大人になる。@THE LAST PARTY
2006年4月9日 タカラヅカ ゆーひさんの話。
もう今さら過ぎて気後れするが。
じつは、『THE LAST PARTY』を観に行った。わざわざ東京まで。
他のなにも観ない、ただゆーひくんのためだけに行った。
そこで。
いろいろと、ショックを受けて帰ってきた。
大空祐飛ってのは、いったいなんなんですかね?
素朴な疑問。
風花ちゃんのサヨナラバウで美貌に一目惚れして以来、ずっと見てきたけれど。
人間って、これほど変わるのか?
ここんところのわずかな間に、ゆーひくんはどんどん変わっていってます。
舞台の片隅で、ふてくされたカオで投げやりに踊っていたあの男の子は、どこまでいってしまうの?
わたしにとってはほんのついこの間、ゆうひくんはケロの弟だった。
ケロとふたり、「別格スター」という昨今絶滅しているよーな微妙ポジにいた。
トップ路線ではないけれど、「スター」として扱われているらしい、適度に露出のある位置。
主役よりも脇を好きな人間がいちばんハマりやすい位置と扱い。
ちょい悪の男の子。ひとりだけよそ見している不良少年のような芸風。笑顔は貴重だし、気まぐれで日々の舞台に差がありまくる。
そんな、「真ん中」ではないからこそ活きる魅力を持った男の子。
みんなアンソニーよりテリーが好きだもんなー。王子様より不良少年の方が人気あったりするもんなー。
それが、前回の月組公演『JAZZYな妖精たち』を観て、別の人になっていることにおどろいた。
きらきらしてる。
きらきらしている人のナナメ横で、その光を浴びて暗い光を放つ人だったのに。
本人が、発光している。
「真ん中」の光を持つ人になっている。
ケロと一緒にバウ主演したときから、そりゃわかっていたよ。ケロはこれが最初で最後だろうけどゆうひくんはチガウだろうって。
ケロとは似て非なる道を歩く子だろうとは思っていたけれど。
ケロの隣にいたときの、おおぞらゆーひぢゃない。
ここにはいるのは、別の人。
脱皮して、別の形態になっている。
その段階で、充分わたしは惑乱していたってばさ。
人ってわずかな間でこんなに変わるものなのかと。
だから『ベルサイユのばら』のオスカル特出で安心した。
男装の麗人でもなく、そもそも「女」ですらなく、いつもの(しかも、地味なときの)おおぞらゆーひでしかなかった、どんくさくもかわいらしい姿を見て。
あ、なんだ、あーゆーとこは変わってないや。人見知りさんめ。
オスカルのダメダメっぷりで、ほっとしたくらいなのに。
この『THE LAST PARTY』。
また、変わっている。
『JAZZYな妖精たち』のときから、また。
そうだ、謝らないとな。
『ベルばら』のオスカル特出のときにわたし、ゆーひくんが大根役者だと書いた。
ええ、わたしの大空さんの認識はそんなもんですよ。なにをやってもおーぞらゆーひ、持ち味でできる役はハマるけど、それ以外はダメダメ。
『THE LAST PARTY』初演のときなんか、タニちゃんもひっくるめてスコット役は、演技力のある人で見たかったと書いたさ。
ごめん。
今ソレ、撤回する。
ゆうひくん、うまくなってる。
そうか、ゆーひくん、男だもんな。男がオスカル役やってうまくできないからって、男として大根役者だとは言えないよな。
器用な男なら、女役も役の一貫としてナチュラルにこなせるのかもしれないけれど、ゆーひくんはそういうタイプじゃないだけのことだね。
ゆーひの演技はこのレベル、と勝手に決めつけていたので、『THE LAST PARTY』再演を観て、アゴが落ちた。
演技、うまい。
えええっ、演技できる人だったの?!!
どこまで変わるの、おーぞらゆーひ。
ついこの間まで、鈍い光を脇で放つ人だった。それが、ぴかぴかの真ん中の光を放つようになり、そのうえ、演技力まで会得したの?!
