彼女は、すばらしい女性だった。
 美しくやさしく奥ゆかしく、清楚でたおやか。非の打ち所のない女性だ。働き者で、どんなときも愚痴ひとつこぼさず、笑顔で家庭を支えている。
 一回りも年のちがう夫に尽くし、彼のやすらぎとなっている。
 似合いの夫婦だと、誰もが言った。夫が彼女に惚れきっているのは誰の目にもわかったし、彼女も幸福な微笑をたたえ、夫に寄り添っていた。
 彼女は完璧な女性であり、理想の妻であった。
 不穏な情勢の中、時代の最先端で働く夫にとって、家で彼を待っている彼女の存在だけが救いだった。帰宅した最初の瞬間に、彼を出迎えてくれる、彼女の笑顔。そう、結婚して何年経とうと、彼女は夫の顔を見るとうれしそうに微笑むのだ。夫の存在が、なによりの幸福だというように。
 そして彼女のその笑顔こそが、夫をなによりも幸福にしていた。

 だが、夫は知らない。
 彼女が彼と結婚した理由を。

 彼女には、ずっと想っている人がいた。
 独身時代の彼女は、ある貴族のお屋敷で小間使いをしていた。そのお屋敷の若様に恋をしていたのだ。はじめての恋だった。
 決して実ることはないからと心に秘め、側近くに仕えることだけをよろこびとしていた彼女に、当の若様が縁談の世話をしたのだ。
「妹のように思っているお前には、ぜひしあわせになって欲しい」
 残酷なやさしさ。
 密かに愛するその当人から、他の男へ嫁げと言われるなんて。それも、純然たる厚意ゆえに。
 彼女はひとり泣き、告げられぬ想いを胸の奥深くに沈め、その縁談を受けた。……愛する人が、わたしのために選んでくれた相手に嫁ごう。そう、決意して。

 夫は知らない。
 彼女が彼と結婚した理由を。
 彼女が誰を愛しているのかを。

 それでも彼女は完璧な女性であり、理想の妻であった。彼女を愛し、守ってくれる夫のために心から尽くし、笑顔で生きていた。

 だが。
 ある夜彼女は、夫に黙って家を出た。
 夫は一度眠るとなにが起こっても朝まで起きない。健康な男なのだ。心も、身体も。
 それゆえに彼女は、安心して同衾する粗末な寝台から降り、時間を掛けて身支度をした。いつも着ている質素な服ではなく、嫁入り前に初恋の人から贈られたドレスを着、髪を整え、ささやかではあったが心尽くしに着飾った。
 眠る夫を残し、家を出た。
 目指すのは、初恋の若様の屋敷。

 若様は軍人だった。
 このたび若様が、危険な場所に赴任することがわかったのだ。あの方が、戦死するかもしれない……その恐怖は、彼女を動かすのに十分だった。
 昔勤めていた屋敷だ、入ることはたやすい。彼女は誰にも見とがめられずに、若様の寝室に忍び入った。
 深夜だというのに若様は起きていた。進駐を明日に控え、眠れないでいたのだろうか。

 行かないでください。そんな危険なところに。
 そう懇願するだけのつもりだったのに。
 変わらない若様の笑顔を見ていると、彼女は心の蓋が開くのを止められなかった。
「好きです。愛しています」

 叶うことなどないとわかっていても。妹だと思われていても。

「バカだね。そんなことで思い悩んでいたの?」
 若様はにっこり笑って、彼女を抱き寄せた。

 
 まだ夜が明けないうちに、彼女は帰宅した。若様の屋敷の馬車で送られて。
 案の定、夫は眠ったままだ。
 彼女は静かにドレスを脱ぎ、髪を解いた。自分に触れた若様のぬくもりを反芻しながら。
 今日は夫には触れたくない。寝台には戻らず、そのまま普段の質素な服に着替えた。
 そして、音をたてないように家事をはじめる。
 働き者の彼女が、夜明け前から働き出すことなど、決してめずらしいことではないのだから。

 夫は知らない。
 その朝彼女が何故、いつもにも増して美しかったのか。

 
「若様が、戦地に赴任されるそうだ。我々夫婦は若様に恩がある。そんな危険なところへ行ってはならないと説得するべきだ」
 翌日、遅れて情報を得た夫が言う。
 彼女は静かに応えた。
「若様には、若様のお考えがあるのよ」
 信念のある方なのだから、説得など無意味だということを。たとえそれで若様が命果てたとしても、当人が選んだ生き方である限り、それ以上の最期はないのだと。
 おだやかに、しかし凛とした強さを持って語る彼女に、夫は言葉を詰まらせた。
 彼女は、聖母のように清らかな微笑みを浮かべていた。

 夫はそんな彼女にさらに心酔した。これほどの女性が他にいるだろうか。
 彼女は、すばらしい女性だった。
 美しくやさしく奥ゆかしく、清楚でたおやか。そして、誰にも真似できない強さと、誰にも到達できない深さを持っている。

 そう。
 夫は知らない。
 彼女の、聖母の微笑みの理由を。

 夫は知らないのだ。

 

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