『タランテラ!』のキムは、彼個人でひとつの物語になっていると思う。

 『タランテラ!』はどこをとってもドラマが展開されているおそろしー作品なので、「誰を中心にして視るか」でまったく別の物語に見えると思う。また、同じ人を見ていたって、観客ひとりひとりの感じ方で、これまた別のものに見えるだろうし。
 だからこそおもしろい作品だと思う。

 「今」のわたしはこう感じているけれど、10年後20年後のわたしはチガウことを感じるかもしれない。10年前20年前のわたしなら、またチガウだろう。
 ……10年後や20年後に、もう今の『タランテラ!』を観ることは不可能なのだけど(ビデオなんぞ、ただの記録映像であって、「観る」ことがてぎるものには数えない)。

 わたしが最初に「中心」として惹かれたのが、蜘蛛の影@キムだ。
 プログラムで役名を確認したのがあとだったので、はじめはなにも知らず彼を「タランテラのミラー」と呼んでいた。
 ミラー……鏡な。タランテラを映すもの。
 『アルバトロス、南へ』でも、キムはそーゆー役割を担っていたから、注目しやすかったんだ。

 キムはずーーっと舞台の上にいる。
 純粋な登場時間だけでいえば、主役を超えてるんぢゃないか? ってくらい。
 2回目の観劇では、他のすべてをあきらめ、キムだけをガン見してみた。

 物語がどう動き、誰がどうしていようと、キムはいつも舞台のどこかにいるのだ。
 彼はタランテラと、それをとりまく者たちを見ている。あるときは近づき、絡み、あるときは離れ、視線すら向けず。

 タランテラ物語の中でキムが出ないところって、クライマックスの「大西洋」だけぢゃないの?
 承前では笛吹男として華と毒を振りまいているし、プロローグでは緑色の若い蜘蛛になって、きらきら踊ってるよね。
 スペインでは赤いジャケットで壮くんを襲ってるし(チガウ)、ラ・プラタ河ではジプシー姿で黄昏れているし、ブエノスアイレスとアムステルダムではスーツの男たちの間にひとりだけジプシー姿で混ざって野郎ダンスしてたよね?
 大騒ぎのアマゾンではやっぱきらきら爆発していて、物語のラストシーン、のほほん壮一帆のひとり銀橋に笛吹男として登場、伏線拾ってエンドマーク、だよね。

 パイド・パイパーと蜘蛛の影は別人、でいいと思う。
 別の役だけど、同じ人が演じていることに毒がある、つーことで。

 キムの持ち味は「少年」だと思う。
 若さだとか、拙さ。収まりきる前のモノ。力強くどん欲だけど、どこか不安定。
 彼がハタチ過ぎの青年であっても、魂は「少年」であると思う。その「未完成」さが魅力だと思う。……キム自身が実力的に安定した若手スターだということとは、別の話ね。

 キムだけを見つめていて見えてくるのは、「少年」の物語。

 傲慢さ、残酷さ、冷酷さ。
 若さが持つ驕り。
 狭量さ。

 魂のきらめきと目を離せない魅力。
 未完成であること、洋々たる未来があること自体の力。

 無意味な繊細さ。
 過剰な自意識ゆえの攻撃性。

 無知ゆえの、純粋さ。

 それは、「少年」という物語。
 他者に対しはてしなく残酷になれる年代。自分に対しはてしなくナーヴァスになれる年代。
 鏡の中の痛さと美しさが、蜘蛛の巣のようにひび割れて乱反射している。

 それに対する、「大人の男」タランテラ@コム。
 ふたりが同じものだとするならば、それはとてもせつない物語。

 大人ゆえにすべてを受け入れ彷徨するタランテラと、彼につかず離れず見つめる、少年のままのタランテラの影。
 少年は大人の自分を、ときに嘲笑し、ときに苛立ち、ときに冷たく突き放す。
 そして、心で慟哭する。
 泣かない大人の自分の代わりに。

 タランテラの静かさと、影の感情の激しさのギャップが痛い。
 「少年」である影は、純粋さも邪悪さも、タランテラよりはるかに強いのだから。

 「少年」タランテラから見た世界。
 それは、「大人の男」タランテラを主役として見る世界とはまた、チガウものだ。
 ふたりの蜘蛛の、どちらを視点にするかで、どちらに感情移入するかで、物語はまったく別の色を持つ。

 キム個人でも、ひとつの物語ですよ。
 それがすべてでないことは言うまでもないが、壮大なサーガのなかの一篇として、存在しうる。
 
 
 いやあ。
 理屈がどうより、キムの邪悪さにときめいたんですよ。

 黒くて無邪気で残酷で、そのくせ純粋で力強い、幼さとあやうさ、強さとしたたかさが万華鏡のように変わる、キムにときめきっぱなし(笑)。
 あの邪悪さはなにっ?!! 歯を剥き出しにして吠えて、哄笑して、嘲笑して、冷笑して。
 そのくせ弱い傷ついた瞳でたたずんで。

 わたしが見たかった「音月桂」を、よくもここまで完璧な形で見せてくれた。
 彼のかわいらしい容姿の下にある、熱を持った闇を、表現してくれたオギー、そして『タランテラ!』に心からの賞賛を。

 はじめのうちは、キムに釘付けで、他が見られなくなって苦労した。や、コムまーは別としても。
 スペインの場面は、上手で坐り込んでいるだけのキムをガン見してばかりだったので、舞台中央で壮くんが五峰姉さんと踊っていること、知りもしなかったよ。

 
 物語導入の使者・笛吹男と主人公の影を、同じ人物が演じる。
 舞台演劇の妙だよなあ。『凍てついた明日』で、主人公の聖域たる兄と、主人公を追いつめ破滅させる者を、同じ役者が演じていたように。他のジャンルではできない技術だよなー。
 生の舞台では、ひとりの役者が何役もすることは不思議でもなんでもない。映画やテレビドラマではありえないけど。
 だがらこそそこに、意味を含ませることができる。舞台のお約束を逆手にとって。

 人々を破滅へ導くハーメルンの笛吹男。
 罪を犯しながらでしか生きることのできない毒蜘蛛の、もうひとつの姿。
 このふたつが、同じ役者であるということ。

 いやあ、考えただけでぞくぞくしますなあ。

 なんておそろしい世界。
 なんて美しい世界。


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