笛吹男、あるいは蜘蛛の影が見ている世界。@タランテラ!
2006年10月24日 タカラヅカ 『タランテラ!』のキムは、彼個人でひとつの物語になっていると思う。
『タランテラ!』はどこをとってもドラマが展開されているおそろしー作品なので、「誰を中心にして視るか」でまったく別の物語に見えると思う。また、同じ人を見ていたって、観客ひとりひとりの感じ方で、これまた別のものに見えるだろうし。
だからこそおもしろい作品だと思う。
「今」のわたしはこう感じているけれど、10年後20年後のわたしはチガウことを感じるかもしれない。10年前20年前のわたしなら、またチガウだろう。
……10年後や20年後に、もう今の『タランテラ!』を観ることは不可能なのだけど(ビデオなんぞ、ただの記録映像であって、「観る」ことがてぎるものには数えない)。
わたしが最初に「中心」として惹かれたのが、蜘蛛の影@キムだ。
プログラムで役名を確認したのがあとだったので、はじめはなにも知らず彼を「タランテラのミラー」と呼んでいた。
ミラー……鏡な。タランテラを映すもの。
『アルバトロス、南へ』でも、キムはそーゆー役割を担っていたから、注目しやすかったんだ。
キムはずーーっと舞台の上にいる。
純粋な登場時間だけでいえば、主役を超えてるんぢゃないか? ってくらい。
2回目の観劇では、他のすべてをあきらめ、キムだけをガン見してみた。
物語がどう動き、誰がどうしていようと、キムはいつも舞台のどこかにいるのだ。
彼はタランテラと、それをとりまく者たちを見ている。あるときは近づき、絡み、あるときは離れ、視線すら向けず。
タランテラ物語の中でキムが出ないところって、クライマックスの「大西洋」だけぢゃないの?
承前では笛吹男として華と毒を振りまいているし、プロローグでは緑色の若い蜘蛛になって、きらきら踊ってるよね。
スペインでは赤いジャケットで壮くんを襲ってるし(チガウ)、ラ・プラタ河ではジプシー姿で黄昏れているし、ブエノスアイレスとアムステルダムではスーツの男たちの間にひとりだけジプシー姿で混ざって野郎ダンスしてたよね?
大騒ぎのアマゾンではやっぱきらきら爆発していて、物語のラストシーン、のほほん壮一帆のひとり銀橋に笛吹男として登場、伏線拾ってエンドマーク、だよね。
パイド・パイパーと蜘蛛の影は別人、でいいと思う。
別の役だけど、同じ人が演じていることに毒がある、つーことで。
キムの持ち味は「少年」だと思う。
若さだとか、拙さ。収まりきる前のモノ。力強くどん欲だけど、どこか不安定。
彼がハタチ過ぎの青年であっても、魂は「少年」であると思う。その「未完成」さが魅力だと思う。……キム自身が実力的に安定した若手スターだということとは、別の話ね。
キムだけを見つめていて見えてくるのは、「少年」の物語。
傲慢さ、残酷さ、冷酷さ。
若さが持つ驕り。
狭量さ。
魂のきらめきと目を離せない魅力。
未完成であること、洋々たる未来があること自体の力。
無意味な繊細さ。
過剰な自意識ゆえの攻撃性。
無知ゆえの、純粋さ。
それは、「少年」という物語。
他者に対しはてしなく残酷になれる年代。自分に対しはてしなくナーヴァスになれる年代。
鏡の中の痛さと美しさが、蜘蛛の巣のようにひび割れて乱反射している。
それに対する、「大人の男」タランテラ@コム。
ふたりが同じものだとするならば、それはとてもせつない物語。
大人ゆえにすべてを受け入れ彷徨するタランテラと、彼につかず離れず見つめる、少年のままのタランテラの影。
少年は大人の自分を、ときに嘲笑し、ときに苛立ち、ときに冷たく突き放す。
そして、心で慟哭する。
泣かない大人の自分の代わりに。
タランテラの静かさと、影の感情の激しさのギャップが痛い。
「少年」である影は、純粋さも邪悪さも、タランテラよりはるかに強いのだから。
「少年」タランテラから見た世界。
