昔の彼に会いたい、と思う。@アルジャーノンに花束を
2006年3月7日 タカラヅカ オギーはもう、痛いものを作らなくなってしまったのだろうか。
荻田浩一演出で『アルジャーノンに花束を』を上演する。
そう知ったときに、心がふるえた。
「痛い」ものを作るクリエイターが、「痛い」小説を原作に新作ミュージカルを作る。
どれほど「痛い」作品を見せてくれることだろう。覚悟をして初日に東京・博品館劇場まで駆けつけた。
−−−−。
正直なところ、拍子抜けした。
わたしが想像していたものとは、まったくちがったからだ。
有名すぎる原作小説。
知恵遅れの青年チャーリー・ゴードンが脳外科手術によって知能が上昇、常人を超え天才となり、またもとの白痴に戻っていく話。
知能が幼児程度だったころは、美しくやさしいだけだった世界・人間たちが、知能が上がるに従ってそうでないことがわかってくる。世界は醜く、人間もまた醜い。
チャーリーは人の弱さや醜さを知り、自身も人間としての成長をする。やがて、失われていくとしても。
おどろいたのは、あまりに原作に忠実に作られていることだ。原作のエピソードのひとつひとつを、もどかしいほど丁寧に舞台化している。
チャーリーの天使っぷりが際立っている以外に、大きな変化は見あたらない。
わたしが期待していたのは、『アルジャーノン』を下敷きにした、「荻田浩一のオリジナル作品」だった。原作まんまを舞台化したものではなかった。
オギーなら、この物語を「どう」料理するのか。
もっと鋭く、もっと救いなく、深いところまで掘り下げるのではないか。
たとえばチャーリーを「ペルソナ」としてアリスの内面を掘り下げるとか。
天使ではない、「人間」でしかないアリスの醜さと対面する話。
教える側であったはずのアリスは、いつの間にかチャーリーよりも低能な生き物となりはてている。彼女の無意識下にあった侮蔑や優越感、人間であるがゆえの醜いモノを、徹底的にえぐるとか。
なのにチャーリーからすればアリスは「聖母」である矛盾。
そーゆーものを突いてくる作品になるだろうと、勝手に思っていたのだわ。
原作の中にエッセンスはあるけれど、チャーリーの一人称であるがゆえに描くことのできなかった部分を、オギーならば、と。
や、アリスに限らず、切り口はいくらでもある。
チャーリーの変化と共に、世界はベールを1枚ずつはがされてゆき、誰もが人である「業」をさらけ出していくのだから。
ミュージカル『アルジャーノンに花束を』は、とても高品質な舞台だ。
演出も音楽も出演者も、みなすばらしい。
象徴的なセット。
物語につかず離れず存在する、白ネズミとも少年とも見えるアルジャーノン@森新吾の美しさと、しんとしたかなしさ。
「声」だけではじまり、チャーリー@浦井健治が登場した瞬間に明らかになる舞台。
ネズミ用の巨大な「回し車」の前に立つ、無邪気な笑顔のチャーリー。
その効果的な画面。
うまい。
いちいち、ひとつひとつが、うなりたいほどうまく、美しい。
だけど。
初日に続き、楽の前日の公演も一緒に観劇したkineさんと、話したんだ。
「どこまでが『規定』なのか、オギーに聞いてみたいね」と。
プロであり、商業作品である以上、守らなければならない枠がある。縛りがある。
作品を創る上で、「ここはこうしなければならない」「あれはあそこまでで止めなければならない」「それを付け加えなければならない」など、枠があるハズなんだ。
原作付きなら、ストーリーは大筋はもとより枝葉のひとつまで一切変えてはならない、とか、この台詞はそのまま使わなければならない、とか。
このタレントを、イメージを壊さない扱いで使わなければならない、とか。
クリエイターが好き放題に創れるわけじゃない。
原作まんまで、細かい解説やおせっかいなまでの説明台詞を入れ、誰が見てもわかるように、やさしく創られた今回の『アルジャーノンに花束を』。
親切で、至れり尽くせり。
初心者にも安心な作品。
オギーって、こんな舞台を創る人だっけ……?
そこに、拍子抜けしたんだ。
いや、繰り返すけど、すばらしい舞台だよ。
美しいし、うまいよ。
うまい人が、その能力を発揮して自在に作り上げた作品だと思うよ。
でも。
なんか、チガウ。
だからこそ、聞いてみたいんだ。
オギー、これって、どこまで規定? どこまで仕事? ナマのオギーの部分で作られたのはどこまで?
