2000年経っても変わらない。@炎にくちづけを
2005年9月18日 タカラヅカ マンリーコ20歳、って、そりゃないだろ。今さらたかちゃんがハタチの役かよ?!
というツッコミは、置いておいて。
「20年」でなければならなかったのだと思う。
宙組公演『炎にくちづけを』の話。
「今から20年前」と歌い出すために、キリがよくなくてはならなかった……てことは、たしかにあるだろうけど。
べつに、25年前でもよかったし、27年前でもよかったよ。ここの部分だけなら。
いちばんのポイントは、クライマックスのリプライズ。
「今から20年前」ではじまる歌は、ジプシーたちの歌声を得て発展する。
「20年経っても 200年経っても 2000年経っても 何も変わりはしなかった!」
2000年の時の流れ。
どーして「2000」なのか。
『王家に捧ぐ歌』の冒頭でテロリストたちが言う「もう3500年もこうして彷徨っている」と同じ。
『王家』の舞台から3500年後とは、すなわち現代。21世紀初頭。
『炎にくちづけを』で言う「2000」は「〜年後」ではなくずばり、その数字。
2000年。つまり、現代。
作者が訴えるのは、ソレだ。
「もう3500年もこうして彷徨っている。見ろ、なにも変わっちゃいない」
「20年経っても 200年経っても 2000年経っても 何も変わりはしなかった!」
物語で描かれるのは「過ち」。
人間の愚かさ。
別の時代の別の人たちの物語として描かれていることは、フィクションの名を借りた「今この世界」なのだと。
今回は宗教を手段として選んでいるけど、テーマは宗教云々ではない。
キムシンの「叫び」は終始一貫変わってないね。どの作品も。
そして、彼の演出技術はとんどん進化している。
『炎にくちづけを』は、計算された美しい作品だ。
物語の「筋」と、キャラクタの「筋」が正しく機能し、カタルシスを作る。
お姫様と吟遊詩人の夢のよーなロマンス、という風情で幕を上げた物語が、ヒューマンドラマへ着地する。
最初のレオノーラは、恋に恋するバカ姫のよーだ。ろくに話したこともない美男吟遊詩人にメロメロ。
対する吟遊詩人マンリーコはこれでもかとかっこいい。豪華な衣装に薔薇の花で登場だ。わかりやすい悪役のルーナ伯爵相手に、これまたわかりやすく強い。
マンリーコの出生の秘密を観客に提示しながら、それには触れずにまずマンリーコとレオノーラの恋愛にのみスポットをあてて物語が進む。
マンリーコは母親と仲間に優しい、しかし野心と自信に満ちた、ちょっと強引で高慢なところもある男。基本が自信家だから、思ったことは実行する、自分で動くタイプの男だ。
マンリーコが死んだと思ったレオノーラは修道院に入ろうとするし、そんな彼女をマンリーコは命懸けで助けに行く。や、基本自信家で強引なマンリーコならそうでしょう。
次がトラブルを乗り越え、よーやく結ばれたふたりのラヴラヴシーン。
略奪してすぐにやっちゃいますか。最初から屋外ですか。や、基本自信家で強引なマンリーコならそうでしょう。女扱いも慣れてるでしょー。なにしろレオノーラがまだ毛布1枚なのに、マンリーコはしっかり全部着込んでるくらいだ(笑)。脱がなかったのかオマエ。それとも、事後に自分は着込むくせに、女にはあえて着衣を禁じたか。……慣れた男ならそれもアリ(笑)。
このシーンの無邪気なしあわせの表情、「生きている」と繰り返されるラヴソング。
「悲劇」においての「幸福」シーンは重要だ。このシーンが美しければ美しいほど、ふたりが愛し合い、幸福であればあるほど、そのあとの悲劇が活きる。
戦争+母親アズチューナが伯爵に捕らえられたこと、で、マンリーコはこれまた力強いヒーローソングを歌う。や、基本自信家で強引なマンリーコならそうでしょう。
結ばれたばかりの恋人を置いて、戦争しに行っちゃうでしょー。
戦火によって引き離されたふたりが再会するのは、物語が大きく転換したあと。
この転換つーのが、物語上では書かれていない。ルーナ伯爵が歌う「3ヶ月」という歌で力技で説明しているのみ。原作ではその「3ヶ月」という歌による説明すらなく話がぽーんとすっ飛ぶそーだから、まだこの『炎にくちづけを』では説明があるだけマシらしい。
つっても初見ではびっくりするよ。あまりにストーリー端折りすぎてて。ここをなんとかするには、時間が足りなすぎか。
戦争の話は棚上げして、物語はあくまでもマンリーコとレオノーラの恋愛を中心に進む。
ひたすら「ヒーロー」として描かれていたマンリーコが、敗戦後は見る影もなく落ちぶれている。
野心に燃えていた闊達な若者は、それらを根こそぎ失い精彩を欠いている。
が。
性格はべつに、変化してないんだよね。
