わたしは植田紳爾に絶望しているので、多くは求めていない。
どんなに壊れていても、まちがっていても、「植爺だから」とあきらめている。
星組『ベルサイユのばら−フェルゼンとマリー・アントワネット編−』がどれほど壊れていようと、それは最初からわかっていたことだ。どうあがいたところで、根本から壊れているものが正しくなるはずもない。
そーゆー絶望を基本とした上で。
今回の『ベルばら』は、意外にいい感じだ。
3日分の欄をかけて「おおまかな物語の流れ」を書いたのも、文句だけでなく「よくなっているところ」を書きたかったからだ。
最悪だった「平成フェルゼン編」や「2001」より、はるかにマシ。
毎回毎回、再演されるたびにひどくなっていく壊れ方に開いた口がふさがらなかったのに、はじめて、よい方向に改訂されていたので、おどろいたよ。
落ちる一方だと思っていたのに。これ以上底はない、と思っていてもさらに深い絶望の淵があって、そのたびおどろいていたのに。
まさか、浮上することがあるなんて。
大筋ではなく、細かい部分の修繕(壊れた部分を拾い、直しているから、修繕だろコレは)なので、植爺の仕業だとは思えない。他の演出家の力じゃないかと思う。
やっぱ谷せんせかな、あのみみっちい変更の仕方は。『JAZZYな妖精たち』の変更を観た直後なので、一層実感する。
修繕、という言葉から、『ベルばら』を「服」に喩えてみる。
もともと製図が狂っているから、どんなにほころびを繕ったところで、両袖の長さがチガウとかボタンが留まらないとかの問題はあるけれど。
でも、少なくとも「服」になってるよ! 変だけど、いちおー着ることはできるよ!
今までの植爺『ベルばら』は、服ですらなかったからな。植爺ひとりが「服」だと悦に入っていただけで。まさに裸の王様で。
誰の功績かは知らないが、ほんと、よかったよ、今回の『ベルばら』。GJ!
全ツを観て絶望した人、こわがらないで観てみて。アレよりはるかにマシだから。
とはいえ。
最初に述べた通り、駄作で絶望作品であることは変わらないんだけどな(笑)。
不満はいろいろあるし、不満しかないよーな気もするが(笑)、そのなかで現時点いちばん気になること。
それが、植爺の持つ女性蔑視だ。
「オスカル」というキャラクタの本質を理解していないこと。
何故「オスカル」はこうまで女性の心をとらえたか。
それは、彼女が男装しているからではない。
もちろん「男装の麗人」であることが、魅力のひとつではある。でもそれは、どんなにおいしいお菓子も汚いパッケージだとおいしそうに見えないのと同じ。本質を彩るための装飾のひとつにすぎないんだ。
オスカルが男装の麗人であろうと、彼女の「人間性」に魅力がなければ、ここまで支持されることはなかったんだ。
オスカルが「男装」し、「男社会」で生きていること。
それは「女性人権問題」「女性解放問題」などとはまったく別のことだ。
オスカルは、その生き様で表している。
「人間」として、生きることを。
だが、植爺にはソレがわかっていない。
オスカルとはすなわち、フェミニズムのことだと思っている。
だからふたことめには、「女だって」と主張する。
「おおまかな物語の流れ」でわたしが(カンチガイ発言)と注意書きした部分がそうだ。
・「女のくせに男の格好をしているから、そーゆーことを平気で言えるよーになるんだ」(カンチガイ発言1)
・フェルゼンに罵られたオスカル、いじいじ。「私だって女だ」(カンチガイ発言2)
・オスカルは現在のフランス情勢に危機感を持っている。でもって、ブイエ将軍と対立している。
・またしても「女だから」つー話になる。(カンチガイ発言3)
・ブイエ将軍と、裏切り者オスカル。最後の対立。「女にだって意見を述べる権利はある!!」(カンチガイ発言4)
植爺脚本では、ひたすら「女」「女」と連呼する。
「女が軍服を着てなにが悪い」「女のくせに」「女だって」と。
だが、オスカルが言っているのは、「女だけの限定項目」ではないんだ。
「女のくせに男の格好をしているから」愛がわからない、という理屈はおかしい。軍服を着て軍隊にいるから、愛がわからない? じゃあ世の軍人はすべて愛がわからないのか?