オギーはきっと、正しく進化しているのだと思う。
自分の中の欠損や癒えることのない痛みを、生きるために吐き出しているかのような作品ばかり創っていたんじゃ、「プロ」としてはやっていけない。
エンタメを作り続けるのならば、大衆に迎合したものを作らなければならない。
この、「きれいなもの」だけで作られた『アルジャーノン』を見て、思う。
「プロ」の作品だと。
正しく能力を発揮させた、プロの仕事だと。
観た人が反射的に自殺したくなるような危険なモノ、波長の合う人が観たら人生おかしくなりそうなほどの破壊力や毒を持ったものじゃない。
これを創ったクリエイターは正気なのだろうか、どのあたりの場所に踏みとどまって、コレを創ったのだろうか、とその精神性を考え込んでしまうようなモノじゃない。
ふつーの人が「気持ちよく」観られる程度の「わかりやすく、やさしい」軽い毒をエッセンスにした、「泣いて、感動できる」美しい作品。
オギーは、正しく進化しているのだと思う。
それでいいと思う。
ただ。
これからも、オギー本来の作品も、創り続けて欲しい。
そう思うんだ。
そう、切望するんだ。
…………すべて、わたしの勝手な思いこみに過ぎないのかも、しれないけれど。
荻田浩一演出で『アルジャーノンに花束を』を上演する。
そう知ったときに、心がふるえた。
「痛い」ものを作るクリエイターが、「痛い」小説を原作に新作ミュージカルを作る。
どれほど「痛い」作品を見せてくれることだろう。覚悟をして初日に東京・博品館劇場まで駆けつけた。
−−−−。
正直なところ、拍子抜けした。
わたしが想像していたものとは、まったくちがったからだ。
有名すぎる原作小説。
知恵遅れの青年チャーリー・ゴードンが脳外科手術によって知能が上昇、常人を超え天才となり、またもとの白痴に戻っていく話。
知能が幼児程度だったころは、美しくやさしいだけだった世界・人間たちが、知能が上がるに従ってそうでないことがわかってくる。世界は醜く、人間もまた醜い。
チャーリーは人の弱さや醜さを知り、自身も人間としての成長をする。やがて、失われていくとしても。
おどろいたのは、あまりに原作に忠実に作られていることだ。原作のエピソードのひとつひとつを、もどかしいほど丁寧に舞台化している。
チャーリーの天使っぷりが際立っている以外に、大きな変化は見あたらない。
わたしが期待していたのは、『アルジャーノン』を下敷きにした、「荻田浩一のオリジナル作品」だった。原作まんまを舞台化したものではなかった。
オギーなら、この物語を「どう」料理するのか。
もっと鋭く、もっと救いなく、深いところまで掘り下げるのではないか。
たとえばチャーリーを「ペルソナ」としてアリスの内面を掘り下げるとか。
天使ではない、「人間」でしかないアリスの醜さと対面する話。
教える側であったはずのアリスは、いつの間にかチャーリーよりも低能な生き物となりはてている。彼女の無意識下にあった侮蔑や優越感、人間であるがゆえの醜いモノを、徹底的にえぐるとか。
なのにチャーリーからすればアリスは「聖母」である矛盾。
そーゆーものを突いてくる作品になるだろうと、勝手に思っていたのだわ。
原作の中にエッセンスはあるけれど、チャーリーの一人称であるがゆえに描くことのできなかった部分を、オギーならば、と。
や、アリスに限らず、切り口はいくらでもある。
チャーリーの変化と共に、世界はベールを1枚ずつはがされてゆき、誰もが人である「業」をさらけ出していくのだから。
ミュージカル『アルジャーノンに花束を』は、とても高品質な舞台だ。
演出も音楽も出演者も、みなすばらしい。
象徴的なセット。
物語につかず離れず存在する、白ネズミとも少年とも見えるアルジャーノン@森新吾の美しさと、しんとしたかなしさ。
「声」だけではじまり、チャーリー@浦井健治が登場した瞬間に明らかになる舞台。
ネズミ用の巨大な「回し車」の前に立つ、無邪気な笑顔のチャーリー。
その効果的な画面。
うまい。
いちいち、ひとつひとつが、うなりたいほどうまく、美しい。
だけど。
初日に続き、楽の前日の公演も一緒に観劇したkineさんと、話したんだ。
「どこまでが『規定』なのか、オギーに聞いてみたいね」と。
プロであり、商業作品である以上、守らなければならない枠がある。縛りがある。
作品を創る上で、「ここはこうしなければならない」「あれはあそこまでで止めなければならない」「それを付け加えなければならない」など、枠があるハズなんだ。
原作付きなら、ストーリーは大筋はもとより枝葉のひとつまで一切変えてはならない、とか、この台詞はそのまま使わなければならない、とか。
このタレントを、イメージを壊さない扱いで使わなければならない、とか。
クリエイターが好き放題に創れるわけじゃない。
原作まんまで、細かい解説やおせっかいなまでの説明台詞を入れ、誰が見てもわかるように、やさしく創られた今回の『アルジャーノンに花束を』。
親切で、至れり尽くせり。
初心者にも安心な作品。
オギーって、こんな舞台を創る人だっけ……?
そこに、拍子抜けしたんだ。
いや、繰り返すけど、すばらしい舞台だよ。
美しいし、うまいよ。
うまい人が、その能力を発揮して自在に作り上げた作品だと思うよ。
でも。
なんか、チガウ。
だからこそ、聞いてみたいんだ。
オギー、これって、どこまで規定? どこまで仕事? ナマのオギーの部分で作られたのはどこまで?
オギーはきっと、正しく進化しているのだと思う。
自分の中の欠損や癒えることのない痛みを、生きるために吐き出しているかのような作品ばかり創っていたんじゃ、「プロ」としてはやっていけない。
エンタメを作り続けるのならば、大衆に迎合したものを作らなければならない。
この、「きれいなもの」だけで作られた『アルジャーノン』を見て、思う。
「プロ」の作品だと。
正しく能力を発揮させた、プロの仕事だと。
観た人が反射的に自殺したくなるような危険なモノ、波長の合う人が観たら人生おかしくなりそうなほどの破壊力や毒を持ったものじゃない。
これを創ったクリエイターは正気なのだろうか、どのあたりの場所に踏みとどまって、コレを創ったのだろうか、とその精神性を考え込んでしまうようなモノじゃない。
ふつーの人が「気持ちよく」観られる程度の「わかりやすく、やさしい」軽い毒をエッセンスにした、「泣いて、感動できる」美しい作品。
オギーは、正しく進化しているのだと思う。
それでいいと思う。
ただ。
これからも、オギー本来の作品も、創り続けて欲しい。
そう思うんだ。
そう、切望するんだ。
…………すべて、わたしの勝手な思いこみに過ぎないのかも、しれないけれど。
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