スロースターターにも程がある。
同期がトップスターになっているこんな学年で、なにエンジンかかってんだ。そーゆー脱皮はふつー新公学年で済ませておくものだ。
10年以上かけて出来上がった姿を愛でていた者としては、これは最終形態、だと思うじゃないか。
ケロが変わらなかったように、ゆうひくんも変わらないと思うじゃないか。
どこまで行くんだろう。
どこまで変わり続けるんだろう。
こんなに不思議な人は知らない。
たった1年半前、「きれーだけど、こなすだけで精一杯、演技がどうこう言えるレベルじゃないな」と思えた『THE LAST PARTY』のスコット役。
そうさ、たった1年半前だ。
ケロの最後のディナーショーのころ。
初の単独主演、しかもひとり芝居ウエイトで精神的にも肉体的にもぎりぎりだったろうに、ゆーひくんは2日ともディナーショー会場に現れた。片方の日なんか、ショーのあとケロの控え室に入ったまま、ひとり長い間出てこなかったとかいう。
あのころ。あのとき。わたしも、へろへろになって宝ホとバウに通っていた。
たった1年半。
ケロがいなくなって、1年ちょい。
こんなわずかな間で。
ゆうひくんは、変わり続ける。
『THE LAST PARTY』は、主役をかっこよく見せるいい作品だ。誰にとっての「あて書き」だとか「ハマリ役」だとかいうのではなく、スコット役を演じた人のファンすべてが、「スコットはわたしのご贔屓のためのあて書き、ハマリ役」と思いこめる作りになっている。
だからゆうひ・タニ以外のファンの人は、「スコット役が、わたしのご贔屓の**ちゃんならいいのに」と思うだろう役だ。
わたしも1年半前は、スコット役はケロで観たいと思ったさ。スーツも黒タキもケロの得意分野、よいお父さんだってエロエロだって得意、なによりも、苦悩して挫折してヘタレて泣くのなんか、得意中の得意だぞっと。
誰をもかっこよく見せてくれる役だけど、たのむよ、演技うまい人がやってくれよ……ゆーひもタニも、演技はアレな人ぢゃん……。
そう思っていたのに。
ゆうひくん、うまい。
スコット役を、モノにしている。
「スコット役をやっている大空祐飛」ではなく、「スコット」になっていた。
そこにいるのは、「大人」だった。
人間の、大人の男。
傷が見える、痛みが見える。
夢の世界の住人、タカラジェンヌが「ジェンヌだからいいじゃない」とフェアリー性だけで演じるきらきらしいものではなくて。
ふつーに、芝居であり、ミュージカルだった。
せっかくのいい作品なんだから、演技力のある人で観たい。
1年半前そう思った、願いが、叶えられている。
そのことにおどろき、ある意味ぼーぜんとして。
そして。
そしてこれは。
たぶん、他の誰も思っていないのだろうと思うけれど。
わたしの思いこみ、思い上がりの域の話なんだろうけれど。
ケロが、いた。
ゆーひくんのなかに。
ケロの弟だったころから、ゆーひくんはゆーひくんで、ケロとは似合うけれど別の人だった。似合うと似ているはチガウ。むしろ別の個性だからこそ、コントラストがきれいだった。
ケロが得意とするモノをゆーひくんは持たないし、ゆーひくんがあったりまえに持つモノをケロが持たなかったり。ま、ふたりとも歌は下手だったけど(笑)、それぞれがそれぞれの魅力を持ったコンビだった。
だから、ゆうひくんを見て「ケロに似てる」と思ったことなんて、一度もない。
ゆうひくんを見て、対の位置や隣にケロがいたことを思い出すのは常だけど、ゆうひくん自身に面影を見ることなんかなかった。
なのに。
はじめて、気づいた。
あ、ケロだ。
ケロがいる。
こんなとこに、ケロがいる。
背広の肩の線とか。
背中とか。
そんな、なにげない、他愛ないもののなかに、確実にケロが見えた。
や、もちろんそれは「大空祐飛」なんだけど。
そっかあ、ケロ、いたんだ。
ケロがゆーひくんとふたり、子犬みたいに兄弟みたいにじゃれあってたあの時間は、消えてしまったわけじゃないんだ。
ゆうひくんが自分の中にふつーに取り込み、「大空祐飛」として昇華させているんだ。
無駄じゃない。
消えてない。
なにひとつ、無駄なものなんてない。
ゆうひくんを形作る歴史のひとつに、汐美真帆もあった。
そのことに、はじめて気づいた。
はじめて。
そして。
ただもう、そのことだけにも、泣けて泣けて。
『THE LAST PARTY』がもともと泣ける話であることや、人間ゆえの痛みを表現してくれるゆーひスコットにも泣けて、もう大変さ。
幕が下りたあとも、しばらく立てずに客席に坐り込んでいた。隣のドリーさんとふたりして(笑)。や、ドリーさんはケロ云々はないとしても(だってソレって、わたしの勝手な思いこみだもんよ)、ゆーひくんのすごさに完敗して。
すげえよ、大空さん。
どこまで行ってしまうの。
どこまで行くにしろ、たどりつくところがどこであるにしろ。
ずっと、見ていたい。
ゆーひくん。
わたしの、特別な人。
もう今さら過ぎて気後れするが。
じつは、『THE LAST PARTY』を観に行った。わざわざ東京まで。
他のなにも観ない、ただゆーひくんのためだけに行った。
そこで。
いろいろと、ショックを受けて帰ってきた。
大空祐飛ってのは、いったいなんなんですかね?
