正義の味方はこわいものなし。@ベルサイユのばら−全国ツアー編−
2005年9月25日 タカラヅカ「キミは昨日、ペットショップから子犬を盗もうとしただろう。名門の我が校の生徒にあるまじきことだ。二度としないと誓いなさい」
と、先生はフェルゼンくんにお説教をしようとしました。
するとフェルゼンくんは言い返します。
「先生は自分のことばかり言ってる! 学校の名誉とか、自分の立場とか! あの子犬の気持ちなんか考えてない! 子犬はボクのことが好きだから、ボクと一緒にいる方がしあわせなんだ!(偉そう)」
逆ギレっつーやつです。
「いや、あのね、フェルゼンくん。子犬の気持ち以前に、泥棒は犯罪なんだよ? 悪いことをしたんだから、反省しないと」
「子犬はボクを好きなんだ!(偉そう)」
「いや、そんな話はしてないから。感情の話じゃなくて、道理の話をしているんだよ」
「好きなんだから、愛があるからボクは正しいんだ!(偉そう)」
「それじゃストーカーと同じだよ。好きでも、泥棒はいけないよ。それにキミは、子犬を飼えないだろう。公園の隅でこっそり飼えばいいなんて考えじゃ、子犬が可哀想だとは思わないのか。キミは自分さえしあわせならそれでいいのかい」
「だって、ボクと子犬は両想いなのに!(偉そう)」
「だから、そーゆー話はしてないから」
てなアタマの悪い会話がえんえん繰り返される全国ツアー『ベルサイユのばら』の素敵さに、目眩がします。
自己中で性格破綻者のフェルゼンは、「いつも自分だけが損をしている」と思い込んで生きてます。
彼の思考回路には「自分が得をすること」しか存在してないんですが……まあ、精神的に問題のある人だから議論してもはじまりません。
植爺作の『ベルばら』のフェルゼンっちゅーのは最初からこーゆー人なんで、今回がたまたまそうだというわけでもないし、演じている人のせいでもありません。
悪いのは植爺です。
さて、星組全国ツアー公演『ベルサイユのばら』。
ショーとの2本立てなので、約90分のダイジェスト版です。
いやあ、植爺ってのはすごい人だよ。
わたしたちの「最悪の予想」の斜め上を行く人だよ。
「ダイジェストだからね、これ以上悪くはならないよね。過去の名場面をくっつけるだけで出来上がるもんね」
と、思っていたところ。
テキは植爺です。
そんな「あたりまえのこと」はしません。
名場面なんか使わないもんねっ。つまらないシーンと壊れたシーンだけで物語を作っちゃうもんねっ。
てなもんです。
物語は、「仮面舞踏会」からはじまります。
フェルゼンは留学生。原作では、そつなく立ち回れる超かっこいー青年貴族としてチヤホヤされていたらしい。が、植爺版では「柔軟性に欠けるために新しい場所では巧く立ち回ることができず、孤立していた」ことになっている。
主人公をわざわざかっこわるくして、なんの得があるんだろう……。
そのひとりぼっちのフェルゼンに、アントワネットは「同病相憐れむ」で惹かれたそーな、植爺脚本。
原作では、お忍びの仮面舞踏会だが植爺版では「みーんなアントワネットが誰か知ってる状態」。だからフェルゼンがアントワネットに声をかけたのは「不作法」。近衛兵のオスカルに一喝されることとなる。そんな仮面舞踏会に、なんでアントワネットが行っていたのか謎だが。
運命の出会いをした「フェルゼンとオスカル」。あれ? オスカル?
ふたりはスポットライトを浴びて「恋のとまどい」を歌う。えーと、アントワネットは? フェルゼンとアントワネットの物語なんだから、アントワネットが歌わなきゃおかしいでしょ、コレ?
さて、気前よく時は流れ。
18歳で出会った3人は30歳ほどになってます。
びんぼーくさい張りぼてがわずかに置いてあるだけのなにもない空間で、アントワネットが長い長いひとり語りで、気持ちだとか立場だとかをえんえん説明します。
そして、フェルゼンとデートです。立ったまま。……立ち話デートか……大変やな。
「お忍びで行った仮面舞踏会」で出会ったとかゆーてますが、忍んでないから! みんなアントワネットが誰か知っていて、名乗りを上げながら退場したりしてたから!! 新しいシーンを付け加えたんだから、台詞直そうよ……。
ふたりとも「愛」しかのーみそにないし、「自分はいつも損をしている」と思い込んでいるので、自分以外のすべてへの恨み辛みを吐き出しつつ、愛を語ります。
「悪いのは全部他人。可哀想なのはいつも自分」と思って生きていられるのだから、幸福な人生だと思うけどなあ。
オスカルとやけに初々しく丸い顔をした少年ジェローデルと、名門貴族たちのやりとりで、世情説明をしたあと。
問題の、メルシー伯のお説教シーン。冒頭の先生とフェルゼンくんの会話ね。
何故だ。何故このシーンがある? また無駄に長いし。
物語の鉄則は、「主人公のかっこいいところを描く」だろう。「まちがった主人公が成長し、改心する」のがテーマでない限り。
なのに、フェルゼンがどれだけ精神的に幼稚で自分勝手で傲慢で病んでいるかを見せつけるこのシーンが何故、膨大な時間をかけて存在しているんだ?
