素朴な疑問ですが、推敲はしました?@ベルサイユのばら−全国ツアー編−
2005年9月28日 タカラヅカ 星組全国ツアー『ベルサイユのばら』の話、その4。
あちこちまちがいまくっていて、5分に1回ツッコミが入る内容なので、いちいちおぼえていられない。メモ取りながら見ているわけじゃないので、忘れちゃうんだよなあ。なにしろ変なのがニュートラルだから。多すぎて数えられないし、おぼえていられない。
2回目の観劇のとき、「貴族」っていう単語の数を数えようとしたんだけど、途中うっかり意識がとんじゃって(笑)、数え切れなかった。10回以上は出てきたと思うんだが。惜しいなぁ。でももう、何回見ても起きていられる自信はないので、再挑戦は断念。
植爺の脚本は失敗だらけだけど、その原因のひとつに「推敲していない」ってのがあるんじゃないだろうか。
ふつー、文章を書いたら人に見せる前に読み直すよね。
誤字脱字とか、文法上の間違いだとか、文章としての辻褄に誤りはないかとか、自分でまずチェックするよね。まちがったままだと、自分が恥ずかしいから。
でも植爺作品には、あからさまな「推敲していたら間違えないよね?」的なミスが山ほどある。
前述の、「身分を明かした状態で参加していた仮面舞踏会」のことを、あとのシーンで「お忍びで行った仮面舞踏会」と言っていることや、フェルゼンの妹を勝手に姉に直したのに台詞はそのままだったりする、ケアレスミス。
それとか、アントワネットがオスカルに対して「あなたは11歳のときから守ってくれて云々」と言わせてみたり。(オスカルがアントワネットを守る任務についたのは、アントワネットが結婚のためフランスに来てから。つまり、14歳のとき)
推敲していたら、しないで済む程度のしょーもないミスだ。
あと、無駄な説明台詞の多さも、推敲したら気づくよな。
いちばんわかりやすい例が、「11歳のときから云々」って、まったく同じ文章をコピペしたみたいに、2度も使ってること。しかも、2回目はアントワネットが言うわけだから、使用法まちがってるし。
わたしが思わず数を数えてしまった「貴族」という言葉も、説明台詞として繰り返しまくってるので耳障りでしょうがなかった。
説明台詞なんてものは、1回使うだけでもかっこわるいのに、2回以上えんえんえんえん意味もなく繰り替えし続けていると、ただのバカに見えるよ……。
文章のまちがいの他に、構成の失敗まで言い出したらキリがないから、それには今は触れずにおくけど。
植爺、推敲すればいいのに。
きっと、勢いだけで書いて、2度と読み返してないんだろうな。
読み返したら、まちがいに気づくはずだもの。誰か植爺に教えてあげてよ。「ひとに見せる前に、一度読み返すといいですよ」って。
さて。
いつもいつも「悪いのは全部他人。可哀想なのはいつも自分」なフェルゼンくん。
オスカルがアントワネットを裏切って死んだ、と聞いても、「可哀想。まだ若いのに」しか言えない男。
なんでそうなるかなあ。
この台詞の前に「バスティーユで?!」と一言つけるとか、「まだ若いのに」という一言を削るかすれば、植爺がどんなに原作を読んだことなくて推敲すらしていなくても、あとは役者ががんばって辻褄の合う演技をしてくれるだろうに。
「バスティーユで?!」とそこに言及した一言加われば、「どんなに苦しかったろう」とか言ってるのが、アントワネットを裏切るに至ったオスカルの気持ちを思いやっているよーに聞こえるし、それがないままでもせめて、「まだ若いのに」という余計な一言がなければ、やはり「苦しかったろう」がオスカルの気持ちを言っているよーに聞こえる。
最後に「まだ若いのに」とつけてしまうことで、フェルゼンがただ「オスカルが死んでしまった」ことだけを嘆いているよーになってしまう。
オスカルも浮かばれないよ……。こんなボケに「可哀想」とか言われちゃあ。
それに、このときまで知らなかったけど、フェルゼンくんてばフランスを追放されてたんだって。
自分から潔くかっこつけて、アンドレに説教までして出てきたってのに、実は追放だったんだって。
ははは、立場ないやな。だから植爺、主人公を無意味にかっこわるくするのはやめろって(以下略)。
で、追放されたことを一族郎党で恨んでいる。
そして恥さらしだっつーんで、祖国スウェーデン内でもつるし上げくって、屋敷に幽閉されてるんだって。もちろんフェルゼン一族は、そのことを恨んでいる。
ぐちぐちぐちぐち、恨み辛みの説明の長いこと。
さすが「悪いのは全部他人。可哀想なのはいつも自分」だよなあ。姉弟そろって恨み節。だから植爺、主人公を無意味にかっこわるくするのはやめろって(以下略)。
恨み節を繰り返す理由は、「けなげな主人公」の表現のつもりかしら。
こんなにこんなに心ない世間に冷たい目で見られ、酷い仕打ちを受けている。でも彼は、美しい心を持ったままでした。てか?