素朴な疑問。
風花ちゃんのサヨナラバウで美貌に一目惚れして以来、ずっと見てきたけれど。
人間って、これほど変わるのか?
ここんところのわずかな間に、ゆーひくんはどんどん変わっていってます。
舞台の片隅で、ふてくされたカオで投げやりに踊っていたあの男の子は、どこまでいってしまうの?
わたしにとってはほんのついこの間、ゆうひくんはケロの弟だった。
ケロとふたり、「別格スター」という昨今絶滅しているよーな微妙ポジにいた。
トップ路線ではないけれど、「スター」として扱われているらしい、適度に露出のある位置。
主役よりも脇を好きな人間がいちばんハマりやすい位置と扱い。
ちょい悪の男の子。ひとりだけよそ見している不良少年のような芸風。笑顔は貴重だし、気まぐれで日々の舞台に差がありまくる。
そんな、「真ん中」ではないからこそ活きる魅力を持った男の子。
みんなアンソニーよりテリーが好きだもんなー。王子様より不良少年の方が人気あったりするもんなー。
それが、前回の月組公演『JAZZYな妖精たち』を観て、別の人になっていることにおどろいた。
きらきらしてる。
きらきらしている人のナナメ横で、その光を浴びて暗い光を放つ人だったのに。
本人が、発光している。
「真ん中」の光を持つ人になっている。
ケロと一緒にバウ主演したときから、そりゃわかっていたよ。ケロはこれが最初で最後だろうけどゆうひくんはチガウだろうって。
ケロとは似て非なる道を歩く子だろうとは思っていたけれど。
ケロの隣にいたときの、おおぞらゆーひぢゃない。
ここにはいるのは、別の人。
脱皮して、別の形態になっている。
その段階で、充分わたしは惑乱していたってばさ。
人ってわずかな間でこんなに変わるものなのかと。
だから『ベルサイユのばら』のオスカル特出で安心した。
男装の麗人でもなく、そもそも「女」ですらなく、いつもの(しかも、地味なときの)おおぞらゆーひでしかなかった、どんくさくもかわいらしい姿を見て。
あ、なんだ、あーゆーとこは変わってないや。人見知りさんめ。
オスカルのダメダメっぷりで、ほっとしたくらいなのに。
この『THE LAST PARTY』。
また、変わっている。
『JAZZYな妖精たち』のときから、また。
そうだ、謝らないとな。
『ベルばら』のオスカル特出のときにわたし、ゆーひくんが大根役者だと書いた。
ええ、わたしの大空さんの認識はそんなもんですよ。なにをやってもおーぞらゆーひ、持ち味でできる役はハマるけど、それ以外はダメダメ。
『THE LAST PARTY』初演のときなんか、タニちゃんもひっくるめてスコット役は、演技力のある人で見たかったと書いたさ。
ごめん。
今ソレ、撤回する。
ゆうひくん、うまくなってる。
そうか、ゆーひくん、男だもんな。男がオスカル役やってうまくできないからって、男として大根役者だとは言えないよな。
器用な男なら、女役も役の一貫としてナチュラルにこなせるのかもしれないけれど、ゆーひくんはそういうタイプじゃないだけのことだね。
ゆーひの演技はこのレベル、と勝手に決めつけていたので、『THE LAST PARTY』再演を観て、アゴが落ちた。
演技、うまい。
えええっ、演技できる人だったの?!!
どこまで変わるの、おーぞらゆーひ。
ついこの間まで、鈍い光を脇で放つ人だった。それが、ぴかぴかの真ん中の光を放つようになり、そのうえ、演技力まで会得したの?!