植爺脚本の謎。なんでいつもいつも、「まちがったこと」を力説するんだろう。キムシンは「正しいこと」をさも「自分だけが知っている真理」みたいにがなりたてて顰蹙をかっているが(笑)、植爺は「ソレまちがってるから!」なことをさも正しそうに演説して悦に入るんだよね。
メルシー伯が言っているのは、「あたりまえのこと」。なのにフェルゼンは、ソレに反発する。さも正しいのは自分だと言うように。ここで確実に主役としての価値を下げている。正しいことを言われて逆切れだもんよ……。
フェルゼンのしていることは、「まちがっている」んだ。ここでのポイントは、「過ちでも、こうせずにはいられない」ということ。なのに植爺はそうしない。「主人公は絶対に正しい」という信条の人だからな。
だからまちがっているフェルゼンが、「正しいのはボク」と言い張るから気持ち悪い。歪んだ地平。
正しいフェルゼンは可哀想に、正しいのにまちがってないのに、いつも彼は正義で悪いのは他のすべてなのに、彼自身はまったく悪くないのに、つらい別れを強要される。
悩むフェルゼンは「アン・ドゥ・トロワ」と歌い出す。
……すみません、爆笑しました。声殺すのに必死。肩が震える。
だって、さ、「アン あなたのための道」「ドゥ 私のための道」「トロワ 二人のための道」「愛の三叉路」とか言って歌うのよ? いや、うろおぼえで書いてるんで、歌詞チガウと思うけど。
3つとも、自分のための道ばっかやん!!(笑)
ひとつぐらい、道理とか世間とか国とか責任とか考えろよ。
おもしろすぎる。
さて、それで別れを決意するフェルゼン。
お説教されたから、従うてか。
叱られないと、なにもできないんだな、フェルゼン。
原作では、フェルゼンはアントワネットのつらい立場を知り、自分から戦場へ行ったりするんだがな。
なんで、宮廷の人々の姿を見て、自分から身を引く、という流れにしないんだろう。愛する人が、自分のせいで悪し様に罵られているのに。それにはまったく平気で、「悪く言う方が悪いんだ」と自分はいつも正義。でも叱られたら退散。……ひでえ。
続く〜。
と、先生はフェルゼンくんにお説教をしようとしました。
するとフェルゼンくんは言い返します。
「先生は自分のことばかり言ってる! 学校の名誉とか、自分の立場とか! あの子犬の気持ちなんか考えてない! 子犬はボクのことが好きだから、ボクと一緒にいる方がしあわせなんだ!(偉そう)」
逆ギレっつーやつです。
「いや、あのね、フェルゼンくん。子犬の気持ち以前に、泥棒は犯罪なんだよ? 悪いことをしたんだから、反省しないと」
「子犬はボクを好きなんだ!(偉そう)」
「いや、そんな話はしてないから。感情の話じゃなくて、道理の話をしているんだよ」
「好きなんだから、愛があるからボクは正しいんだ!(偉そう)」
「それじゃストーカーと同じだよ。好きでも、泥棒はいけないよ。それにキミは、子犬を飼えないだろう。公園の隅でこっそり飼えばいいなんて考えじゃ、子犬が可哀想だとは思わないのか。キミは自分さえしあわせならそれでいいのかい」
「だって、ボクと子犬は両想いなのに!(偉そう)」
「だから、そーゆー話はしてないから」
てなアタマの悪い会話がえんえん繰り返される全国ツアー『ベルサイユのばら』の素敵さに、目眩がします。
自己中で性格破綻者のフェルゼンは、「いつも自分だけが損をしている」と思い込んで生きてます。
彼の思考回路には「自分が得をすること」しか存在してないんですが……まあ、精神的に問題のある人だから議論してもはじまりません。
植爺作の『ベルばら』のフェルゼンっちゅーのは最初からこーゆー人なんで、今回がたまたまそうだというわけでもないし、演じている人のせいでもありません。
悪いのは植爺です。
さて、星組全国ツアー公演『ベルサイユのばら』。
ショーとの2本立てなので、約90分のダイジェスト版です。
いやあ、植爺ってのはすごい人だよ。
わたしたちの「最悪の予想」の斜め上を行く人だよ。
「ダイジェストだからね、これ以上悪くはならないよね。過去の名場面をくっつけるだけで出来上がるもんね」
と、思っていたところ。
テキは植爺です。
そんな「あたりまえのこと」はしません。
名場面なんか使わないもんねっ。つまらないシーンと壊れたシーンだけで物語を作っちゃうもんねっ。
てなもんです。
物語は、「仮面舞踏会」からはじまります。
フェルゼンは留学生。原作では、そつなく立ち回れる超かっこいー青年貴族としてチヤホヤされていたらしい。が、植爺版では「柔軟性に欠けるために新しい場所では巧く立ち回ることができず、孤立していた」ことになっている。
主人公をわざわざかっこわるくして、なんの得があるんだろう……。
そのひとりぼっちのフェルゼンに、アントワネットは「同病相憐れむ」で惹かれたそーな、植爺脚本。
原作では、お忍びの仮面舞踏会だが植爺版では「みーんなアントワネットが誰か知ってる状態」。だからフェルゼンがアントワネットに声をかけたのは「不作法」。近衛兵のオスカルに一喝されることとなる。そんな仮面舞踏会に、なんでアントワネットが行っていたのか謎だが。
運命の出会いをした「フェルゼンとオスカル」。あれ? オスカル?