外に向かっていた能動的・好戦的な部分がおさまっただけのこと。おそらくひどい拷問を受けただろーに口を割らなかった。「レオノーラはジプシーになって逃げた」とルーナ伯爵に告げたのも、自白ではない。ルーナ伯爵をあきらめさせる+嗤うためのものだろう。
そーゆー「強さ」はそのまま。や、基本自信家で強引なマンリーコならそうでしょう。
パリアたちジプシーの男たちが捕まっていたのはまた、別の話。もともとルーナ伯爵と敵対する陣営の騎士だったマンリーコと、戦争に無関係なジプシーたちが同時に「囚人」として登場するからややこしいが、もともと別の話。
マンリーコは戦争絡みで捕らえられ、ジプシーの男たちはそんなマンリーコを助けようとしたか心配で周辺をうろついていたかで捕まったと見るべきだ。だってジプシーたちは戦争関係ないもん。
ジプシーの女たちが別行動なのは、はじめから逃がしてあったんだろう。男たちでマンリーコを助けてくる、だから女たちは安全な場所にいろと。
わざわざ伯爵がジプシー狩りをして、彼らのキャンプを襲って男だけ連れてきたわけじゃないだろーよ。
捕らえられた時期がチガウから、ジプシーたちはみんな普段着のまま。囚人服ではない。
だから彼らは誰ひとり、マンリーコを責めない。幸福に暮らしていたところを「マンリーコの仲間だな」と襲われて連れてこられたわけではないから。
自分たちの意志で、仲間を助けに来て捕まったわけだから。
マンリーコに「お前のせいじゃない」と言うのは、真実だ。
ジプシーたち、とくにパリアのかっこよさは群を抜いている。
「ジーザスが嫌いじゃない」と歌う彼は、自由と自立の象徴だ。どー見たって別人種のマンリーコを仲間として分け隔てなく愛し、自分たちを理解せず迫害する人々をも寛容に受け止める。
暴力による「脅迫」に対し、毅然と先頭をきることで動揺する仲間たちの灯台となり、死んでいった。
ジプシーの男たちの処刑は見せ場のひとつ。
パリアの遺言は少々耳にうるさいが、彼の正しさと強さ、魅力がなによりも活き、だからこそそのあっけない死がより衝撃を与える。
パリアがいちばん先で、最後が最年長のエーク。エークはパリアから「最後」を託された。
恐怖に屈せず、信念を貫くこと。情に流され、女たちの居場所を決して吐かないこと。その信頼を受けて、白髪の老人もまた、毅然と胸を張る。
その姿が、彼らの死を嘆く女たちの姿につながる。男たちが命懸けで守った、女たちの命とその未来。
信頼という、目に見えない力。
それを受けて、女たちが力強く歌うシーンの効力は絶大だ。
続く〜〜。
というツッコミは、置いておいて。
「20年」でなければならなかったのだと思う。
宙組公演『炎にくちづけを』の話。
「今から20年前」と歌い出すために、キリがよくなくてはならなかった……てことは、たしかにあるだろうけど。
べつに、25年前でもよかったし、27年前でもよかったよ。ここの部分だけなら。
いちばんのポイントは、クライマックスのリプライズ。
「今から20年前」ではじまる歌は、ジプシーたちの歌声を得て発展する。
「20年経っても 200年経っても 2000年経っても 何も変わりはしなかった!」
2000年の時の流れ。
どーして「2000」なのか。
『王家に捧ぐ歌』の冒頭でテロリストたちが言う「もう3500年もこうして彷徨っている」と同じ。
『王家』の舞台から3500年後とは、すなわち現代。21世紀初頭。
『炎にくちづけを』で言う「2000」は「〜年後」ではなくずばり、その数字。
2000年。つまり、現代。
作者が訴えるのは、ソレだ。
「もう3500年もこうして彷徨っている。見ろ、なにも変わっちゃいない」
「20年経っても 200年経っても 2000年経っても 何も変わりはしなかった!」
物語で描かれるのは「過ち」。
人間の愚かさ。
別の時代の別の人たちの物語として描かれていることは、フィクションの名を借りた「今この世界」なのだと。
今回は宗教を手段として選んでいるけど、テーマは宗教云々ではない。
キムシンの「叫び」は終始一貫変わってないね。どの作品も。
そして、彼の演出技術はとんどん進化している。
『炎にくちづけを』は、計算された美しい作品だ。
物語の「筋」と、キャラクタの「筋」が正しく機能し、カタルシスを作る。
お姫様と吟遊詩人の夢のよーなロマンス、という風情で幕を上げた物語が、ヒューマンドラマへ着地する。
最初のレオノーラは、恋に恋するバカ姫のよーだ。ろくに話したこともない美男吟遊詩人にメロメロ。
対する吟遊詩人マンリーコはこれでもかとかっこいい。豪華な衣装に薔薇の花で登場だ。わかりやすい悪役のルーナ伯爵相手に、これまたわかりやすく強い。
マンリーコの出生の秘密を観客に提示しながら、それには触れずにまずマンリーコとレオノーラの恋愛にのみスポットをあてて物語が進む。
マンリーコは母親と仲間に優しい、しかし野心と自信に満ちた、ちょっと強引で高慢なところもある男。基本が自信家だから、思ったことは実行する、自分で動くタイプの男だ。