それは、「大人の男」タランテラを主役として見る世界とはまた、チガウものだ。
ふたりの蜘蛛の、どちらを視点にするかで、どちらに感情移入するかで、物語はまったく別の色を持つ。
キム個人でも、ひとつの物語ですよ。
それがすべてでないことは言うまでもないが、壮大なサーガのなかの一篇として、存在しうる。
いやあ。
理屈がどうより、キムの邪悪さにときめいたんですよ。
黒くて無邪気で残酷で、そのくせ純粋で力強い、幼さとあやうさ、強さとしたたかさが万華鏡のように変わる、キムにときめきっぱなし(笑)。
あの邪悪さはなにっ?!! 歯を剥き出しにして吠えて、哄笑して、嘲笑して、冷笑して。
そのくせ弱い傷ついた瞳でたたずんで。
わたしが見たかった「音月桂」を、よくもここまで完璧な形で見せてくれた。
彼のかわいらしい容姿の下にある、熱を持った闇を、表現してくれたオギー、そして『タランテラ!』に心からの賞賛を。
はじめのうちは、キムに釘付けで、他が見られなくなって苦労した。や、コムまーは別としても。
スペインの場面は、上手で坐り込んでいるだけのキムをガン見してばかりだったので、舞台中央で壮くんが五峰姉さんと踊っていること、知りもしなかったよ。
物語導入の使者・笛吹男と主人公の影を、同じ人物が演じる。
舞台演劇の妙だよなあ。『凍てついた明日』で、主人公の聖域たる兄と、主人公を追いつめ破滅させる者を、同じ役者が演じていたように。他のジャンルではできない技術だよなー。
生の舞台では、ひとりの役者が何役もすることは不思議でもなんでもない。映画やテレビドラマではありえないけど。
だがらこそそこに、意味を含ませることができる。舞台のお約束を逆手にとって。
人々を破滅へ導くハーメルンの笛吹男。
罪を犯しながらでしか生きることのできない毒蜘蛛の、もうひとつの姿。
このふたつが、同じ役者であるということ。
いやあ、考えただけでぞくぞくしますなあ。
なんておそろしい世界。
なんて美しい世界。
『タランテラ!』はどこをとってもドラマが展開されているおそろしー作品なので、「誰を中心にして視るか」でまったく別の物語に見えると思う。また、同じ人を見ていたって、観客ひとりひとりの感じ方で、これまた別のものに見えるだろうし。
だからこそおもしろい作品だと思う。
「今」のわたしはこう感じているけれど、10年後20年後のわたしはチガウことを感じるかもしれない。10年前20年前のわたしなら、またチガウだろう。
……10年後や20年後に、もう今の『タランテラ!』を観ることは不可能なのだけど(ビデオなんぞ、ただの記録映像であって、「観る」ことがてぎるものには数えない)。
わたしが最初に「中心」として惹かれたのが、蜘蛛の影@キムだ。
プログラムで役名を確認したのがあとだったので、はじめはなにも知らず彼を「タランテラのミラー」と呼んでいた。
ミラー……鏡な。タランテラを映すもの。
『アルバトロス、南へ』でも、キムはそーゆー役割を担っていたから、注目しやすかったんだ。
キムはずーーっと舞台の上にいる。
純粋な登場時間だけでいえば、主役を超えてるんぢゃないか? ってくらい。
2回目の観劇では、他のすべてをあきらめ、キムだけをガン見してみた。
物語がどう動き、誰がどうしていようと、キムはいつも舞台のどこかにいるのだ。
彼はタランテラと、それをとりまく者たちを見ている。あるときは近づき、絡み、あるときは離れ、視線すら向けず。
タランテラ物語の中でキムが出ないところって、クライマックスの「大西洋」だけぢゃないの?
承前では笛吹男として華と毒を振りまいているし、プロローグでは緑色の若い蜘蛛になって、きらきら踊ってるよね。
スペインでは赤いジャケットで壮くんを襲ってるし(チガウ)、ラ・プラタ河ではジプシー姿で黄昏れているし、ブエノスアイレスとアムステルダムではスーツの男たちの間にひとりだけジプシー姿で混ざって野郎ダンスしてたよね?