でもなー。それはほんとーに主人公がまちがってない場合のみ有効だから。
主人公がまちがっている場合、正しいのはソレを責めている世間だから!
繰り返せば繰り返すほど、主人公の立場がなくなっていくんだが。なにしろ説明が全部恨み節だもん。
「ボクは悪くないのに、世間の奴らはボクのことを泥棒扱いするんだ」
って、盗んだお菓子を食べながら文句言ってる子どもみたい。
まあ、屋敷に幽閉されてるのどうのというのは、たんに次の「スウェーデン宮廷」の場面をやりたかっただけだと思う。
このダイジェスト版『ベルばら』のなかで、メルシー伯のお説教と双璧となる、いらない・まちがった・マイナス場面、スウェーデン宮廷シーン。
今日はスウェーデン国王グスタフ3世のお誕生日。国家に名だたる恥さらし男として幽閉されていたフェルゼンくんも、王様のお誕生祝いという名目で王宮へやってくる。どさくさにまぎれてフランスへ行く気満々だ。
しかし、フェルゼン家の謎の下僕デュガゾンは、ヨルゲン陸軍大臣のスパイで、フェルゼンくんの行動は筒抜け。
大臣は説明台詞を駆使して、まぬけそーな兵隊たちに命令する。フェルゼンをフランスに行かせるなと。
兵隊がなんでまぬけそーかと言うと、これまたアタマの悪い説明台詞を無駄に繰り返しまくるから。同じことを何人で、何回言えば気がすむんだろー……えーとコレ、何時間ある芝居だっけ。
メルシー伯のシーンは、いらないシーンだとはいえ、メルシー伯自身はまちがっていなかった。フェルゼンがまちがっているだけで(いや、それがいちばんの問題なんだが)。
しかし、スウェーデン宮廷シーンのどこがすごいかというと、グスタフ3世もフェルゼンも、ふたりそろってまちがいまくり、壊れまくりだということ!
ふたりだけで会話するシーンで、ふたりとも常識通用しないこわい人なんだよ……宇宙人の会話だよ……。ぶるぶる。
続く〜〜。
あちこちまちがいまくっていて、5分に1回ツッコミが入る内容なので、いちいちおぼえていられない。メモ取りながら見ているわけじゃないので、忘れちゃうんだよなあ。なにしろ変なのがニュートラルだから。多すぎて数えられないし、おぼえていられない。
2回目の観劇のとき、「貴族」っていう単語の数を数えようとしたんだけど、途中うっかり意識がとんじゃって(笑)、数え切れなかった。10回以上は出てきたと思うんだが。惜しいなぁ。でももう、何回見ても起きていられる自信はないので、再挑戦は断念。
植爺の脚本は失敗だらけだけど、その原因のひとつに「推敲していない」ってのがあるんじゃないだろうか。
ふつー、文章を書いたら人に見せる前に読み直すよね。
誤字脱字とか、文法上の間違いだとか、文章としての辻褄に誤りはないかとか、自分でまずチェックするよね。まちがったままだと、自分が恥ずかしいから。
でも植爺作品には、あからさまな「推敲していたら間違えないよね?」的なミスが山ほどある。
前述の、「身分を明かした状態で参加していた仮面舞踏会」のことを、あとのシーンで「お忍びで行った仮面舞踏会」と言っていることや、フェルゼンの妹を勝手に姉に直したのに台詞はそのままだったりする、ケアレスミス。
それとか、アントワネットがオスカルに対して「あなたは11歳のときから守ってくれて云々」と言わせてみたり。(オスカルがアントワネットを守る任務についたのは、アントワネットが結婚のためフランスに来てから。つまり、14歳のとき)
推敲していたら、しないで済む程度のしょーもないミスだ。
あと、無駄な説明台詞の多さも、推敲したら気づくよな。
いちばんわかりやすい例が、「11歳のときから云々」って、まったく同じ文章をコピペしたみたいに、2度も使ってること。しかも、2回目はアントワネットが言うわけだから、使用法まちがってるし。
わたしが思わず数を数えてしまった「貴族」という言葉も、説明台詞として繰り返しまくってるので耳障りでしょうがなかった。
説明台詞なんてものは、1回使うだけでもかっこわるいのに、2回以上えんえんえんえん意味もなく繰り替えし続けていると、ただのバカに見えるよ……。
文章のまちがいの他に、構成の失敗まで言い出したらキリがないから、それには今は触れずにおくけど。
植爺、推敲すればいいのに。
きっと、勢いだけで書いて、2度と読み返してないんだろうな。