マンリーコが死んだと思ったレオノーラは修道院に入ろうとするし、そんな彼女をマンリーコは命懸けで助けに行く。や、基本自信家で強引なマンリーコならそうでしょう。
次がトラブルを乗り越え、よーやく結ばれたふたりのラヴラヴシーン。
略奪してすぐにやっちゃいますか。最初から屋外ですか。や、基本自信家で強引なマンリーコならそうでしょう。女扱いも慣れてるでしょー。なにしろレオノーラがまだ毛布1枚なのに、マンリーコはしっかり全部着込んでるくらいだ(笑)。脱がなかったのかオマエ。それとも、事後に自分は着込むくせに、女にはあえて着衣を禁じたか。……慣れた男ならそれもアリ(笑)。
このシーンの無邪気なしあわせの表情、「生きている」と繰り返されるラヴソング。
「悲劇」においての「幸福」シーンは重要だ。このシーンが美しければ美しいほど、ふたりが愛し合い、幸福であればあるほど、そのあとの悲劇が活きる。
戦争+母親アズチューナが伯爵に捕らえられたこと、で、マンリーコはこれまた力強いヒーローソングを歌う。や、基本自信家で強引なマンリーコならそうでしょう。
結ばれたばかりの恋人を置いて、戦争しに行っちゃうでしょー。
戦火によって引き離されたふたりが再会するのは、物語が大きく転換したあと。
この転換つーのが、物語上では書かれていない。ルーナ伯爵が歌う「3ヶ月」という歌で力技で説明しているのみ。原作ではその「3ヶ月」という歌による説明すらなく話がぽーんとすっ飛ぶそーだから、まだこの『炎にくちづけを』では説明があるだけマシらしい。
つっても初見ではびっくりするよ。あまりにストーリー端折りすぎてて。ここをなんとかするには、時間が足りなすぎか。
戦争の話は棚上げして、物語はあくまでもマンリーコとレオノーラの恋愛を中心に進む。
ひたすら「ヒーロー」として描かれていたマンリーコが、敗戦後は見る影もなく落ちぶれている。
野心に燃えていた闊達な若者は、それらを根こそぎ失い精彩を欠いている。
が。
性格はべつに、変化してないんだよね。
外に向かっていた能動的・好戦的な部分がおさまっただけのこと。おそらくひどい拷問を受けただろーに口を割らなかった。「レオノーラはジプシーになって逃げた」とルーナ伯爵に告げたのも、自白ではない。ルーナ伯爵をあきらめさせる+嗤うためのものだろう。
そーゆー「強さ」はそのまま。や、基本自信家で強引なマンリーコならそうでしょう。
パリアたちジプシーの男たちが捕まっていたのはまた、別の話。もともとルーナ伯爵と敵対する陣営の騎士だったマンリーコと、戦争に無関係なジプシーたちが同時に「囚人」として登場するからややこしいが、もともと別の話。
マンリーコは戦争絡みで捕らえられ、ジプシーの男たちはそんなマンリーコを助けようとしたか心配で周辺をうろついていたかで捕まったと見るべきだ。だってジプシーたちは戦争関係ないもん。
ジプシーの女たちが別行動なのは、はじめから逃がしてあったんだろう。男たちでマンリーコを助けてくる、だから女たちは安全な場所にいろと。
わざわざ伯爵がジプシー狩りをして、彼らのキャンプを襲って男だけ連れてきたわけじゃないだろーよ。
捕らえられた時期がチガウから、ジプシーたちはみんな普段着のまま。囚人服ではない。
だから彼らは誰ひとり、マンリーコを責めない。幸福に暮らしていたところを「マンリーコの仲間だな」と襲われて連れてこられたわけではないから。
自分たちの意志で、仲間を助けに来て捕まったわけだから。
マンリーコに「お前のせいじゃない」と言うのは、真実だ。
ジプシーたち、とくにパリアのかっこよさは群を抜いている。
「ジーザスが嫌いじゃない」と歌う彼は、自由と自立の象徴だ。どー見たって別人種のマンリーコを仲間として分け隔てなく愛し、自分たちを理解せず迫害する人々をも寛容に受け止める。
暴力による「脅迫」に対し、毅然と先頭をきることで動揺する仲間たちの灯台となり、死んでいった。
ジプシーの男たちの処刑は見せ場のひとつ。
パリアの遺言は少々耳にうるさいが、彼の正しさと強さ、魅力がなによりも活き、だからこそそのあっけない死がより衝撃を与える。
パリアがいちばん先で、最後が最年長のエーク。エークはパリアから「最後」を託された。
恐怖に屈せず、信念を貫くこと。情に流され、女たちの居場所を決して吐かないこと。その信頼を受けて、白髪の老人もまた、毅然と胸を張る。
その姿が、彼らの死を嘆く女たちの姿につながる。男たちが命懸けで守った、女たちの命とその未来。
信頼という、目に見えない力。
それを受けて、女たちが力強く歌うシーンの効力は絶大だ。
続く〜〜。
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