ふたりはスポットライトを浴びて「恋のとまどい」を歌う。えーと、アントワネットは? フェルゼンとアントワネットの物語なんだから、アントワネットが歌わなきゃおかしいでしょ、コレ?
さて、気前よく時は流れ。
18歳で出会った3人は30歳ほどになってます。
びんぼーくさい張りぼてがわずかに置いてあるだけのなにもない空間で、アントワネットが長い長いひとり語りで、気持ちだとか立場だとかをえんえん説明します。
そして、フェルゼンとデートです。立ったまま。……立ち話デートか……大変やな。
「お忍びで行った仮面舞踏会」で出会ったとかゆーてますが、忍んでないから! みんなアントワネットが誰か知っていて、名乗りを上げながら退場したりしてたから!! 新しいシーンを付け加えたんだから、台詞直そうよ……。
ふたりとも「愛」しかのーみそにないし、「自分はいつも損をしている」と思い込んでいるので、自分以外のすべてへの恨み辛みを吐き出しつつ、愛を語ります。
「悪いのは全部他人。可哀想なのはいつも自分」と思って生きていられるのだから、幸福な人生だと思うけどなあ。
オスカルとやけに初々しく丸い顔をした少年ジェローデルと、名門貴族たちのやりとりで、世情説明をしたあと。
問題の、メルシー伯のお説教シーン。冒頭の先生とフェルゼンくんの会話ね。
何故だ。何故このシーンがある? また無駄に長いし。
物語の鉄則は、「主人公のかっこいいところを描く」だろう。「まちがった主人公が成長し、改心する」のがテーマでない限り。
なのに、フェルゼンがどれだけ精神的に幼稚で自分勝手で傲慢で病んでいるかを見せつけるこのシーンが何故、膨大な時間をかけて存在しているんだ?
植爺脚本の謎。なんでいつもいつも、「まちがったこと」を力説するんだろう。キムシンは「正しいこと」をさも「自分だけが知っている真理」みたいにがなりたてて顰蹙をかっているが(笑)、植爺は「ソレまちがってるから!」なことをさも正しそうに演説して悦に入るんだよね。
メルシー伯が言っているのは、「あたりまえのこと」。なのにフェルゼンは、ソレに反発する。さも正しいのは自分だと言うように。ここで確実に主役としての価値を下げている。正しいことを言われて逆切れだもんよ……。
フェルゼンのしていることは、「まちがっている」んだ。ここでのポイントは、「過ちでも、こうせずにはいられない」ということ。なのに植爺はそうしない。「主人公は絶対に正しい」という信条の人だからな。
だからまちがっているフェルゼンが、「正しいのはボク」と言い張るから気持ち悪い。歪んだ地平。
正しいフェルゼンは可哀想に、正しいのにまちがってないのに、いつも彼は正義で悪いのは他のすべてなのに、彼自身はまったく悪くないのに、つらい別れを強要される。
悩むフェルゼンは「アン・ドゥ・トロワ」と歌い出す。
……すみません、爆笑しました。声殺すのに必死。肩が震える。
だって、さ、「アン あなたのための道」「ドゥ 私のための道」「トロワ 二人のための道」「愛の三叉路」とか言って歌うのよ? いや、うろおぼえで書いてるんで、歌詞チガウと思うけど。
3つとも、自分のための道ばっかやん!!(笑)
ひとつぐらい、道理とか世間とか国とか責任とか考えろよ。
おもしろすぎる。
さて、それで別れを決意するフェルゼン。
お説教されたから、従うてか。
叱られないと、なにもできないんだな、フェルゼン。
原作では、フェルゼンはアントワネットのつらい立場を知り、自分から戦場へ行ったりするんだがな。
なんで、宮廷の人々の姿を見て、自分から身を引く、という流れにしないんだろう。愛する人が、自分のせいで悪し様に罵られているのに。それにはまったく平気で、「悪く言う方が悪いんだ」と自分はいつも正義。でも叱られたら退散。……ひでえ。
続く〜。
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