女が男の格好をする、男を真似ている、だから愛がわからない、というなら、世の男たちもまた愛がわからないということだな。だってソレを真似ているわけだから。
愛に対する考え方は、人間性の問題であり、服装や職業とは関係ない。
「女だから」「男だから」は関係ない。「人間だから」愛を語るんだ。
こんな偏狭な理屈で友人を罵る植爺フェルゼンは、最悪な人物だ。
それに対し、「私だって女だ」と返す植爺オスカルも最悪。
女だから、愛がわかるんじゃないってば。
人間だから、わかるんだ。
ブイエ将軍とオスカルは、たびたび「女だから」という言い合いをする。
差別や暴力を当然のものと考えるブイエ将軍に、オスカルは異を唱える。それを植爺はすべて「女だから」と片付ける。
そしてオスカルは「女が意見を述べてなにが悪い」と返す。
……チガウから。
話題の焦点は、「女」じゃなく、「まちがったことを、まちがっていると指摘している」ことなんだってば。
1「赤信号を無視して、なにが悪い。ワシはえらいんだ」
2「ブイエ将軍、それはちがいます。ルールは守らなければなりません」
3「なんだと、女のくせに生意気な」
4「女にだって意見を述べる権利はある!」
だから、赤信号の話はどこにいったのよ?
男だ女だと言う以前の話でしょう。
4「性別は関係ありません。人間である以上、人間社会のルールを守る義務があると言っているのです」
わたしが(カンチガイ発言)とした部分はすべて、植爺が「女だから」と連呼している部分だ。
彼が「女」「女」とこれみよがしに言っていることは全部、性別など関係ない、人間だからと言い換えるべき部分なんだ。
「人間だから」という表現をするべき部分を全部、「女だから」とするところに、植田紳爾の女性蔑視が現れている。
「女の人権を持ち上げる台詞を吐かせればいいんだろ? 男社会で生きるオスカルがかっこいいんだろ? 女をバカにする男をやりこめればいいんだろ?」
……そう薄ら笑いして書いていそうだ。
オスカルは、「女の人権」のために男の格好をして、男社会で生きているわけじゃない。
彼女は「ひとりの人間」として、精一杯に自分の人生を生きているんだ。
その真摯な生き方が、彼女の魅力であり、人気なんだ。
それは、今も昔も変わらない。
男だ女だという以前の話。
真摯に誠実に、逃げずに一途に、ときに悩みつまずきながら、それでも困難と闘い信念を貫く。……物語のヒーローに共通した魅力じゃないか。
植爺には、「所詮女」というフィルターがあるから、理解できないのだろうけど。
どんなに壊れていても、まちがっていても、「植爺だから」とあきらめている。
星組『ベルサイユのばら−フェルゼンとマリー・アントワネット編−』がどれほど壊れていようと、それは最初からわかっていたことだ。どうあがいたところで、根本から壊れているものが正しくなるはずもない。
そーゆー絶望を基本とした上で。
今回の『ベルばら』は、意外にいい感じだ。
3日分の欄をかけて「おおまかな物語の流れ」を書いたのも、文句だけでなく「よくなっているところ」を書きたかったからだ。
最悪だった「平成フェルゼン編」や「2001」より、はるかにマシ。
毎回毎回、再演されるたびにひどくなっていく壊れ方に開いた口がふさがらなかったのに、はじめて、よい方向に改訂されていたので、おどろいたよ。
落ちる一方だと思っていたのに。これ以上底はない、と思っていてもさらに深い絶望の淵があって、そのたびおどろいていたのに。
まさか、浮上することがあるなんて。
大筋ではなく、細かい部分の修繕(壊れた部分を拾い、直しているから、修繕だろコレは)なので、植爺の仕業だとは思えない。他の演出家の力じゃないかと思う。
やっぱ谷せんせかな、あのみみっちい変更の仕方は。『JAZZYな妖精たち』の変更を観た直後なので、一層実感する。
修繕、という言葉から、『ベルばら』を「服」に喩えてみる。
もともと製図が狂っているから、どんなにほころびを繕ったところで、両袖の長さがチガウとかボタンが留まらないとかの問題はあるけれど。
でも、少なくとも「服」になってるよ! 変だけど、いちおー着ることはできるよ!
今までの植爺『ベルばら』は、服ですらなかったからな。植爺ひとりが「服」だと悦に入っていただけで。まさに裸の王様で。
誰の功績かは知らないが、ほんと、よかったよ、今回の『ベルばら』。GJ!