読み返したら、まちがいに気づくはずだもの。誰か植爺に教えてあげてよ。「ひとに見せる前に、一度読み返すといいですよ」って。
さて。
いつもいつも「悪いのは全部他人。可哀想なのはいつも自分」なフェルゼンくん。
オスカルがアントワネットを裏切って死んだ、と聞いても、「可哀想。まだ若いのに」しか言えない男。
なんでそうなるかなあ。
この台詞の前に「バスティーユで?!」と一言つけるとか、「まだ若いのに」という一言を削るかすれば、植爺がどんなに原作を読んだことなくて推敲すらしていなくても、あとは役者ががんばって辻褄の合う演技をしてくれるだろうに。
「バスティーユで?!」とそこに言及した一言加われば、「どんなに苦しかったろう」とか言ってるのが、アントワネットを裏切るに至ったオスカルの気持ちを思いやっているよーに聞こえるし、それがないままでもせめて、「まだ若いのに」という余計な一言がなければ、やはり「苦しかったろう」がオスカルの気持ちを言っているよーに聞こえる。
最後に「まだ若いのに」とつけてしまうことで、フェルゼンがただ「オスカルが死んでしまった」ことだけを嘆いているよーになってしまう。
オスカルも浮かばれないよ……。こんなボケに「可哀想」とか言われちゃあ。
それに、このときまで知らなかったけど、フェルゼンくんてばフランスを追放されてたんだって。
自分から潔くかっこつけて、アンドレに説教までして出てきたってのに、実は追放だったんだって。
ははは、立場ないやな。だから植爺、主人公を無意味にかっこわるくするのはやめろって(以下略)。
で、追放されたことを一族郎党で恨んでいる。
そして恥さらしだっつーんで、祖国スウェーデン内でもつるし上げくって、屋敷に幽閉されてるんだって。もちろんフェルゼン一族は、そのことを恨んでいる。
ぐちぐちぐちぐち、恨み辛みの説明の長いこと。
さすが「悪いのは全部他人。可哀想なのはいつも自分」だよなあ。姉弟そろって恨み節。だから植爺、主人公を無意味にかっこわるくするのはやめろって(以下略)。
恨み節を繰り返す理由は、「けなげな主人公」の表現のつもりかしら。
こんなにこんなに心ない世間に冷たい目で見られ、酷い仕打ちを受けている。でも彼は、美しい心を持ったままでした。てか?
でもなー。それはほんとーに主人公がまちがってない場合のみ有効だから。
主人公がまちがっている場合、正しいのはソレを責めている世間だから!
繰り返せば繰り返すほど、主人公の立場がなくなっていくんだが。なにしろ説明が全部恨み節だもん。
「ボクは悪くないのに、世間の奴らはボクのことを泥棒扱いするんだ」
って、盗んだお菓子を食べながら文句言ってる子どもみたい。
まあ、屋敷に幽閉されてるのどうのというのは、たんに次の「スウェーデン宮廷」の場面をやりたかっただけだと思う。
このダイジェスト版『ベルばら』のなかで、メルシー伯のお説教と双璧となる、いらない・まちがった・マイナス場面、スウェーデン宮廷シーン。
今日はスウェーデン国王グスタフ3世のお誕生日。国家に名だたる恥さらし男として幽閉されていたフェルゼンくんも、王様のお誕生祝いという名目で王宮へやってくる。どさくさにまぎれてフランスへ行く気満々だ。
しかし、フェルゼン家の謎の下僕デュガゾンは、ヨルゲン陸軍大臣のスパイで、フェルゼンくんの行動は筒抜け。
大臣は説明台詞を駆使して、まぬけそーな兵隊たちに命令する。フェルゼンをフランスに行かせるなと。
兵隊がなんでまぬけそーかと言うと、これまたアタマの悪い説明台詞を無駄に繰り返しまくるから。同じことを何人で、何回言えば気がすむんだろー……えーとコレ、何時間ある芝居だっけ。
メルシー伯のシーンは、いらないシーンだとはいえ、メルシー伯自身はまちがっていなかった。フェルゼンがまちがっているだけで(いや、それがいちばんの問題なんだが)。
しかし、スウェーデン宮廷シーンのどこがすごいかというと、グスタフ3世もフェルゼンも、ふたりそろってまちがいまくり、壊れまくりだということ!
ふたりだけで会話するシーンで、ふたりとも常識通用しないこわい人なんだよ……宇宙人の会話だよ……。ぶるぶる。
続く〜〜。
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