スロースターターにも程がある。
同期がトップスターになっているこんな学年で、なにエンジンかかってんだ。そーゆー脱皮はふつー新公学年で済ませておくものだ。
10年以上かけて出来上がった姿を愛でていた者としては、これは最終形態、だと思うじゃないか。
ケロが変わらなかったように、ゆうひくんも変わらないと思うじゃないか。
どこまで行くんだろう。
どこまで変わり続けるんだろう。
こんなに不思議な人は知らない。
たった1年半前、「きれーだけど、こなすだけで精一杯、演技がどうこう言えるレベルじゃないな」と思えた『THE LAST PARTY』のスコット役。
そうさ、たった1年半前だ。
ケロの最後のディナーショーのころ。
初の単独主演、しかもひとり芝居ウエイトで精神的にも肉体的にもぎりぎりだったろうに、ゆーひくんは2日ともディナーショー会場に現れた。片方の日なんか、ショーのあとケロの控え室に入ったまま、ひとり長い間出てこなかったとかいう。
あのころ。あのとき。わたしも、へろへろになって宝ホとバウに通っていた。
たった1年半。
ケロがいなくなって、1年ちょい。
こんなわずかな間で。
ゆうひくんは、変わり続ける。
『THE LAST PARTY』は、主役をかっこよく見せるいい作品だ。誰にとっての「あて書き」だとか「ハマリ役」だとかいうのではなく、スコット役を演じた人のファンすべてが、「スコットはわたしのご贔屓のためのあて書き、ハマリ役」と思いこめる作りになっている。
だからゆうひ・タニ以外のファンの人は、「スコット役が、わたしのご贔屓の**ちゃんならいいのに」と思うだろう役だ。
わたしも1年半前は、スコット役はケロで観たいと思ったさ。スーツも黒タキもケロの得意分野、よいお父さんだってエロエロだって得意、なによりも、苦悩して挫折してヘタレて泣くのなんか、得意中の得意だぞっと。
誰をもかっこよく見せてくれる役だけど、たのむよ、演技うまい人がやってくれよ……ゆーひもタニも、演技はアレな人ぢゃん……。
そう思っていたのに。
ゆうひくん、うまい。
スコット役を、モノにしている。
「スコット役をやっている大空祐飛」ではなく、「スコット」になっていた。
そこにいるのは、「大人」だった。
人間の、大人の男。
傷が見える、痛みが見える。
夢の世界の住人、タカラジェンヌが「ジェンヌだからいいじゃない」とフェアリー性だけで演じるきらきらしいものではなくて。
ふつーに、芝居であり、ミュージカルだった。
せっかくのいい作品なんだから、演技力のある人で観たい。
1年半前そう思った、願いが、叶えられている。
そのことにおどろき、ある意味ぼーぜんとして。
そして。
そしてこれは。
たぶん、他の誰も思っていないのだろうと思うけれど。
わたしの思いこみ、思い上がりの域の話なんだろうけれど。
ケロが、いた。
ゆーひくんのなかに。
ケロの弟だったころから、ゆーひくんはゆーひくんで、ケロとは似合うけれど別の人だった。似合うと似ているはチガウ。むしろ別の個性だからこそ、コントラストがきれいだった。
ケロが得意とするモノをゆーひくんは持たないし、ゆーひくんがあったりまえに持つモノをケロが持たなかったり。ま、ふたりとも歌は下手だったけど(笑)、それぞれがそれぞれの魅力を持ったコンビだった。
だから、ゆうひくんを見て「ケロに似てる」と思ったことなんて、一度もない。
ゆうひくんを見て、対の位置や隣にケロがいたことを思い出すのは常だけど、ゆうひくん自身に面影を見ることなんかなかった。
なのに。
はじめて、気づいた。
あ、ケロだ。
ケロがいる。
こんなとこに、ケロがいる。
背広の肩の線とか。
背中とか。
そんな、なにげない、他愛ないもののなかに、確実にケロが見えた。
や、もちろんそれは「大空祐飛」なんだけど。
そっかあ、ケロ、いたんだ。
ケロがゆーひくんとふたり、子犬みたいに兄弟みたいにじゃれあってたあの時間は、消えてしまったわけじゃないんだ。
ゆうひくんが自分の中にふつーに取り込み、「大空祐飛」として昇華させているんだ。
無駄じゃない。
消えてない。
なにひとつ、無駄なものなんてない。
ゆうひくんを形作る歴史のひとつに、汐美真帆もあった。
そのことに、はじめて気づいた。
はじめて。
そして。
ただもう、そのことだけにも、泣けて泣けて。
『THE LAST PARTY』がもともと泣ける話であることや、人間ゆえの痛みを表現してくれるゆーひスコットにも泣けて、もう大変さ。
幕が下りたあとも、しばらく立てずに客席に坐り込んでいた。隣のドリーさんとふたりして(笑)。や、ドリーさんはケロ云々はないとしても(だってソレって、わたしの勝手な思いこみだもんよ)、ゆーひくんのすごさに完敗して。
すげえよ、大空さん。
どこまで行ってしまうの。
どこまで行くにしろ、たどりつくところがどこであるにしろ。
ずっと、見ていたい。
ゆーひくん。
わたしの、特別な人。
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