ステファン人形の謎。@ベルサイユのばら−フェルゼンとマリー・アントワネット−
2006年1月12日 タカラヅカ マリー・アントワネットは、ステファンという人形を持っている。大切にしている。
彼女は14歳。……14歳にしては言動が7歳くらいだが、まあ植爺だから仕方ない。
精神年齢が低い設定でもかまわない。
不思議なのは、どうして「ステファン」人形なのかということだ。
おもちゃ売場に行って、女児向けの人形コーナーを見てみてほしい。
たしかに女の子はお人形が好きだ。女児向けのお人形はたくさん売っている。
だが。
人形のほとんどは、女の子だ。
男の子の人形はほんのわずかだ。女の子の人形の種類に対し、何パーセントあるだろうか。
少女にとって、お人形は自己を投影したモノだ。
もうひとりの自分として、お人形を愛する。
自我が確立し、またその関心が自分以外に向くようになれば、自然と「お人形」を卒業する。
男の子の姿の人形は、あくまでも「女の子の人形のボーイフレンド」として存在している。男の子単体ではない。付属物だ。お人形のドレスや靴と同じ扱い。
だって幼い少女の関心は「自分自身」であり、異性にはない。
なのに何故、アントワネットは「男の子の人形」を持っているのか。
しかも、自分で作ったのだという。
男の子の人形を作る、幼い少女、って……なんか、こわいんですけど。
何故わざわざ男の子を作る?
お人形のたのしみは、着せ替えできるということにもある。
お人形売場を見てくれ。リカちゃんだのジェニーちゃんだののお洋服が山ほど売っている。ドレスや着物、有名デザイナーの実在の服と同じもの、ユニフォームだとか下着まで取りそろえられている。
一方、男の子の服は、人形以上に少ない。男の子人形には、着せ替えをするたのしみが少ないからだ。
アントワネットはお嫁入りに関し、きれいなドレスを着ることができてうれしいとよろこんでいる。つまり彼女もふつーの女の子の感覚を持っているわけだ。
きれいなドレスがうれしい。……それなら、お人形にも、きれいな服を着せるだろう。着せ替えてたのしむだろう。自分がしてうれしいことなら、大切なお人形にもしてあげるだろうから。
だが、ステファン人形では、それもない。
男の子には、ドレスは着せてあげられない。
服を着替えさせ、髪をとかし、話しかけたり抱きしめたりする。
少女が女の子の人形にそれをするのは微笑ましいが、男の子の人形だと違和感がある。
男の子を、裸にして着替えさせるんだ。
男の子に話しかけ、抱きしめるんだ。
それは異性として?
でも14歳のアントワネットは、結婚の意味もわからない無邪気な少女として描かれている。精神年齢7歳くらい、てな描かれ方をしていながら、実は異性に興味津々で、男の子の人形を疑似恋人として愛でていたというつもりか? それ、キモいんですけど。
ほんとうに、幼児としてのお人形遊びが好きな無邪気な少女、とするならば、やはり男の人形はおかしい。自己の投影なら、同性の人形であるはずだからだ。
それともアントワネットは、実は男性の心を持っていたのか? 性同一性障害?
わけわかんない。
最初に『ベルサイユのばら−フェルゼンとマリー・アントワネット編−』を見たときから、ステファン人形は謎だった。
ええっとあれは、平成元年だったかな。
「わたくしがお人形だったのです」
という台詞をアントワネットに言わせたいためだけなんだろうけど、それならばなおさら、人形は女でなければならない。
何故男なんだ?
……たぶん植爺は、なにも考えていないんだろう。
自分が欲しい、かわいがりたい人形は異性の人形だからと、なにも考えずにアントワネットにも異性の人形を与えたか。
それとも、「女はみんな男好き」という意識で、アントワネットがかわいがるのは男の人形であるべきと思ったのか。
ほんとーに、「女」を蔑視してるんだろーな。ほんのちょっとでも「女」という生き物に興味を持って眺めてみればわかるようなことでさえ、無知をあからさまにしている。
とまあ、その存在すら謎なんだけどな、ステファン人形。
このわけのわからない人形の説明が、やたらと多すぎる。
前述の「おおまかな物語の流れ」で(S−*)という印をつけた。
14歳のアントワネットがまず話し(Sー1)、次に現在のアントワネットがメルシー伯爵と話し(S−2)、これだけで観客はもうおなかいっぱい状態なのに、さらにまた、メルシー伯爵とフェルゼンで同じことを繰り返す(S−3)。たった1時間強のうちに、同じ話が3回。
次に2幕になって、落ちぶれたアントワネットが子どもたちに人形の解説(S−4)、そして最後の牢獄でメルシー伯爵からステファン返却(S−5)。こちらもフィナーレをのぞいたたかだか1時間弱の間に、2回。
くどいっ!!
