなるので、あくまでも伊佐次のみ。
伊佐次は子どもでかわいい男。
完璧だから慕われているのではなく、欠点をも愛されているのだろー。
自室でひとり港を眺めているときの伊佐次は、キョーアクにかわいいですよ。
あの彫刻のよーな美貌で、傷ついた少年のように爪を噛んでいるんですから。
そりゃ李花もめろめろになるわ……。
伊佐次だけを追い、彼に感情移入して観ると、『長崎』ってのはなかなかせつなくていい話です。
壊れてるところやまちがっているところ、無駄な演出、悪趣味なセンス、そんなところをまるっとスルーした上でだが。
伊佐次のキャラクタはまちがっていないところまで、筋が通ってしまった。
たのしく陽気に現在の生活を受け入れているが、根本に飢えを感じている男。
「自由」が伊佐次というキャラなんだろー。
他のなにを持っていたとしても、「自由」がなければ生きていけない。
彼は本能的で感情的。彼の魂はひたすら「自由」だから。今まで修羅場もくぐってきたが、それを生き抜いてこられたのも理論ではなく勘、すなわち本能と感情ゆえ。
傲慢で傍迷惑な野生の獣。
それが今は、「生きる」ために囲いの中。
「自由」でなければ意味のない野生の獣が、安全だからと檻の中にいて、それは「生きている」ことになるんだろうか。
だから本人も苛立っているし、周囲も今の状態が長く続かないことを察している。特に李花はいつもおびえているね。
本能に従う生き物だから、彼の心は簡単に揺れ動く。
「自由」に惹かれているときと。
「囲いの中でも、とりあえず生きる」と思っているときと。
そのときそのときで、真実なんだ。
たぶんそれは、子どもの魂と大人の分別の戦いでもあるだろう。
伊佐次は永遠の子どもなので、本能のみに従って生きたいと無意識に渇望している。
子どもの魂は「囲いを出たい」「自由さえあれば、あとはどうでもいい」と訴え、大人の分別が「囲いを出たら殺される」「自由をあきらめなければ生きていけない」と訴える。
物語の最初では、いちおー大人の分別が勝っている状態だろう。
囲いの中で、今あるものに満足して生活している姿。
しかし、それを許さない男がいた。
せっかく野生の本能を抑えつけて、損得を計算できる「人間」として妥協して生きていた伊佐次を、もてあそぶ男がいるんだ。
卯之助だ。
いつもいつも、卯之助が伊佐次をもてあそんでいる。
卯之助さえいなければ、伊佐次はもうしばらくは囲いの中にいただろう。いずれ耐えられなくなって飛び出していったかもしれないが、それはまた別の話だ。
現状で満足しようとする伊佐次に、卯之助は必ず「堕落するぐらいなら死を」とそそのかす。
伊佐次が渇望している「自由」を表す「江戸」を匂わせる女・おしまを紹介する。
おしまに再会しなければ、伊佐次は囲いを出ようとは思わなかったのに。
らしゃが死んだあと、酒を飲んで荒れている伊佐次に、余計なことを言うのも卯之助だ。
らしゃを埋めてやった、と説明する卯之助の言葉や、それに泣き出してしまう芳蓮の声を聞いているときの伊佐次はとても痛々しい。らしゃの死が相当堪えている。泣き出しそうになって、それを許すまいと大声を出す。泣きたくないから、泣きそうにさせる周囲を怒鳴りつけて追い払う。……それはひどい行動だけど、彼はそういう素直じゃないキャラだ。
素直に泣けば、「ああ、悲しんでいるのね」と周囲も同情的になるのに、あえて攻撃にまわる。同情されるぐらいなら顰蹙をかう方を選ぶ。子どもなんだね。
そんなふうに、誰よりも泣きたいからこそ、簡単に泣く芳蓮に苛立っている伊佐次に、卯之助は容赦がない。泣きそうな伊佐次をわざとからかったあげく、そのときの伊佐次の唯一の心の拠り所だったおしまを逆手にとってもてあそぶ。
芳蓮を怒鳴りつけるときまで、たしかにらしゃのことを思ってヘコんでいた伊佐次を、卯之助がわざわざ言葉で「女のことでうじうじしている」ことにしてしまい、弟分のさそりに愛想を尽かさせる。
もちろん、おしまのこともあったろう。伊佐次にとっておしまは「自由」につながる存在だから。たかが色恋やスケベ心ゆえじゃない。
さそりに悪態をつかれた伊佐次は、逆ギレする。「オマエも死ね!」と叫ぶ声は、ほとんど泣き声だ。
らしゃの死がつらいから、ここで出る悪態が「死ね」なんだ。泣く芳蓮に怒鳴ったのと同じ、本心と反対のことを口にする。
さそりにまで拒絶され、さらに傷ついた伊佐次に、李花はやさしい。
単純な伊佐次はころりとほだされる。
李花へ今までの非礼を詫び、「ずっとここにいる」と誓う。
本心だろう。だって彼は今、とても疲れているから。欲しいのは自由。だけど、ここで今、この女のもとで生きる未来があってもいいかもしれない。
子どもの魂を封印し、分別ある大人としての選択。
しかしそれもまた、卯之助が許さない。
囲いの中で平穏に生きる可能性を考え出した伊佐次に、彼にとっての「自由」であるおしまの話を持ち出す。
せっかく李花と生きることを考えたのに。
おしまを選んで死ね、と卯之助はそそのかすんだ。
あ、でも、おしまが堺へ帰った話を聞いて、伊佐次が思わず飛び出して行こうとしたときにさそりの名前を出したのは、完全に口実だと思うけど(笑)。あさはかだわ。
伊佐次はキャラクタとして、筋が通っている。
彼の言動は、ちゃんと理解できる。
だから彼を「主人公」だと思って観れば、ちゃんとした物語なんだよね、『長崎』。
「自由」と「生きること」、子どもの魂と大人の分別で揺れ動く男……てのは、普遍的な物語だよね。
会社の犬となって生きるか、破滅覚悟で独立するか、とか、いくらでもバリエーションのあるお約束の設定さ。
伊佐次の場合、「破滅」が透けて見えるから切ないのね。
大抵の人間は「夢」より「妥協した現実」を選ぶから。
「夢」(伊佐次の場合は「自由」)を選んで破滅する姿は、かなしい憧れをかきたてる。
つーことで、伊佐次中心だとクリアになった『長崎しぐれ坂』。
だがどーしても、もうひとりの主役・卯之助が問題になってくる。
何故に卯之助はいつも、善人面して伊佐次を追いつめ、もてあそぶのか。
植爺は計算とか伏線とか辻褄とか知らない人だから、なんにも考えていない結果だと思う。伊佐次がこのまま唐人屋敷で平和にしあわせに暮らしておしまい、じゃダメだから、彼を外へ出すために引っかき回す必要があった。
じゃあそれをどうする? 誰にやらせる? もうひとりの主役にやらせれば、出番が増えるから、それでいいや、程度の無意識さだろう。
次は、卯之助の話。
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