大騒ぎのアマゾンではやっぱきらきら爆発していて、物語のラストシーン、のほほん壮一帆のひとり銀橋に笛吹男として登場、伏線拾ってエンドマーク、だよね。
パイド・パイパーと蜘蛛の影は別人、でいいと思う。
別の役だけど、同じ人が演じていることに毒がある、つーことで。
キムの持ち味は「少年」だと思う。
若さだとか、拙さ。収まりきる前のモノ。力強くどん欲だけど、どこか不安定。
彼がハタチ過ぎの青年であっても、魂は「少年」であると思う。その「未完成」さが魅力だと思う。……キム自身が実力的に安定した若手スターだということとは、別の話ね。
キムだけを見つめていて見えてくるのは、「少年」の物語。
傲慢さ、残酷さ、冷酷さ。
若さが持つ驕り。
狭量さ。
魂のきらめきと目を離せない魅力。
未完成であること、洋々たる未来があること自体の力。
無意味な繊細さ。
過剰な自意識ゆえの攻撃性。
無知ゆえの、純粋さ。
それは、「少年」という物語。
他者に対しはてしなく残酷になれる年代。自分に対しはてしなくナーヴァスになれる年代。
鏡の中の痛さと美しさが、蜘蛛の巣のようにひび割れて乱反射している。
それに対する、「大人の男」タランテラ@コム。
ふたりが同じものだとするならば、それはとてもせつない物語。
大人ゆえにすべてを受け入れ彷徨するタランテラと、彼につかず離れず見つめる、少年のままのタランテラの影。
少年は大人の自分を、ときに嘲笑し、ときに苛立ち、ときに冷たく突き放す。
そして、心で慟哭する。
泣かない大人の自分の代わりに。
タランテラの静かさと、影の感情の激しさのギャップが痛い。
「少年」である影は、純粋さも邪悪さも、タランテラよりはるかに強いのだから。
「少年」タランテラから見た世界。
それは、「大人の男」タランテラを主役として見る世界とはまた、チガウものだ。
ふたりの蜘蛛の、どちらを視点にするかで、どちらに感情移入するかで、物語はまったく別の色を持つ。
キム個人でも、ひとつの物語ですよ。
それがすべてでないことは言うまでもないが、壮大なサーガのなかの一篇として、存在しうる。
いやあ。
理屈がどうより、キムの邪悪さにときめいたんですよ。
黒くて無邪気で残酷で、そのくせ純粋で力強い、幼さとあやうさ、強さとしたたかさが万華鏡のように変わる、キムにときめきっぱなし(笑)。
あの邪悪さはなにっ?!! 歯を剥き出しにして吠えて、哄笑して、嘲笑して、冷笑して。
そのくせ弱い傷ついた瞳でたたずんで。
わたしが見たかった「音月桂」を、よくもここまで完璧な形で見せてくれた。
彼のかわいらしい容姿の下にある、熱を持った闇を、表現してくれたオギー、そして『タランテラ!』に心からの賞賛を。
はじめのうちは、キムに釘付けで、他が見られなくなって苦労した。や、コムまーは別としても。
スペインの場面は、上手で坐り込んでいるだけのキムをガン見してばかりだったので、舞台中央で壮くんが五峰姉さんと踊っていること、知りもしなかったよ。
物語導入の使者・笛吹男と主人公の影を、同じ人物が演じる。
舞台演劇の妙だよなあ。『凍てついた明日』で、主人公の聖域たる兄と、主人公を追いつめ破滅させる者を、同じ役者が演じていたように。他のジャンルではできない技術だよなー。
生の舞台では、ひとりの役者が何役もすることは不思議でもなんでもない。映画やテレビドラマではありえないけど。
だがらこそそこに、意味を含ませることができる。舞台のお約束を逆手にとって。
人々を破滅へ導くハーメルンの笛吹男。
罪を犯しながらでしか生きることのできない毒蜘蛛の、もうひとつの姿。
このふたつが、同じ役者であるということ。
いやあ、考えただけでぞくぞくしますなあ。
なんておそろしい世界。
なんて美しい世界。
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