全ツを観て絶望した人、こわがらないで観てみて。アレよりはるかにマシだから。
とはいえ。
最初に述べた通り、駄作で絶望作品であることは変わらないんだけどな(笑)。
不満はいろいろあるし、不満しかないよーな気もするが(笑)、そのなかで現時点いちばん気になること。
それが、植爺の持つ女性蔑視だ。
「オスカル」というキャラクタの本質を理解していないこと。
何故「オスカル」はこうまで女性の心をとらえたか。
それは、彼女が男装しているからではない。
もちろん「男装の麗人」であることが、魅力のひとつではある。でもそれは、どんなにおいしいお菓子も汚いパッケージだとおいしそうに見えないのと同じ。本質を彩るための装飾のひとつにすぎないんだ。
オスカルが男装の麗人であろうと、彼女の「人間性」に魅力がなければ、ここまで支持されることはなかったんだ。
オスカルが「男装」し、「男社会」で生きていること。
それは「女性人権問題」「女性解放問題」などとはまったく別のことだ。
オスカルは、その生き様で表している。
「人間」として、生きることを。
だが、植爺にはソレがわかっていない。
オスカルとはすなわち、フェミニズムのことだと思っている。
だからふたことめには、「女だって」と主張する。
「おおまかな物語の流れ」でわたしが(カンチガイ発言)と注意書きした部分がそうだ。
・「女のくせに男の格好をしているから、そーゆーことを平気で言えるよーになるんだ」(カンチガイ発言1)
・フェルゼンに罵られたオスカル、いじいじ。「私だって女だ」(カンチガイ発言2)
・オスカルは現在のフランス情勢に危機感を持っている。でもって、ブイエ将軍と対立している。
・またしても「女だから」つー話になる。(カンチガイ発言3)
・ブイエ将軍と、裏切り者オスカル。最後の対立。「女にだって意見を述べる権利はある!!」(カンチガイ発言4)
植爺脚本では、ひたすら「女」「女」と連呼する。
「女が軍服を着てなにが悪い」「女のくせに」「女だって」と。
だが、オスカルが言っているのは、「女だけの限定項目」ではないんだ。
「女のくせに男の格好をしているから」愛がわからない、という理屈はおかしい。軍服を着て軍隊にいるから、愛がわからない? じゃあ世の軍人はすべて愛がわからないのか?
女が男の格好をする、男を真似ている、だから愛がわからない、というなら、世の男たちもまた愛がわからないということだな。だってソレを真似ているわけだから。
愛に対する考え方は、人間性の問題であり、服装や職業とは関係ない。
「女だから」「男だから」は関係ない。「人間だから」愛を語るんだ。
こんな偏狭な理屈で友人を罵る植爺フェルゼンは、最悪な人物だ。
それに対し、「私だって女だ」と返す植爺オスカルも最悪。
女だから、愛がわかるんじゃないってば。
人間だから、わかるんだ。
ブイエ将軍とオスカルは、たびたび「女だから」という言い合いをする。
差別や暴力を当然のものと考えるブイエ将軍に、オスカルは異を唱える。それを植爺はすべて「女だから」と片付ける。
そしてオスカルは「女が意見を述べてなにが悪い」と返す。
……チガウから。
話題の焦点は、「女」じゃなく、「まちがったことを、まちがっていると指摘している」ことなんだってば。
1「赤信号を無視して、なにが悪い。ワシはえらいんだ」
2「ブイエ将軍、それはちがいます。ルールは守らなければなりません」
3「なんだと、女のくせに生意気な」
4「女にだって意見を述べる権利はある!」
だから、赤信号の話はどこにいったのよ?
男だ女だと言う以前の話でしょう。
4「性別は関係ありません。人間である以上、人間社会のルールを守る義務があると言っているのです」
わたしが(カンチガイ発言)とした部分はすべて、植爺が「女だから」と連呼している部分だ。
彼が「女」「女」とこれみよがしに言っていることは全部、性別など関係ない、人間だからと言い換えるべき部分なんだ。
「人間だから」という表現をするべき部分を全部、「女だから」とするところに、植田紳爾の女性蔑視が現れている。
「女の人権を持ち上げる台詞を吐かせればいいんだろ? 男社会で生きるオスカルがかっこいいんだろ? 女をバカにする男をやりこめればいいんだろ?」
……そう薄ら笑いして書いていそうだ。
オスカルは、「女の人権」のために男の格好をして、男社会で生きているわけじゃない。
彼女は「ひとりの人間」として、精一杯に自分の人生を生きているんだ。
その真摯な生き方が、彼女の魅力であり、人気なんだ。
それは、今も昔も変わらない。
男だ女だという以前の話。
真摯に誠実に、逃げずに一途に、ときに悩みつまずきながら、それでも困難と闘い信念を貫く。……物語のヒーローに共通した魅力じゃないか。
植爺には、「所詮女」というフィルターがあるから、理解できないのだろうけど。
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