どう考えても、(S−3)はいらんやろ。最初の2回だけなら許容範囲だが、この3回目で致命的になる。
てゆーか、メルシー伯爵のお説教シーン自体、いらないんだけどな。
もちろん、小道具としての「人形」は悪くない。
14歳のアントワネットの幼さを表現し、死を間際にした38歳のアントワネットの「わたくしがお人形だったのです」と言わせるために使うアイディアはいい。
だが、こうまで何度も何度も解説されると、作者のバカさの方が強調されるよー。自分でぶちこわしにしてるんだよなー。
そんなところも、ハズすことなく植爺クオリティ。
彼女は14歳。……14歳にしては言動が7歳くらいだが、まあ植爺だから仕方ない。
精神年齢が低い設定でもかまわない。
不思議なのは、どうして「ステファン」人形なのかということだ。
おもちゃ売場に行って、女児向けの人形コーナーを見てみてほしい。
たしかに女の子はお人形が好きだ。女児向けのお人形はたくさん売っている。
だが。
人形のほとんどは、女の子だ。
男の子の人形はほんのわずかだ。女の子の人形の種類に対し、何パーセントあるだろうか。
少女にとって、お人形は自己を投影したモノだ。
もうひとりの自分として、お人形を愛する。
自我が確立し、またその関心が自分以外に向くようになれば、自然と「お人形」を卒業する。
男の子の姿の人形は、あくまでも「女の子の人形のボーイフレンド」として存在している。男の子単体ではない。付属物だ。お人形のドレスや靴と同じ扱い。
だって幼い少女の関心は「自分自身」であり、異性にはない。
なのに何故、アントワネットは「男の子の人形」を持っているのか。
しかも、自分で作ったのだという。
男の子の人形を作る、幼い少女、って……なんか、こわいんですけど。
何故わざわざ男の子を作る?
お人形のたのしみは、着せ替えできるということにもある。
お人形売場を見てくれ。リカちゃんだのジェニーちゃんだののお洋服が山ほど売っている。ドレスや着物、有名デザイナーの実在の服と同じもの、ユニフォームだとか下着まで取りそろえられている。
一方、男の子の服は、人形以上に少ない。男の子人形には、着せ替えをするたのしみが少ないからだ。
アントワネットはお嫁入りに関し、きれいなドレスを着ることができてうれしいとよろこんでいる。つまり彼女もふつーの女の子の感覚を持っているわけだ。
きれいなドレスがうれしい。……それなら、お人形にも、きれいな服を着せるだろう。着せ替えてたのしむだろう。自分がしてうれしいことなら、大切なお人形にもしてあげるだろうから。
だが、ステファン人形では、それもない。
男の子には、ドレスは着せてあげられない。
服を着替えさせ、髪をとかし、話しかけたり抱きしめたりする。
少女が女の子の人形にそれをするのは微笑ましいが、男の子の人形だと違和感がある。
男の子を、裸にして着替えさせるんだ。
男の子に話しかけ、抱きしめるんだ。
それは異性として?
でも14歳のアントワネットは、結婚の意味もわからない無邪気な少女として描かれている。精神年齢7歳くらい、てな描かれ方をしていながら、実は異性に興味津々で、男の子の人形を疑似恋人として愛でていたというつもりか? それ、キモいんですけど。
ほんとうに、幼児としてのお人形遊びが好きな無邪気な少女、とするならば、やはり男の人形はおかしい。自己の投影なら、同性の人形であるはずだからだ。
それともアントワネットは、実は男性の心を持っていたのか? 性同一性障害?
わけわかんない。
最初に『ベルサイユのばら−フェルゼンとマリー・アントワネット編−』を見たときから、ステファン人形は謎だった。
ええっとあれは、平成元年だったかな。
「わたくしがお人形だったのです」
という台詞をアントワネットに言わせたいためだけなんだろうけど、それならばなおさら、人形は女でなければならない。
何故男なんだ?
……たぶん植爺は、なにも考えていないんだろう。
自分が欲しい、かわいがりたい人形は異性の人形だからと、なにも考えずにアントワネットにも異性の人形を与えたか。
それとも、「女はみんな男好き」という意識で、アントワネットがかわいがるのは男の人形であるべきと思ったのか。
ほんとーに、「女」を蔑視してるんだろーな。ほんのちょっとでも「女」という生き物に興味を持って眺めてみればわかるようなことでさえ、無知をあからさまにしている。
とまあ、その存在すら謎なんだけどな、ステファン人形。
このわけのわからない人形の説明が、やたらと多すぎる。
前述の「おおまかな物語の流れ」で(S−*)という印をつけた。
14歳のアントワネットがまず話し(Sー1)、次に現在のアントワネットがメルシー伯爵と話し(S−2)、これだけで観客はもうおなかいっぱい状態なのに、さらにまた、メルシー伯爵とフェルゼンで同じことを繰り返す(S−3)。たった1時間強のうちに、同じ話が3回。
次に2幕になって、落ちぶれたアントワネットが子どもたちに人形の解説(S−4)、そして最後の牢獄でメルシー伯爵からステファン返却(S−5)。こちらもフィナーレをのぞいたたかだか1時間弱の間に、2回。
くどいっ!!
どう考えても、(S−3)はいらんやろ。最初の2回だけなら許容範囲だが、この3回目で致命的になる。
てゆーか、メルシー伯爵のお説教シーン自体、いらないんだけどな。
もちろん、小道具としての「人形」は悪くない。
14歳のアントワネットの幼さを表現し、死を間際にした38歳のアントワネットの「わたくしがお人形だったのです」と言わせるために使うアイディアはいい。
だが、こうまで何度も何度も解説されると、作者のバカさの方が強調されるよー。自分でぶちこわしにしてるんだよなー。
そんなところも、ハズすことなく植爺クオリティ。
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