少女の姿をした神、あるいは彼女の箱庭。@タランテラ!
2006年10月25日 タカラヅカ 荻田浩一作品『タランテラ!』において、凶悪なまでにかわいらしいシナちゃん。「娘」という役名を持ち、舞台のさまざまな場面にただ存在している少女。
彼女がなんであるか、何故そこにいるのかは、なんの説明もされていない。
承前のパイド・パイパーの傍らに立ち、物語を導く者の一端であるはずの彼女。
わたしは彼女にカタチのないモノを感じた。
神だとか、運命だとか。
カタチだとか意志だとかを持たないモノ。
少女のカタチを取ってはいるけれど、少女ではない。笑っていたり人をもてあそんでいたりなにか考えていそうに見えるけれど、人間が理解できるような意志は持たない。
ただ、今、わたしたちの目に見えているだけの姿をした、本来ならば見ることも理解することもできないモノ。
いやあもー、ぞくぞくするんですけど。
彼女のかわいらしさ、無邪気さが、こわいのなんのって。
彼女がただ「そこにいる」ことが、すげーこわくて神聖で、惹きつけられる。
オープニングで、大人の女をもてあそんでいるところなんか、すげー好きです。やーん、ロリータな美少女が、美しい年長の娘を笑いながら翻弄するってナニよソレ、たのしすぎる〜〜。倒錯感がたまりません。ハァハァ。ヘタレ壮くんをいじっているときより、よっぽど萌えます(笑)。
そして彼女が関わる相手がタランテラの影@キムのみだというのも、萌え。
彼女は気まぐれにそこに存在し、彼女の姿を見ることができるモノは限られている。彼女があえて姿を現しているとき以外は、「別次元のモノ」で、同じ世界にはいないのだろうと思える。
そんな彼女が全編通して関わるのが、キム。
タランテラ@コムが本体ならば、その影である少年@キムは、この世のモノではない。たしかにそこにいて、世界を見つめ、関わっているようだけれど、本当のところ彼は存在していない。
タランテラが生み出した幻の少年と、彼にだけ見える少女の姿をした神。
それは、泣きたいくらい美しく、せつないイメージだ。
もつれあう人々から一歩離れ、清らかな白い花束を抱いた少女。
混乱の中、小さな明かりを灯している少女。
攻撃的な荒ぶる魂を秘めながら、繊細で傷つきやすい「少年」という性を持つキムとの、コントラストの美しさ。
混沌とした世界のなかで、彼らだけが、この世のモノではないのだ。
だからこそ少年は刹那の衝動に突き動かされながら傷つき続け、傷つけ続け、少女は永遠の穏やかさで人々を遠く眺めている。
揺るがない彼女は、誰に傷つけられることも損なわれることもなく、そこに在る。
誰の傷にも、誰の罪にも、誰の苦しみにも汚されることなく。
そして。
物語のフィナーレである狂乱のアマゾンにて、少女は生の象徴のような熱帯植物となって踊り狂う。
それまでの穏やかさを捨て、なにかに憑かれたかのように、大きくはじける。爆発する。
毒だとか有限だとか刹那だとか。
痛いモノをたしかに内包しながらも、生の饗宴は光を発する。
タランテラの旅路の果てにあるもの。
たどりついた生命の源で、物語はゼロに還る。メビウスの輪のように。己れの尻尾を喰らう蛇のように。
「踊らされたモノ」「囚われていたモノ」がなんだったのか……ステキ壮一帆がのほほんと歌う最後の場面で、承前のふたりが同じ姿で銀橋に現れる。
パイド・パイパー@キムと、少女@シナ。
少女が持つのは、小さな虫かご。
パイド・パイパーがそれを受け取り、のぞき込む。
かごは、空っぽ。
何故ならば。
少女が持っていた虫かごこそが、「世界」そのものだから。
タランテラの物語全部が、彼女のかごの中……彼女の箱庭の中の物語だった。
承前のパイド・パイパーに導かれ、別世界を見せられていただけのこと。
彼女は神、あるいは運命。超越したモノ。
彼女にカタチはなく、意志もない。
ただ、そこに「在る」モノ。
今、「少女」の姿に見えているだけのモノ。「少女」の無邪気さに見えているだけのモノ。
…………ああ、ステキ過ぎる、この世界観。
そして、かごが空っぽであることの、意味。
彼女の箱庭でしかなかった世界が、現実に、リンクした。
虫かごの中にいたはずのタランテラはその檻を出、わたしたちの目の前で、トップスター「朝海ひかる」として踊ってくれているのだから!!
あの悲しい物語をあとにして。
檻から解き放たれて。
美しく強いひとが、ここにいる。
踊らされるとか囚われるとか。
毒に侵され踊り続けるとか。
そーゆーんぢゃなくて。
自分の意志で、力で、輝く人が、ここにいる。
自らの輝きで、踊るひとがいる。
それまでの原色の悪夢のよーな世界が嘘のように、黒燕尾で端正にストイックに踊り出すコム姫の姿に、涙が出る。
ここまで、たどりついた。
あらゆる痛み、苦しみ、迷いや後悔、いろんな汚いもの混沌としたものを抜けて。
ここまで、たどりついたんだね。
うおおおお、コム姫、好きだああぁぁぁあ。
と、大泣き。
そっから先はほんと「サヨナラショー」だからさ、構成が。
コム姫とまーちゃんのダンス、水くんとの「男の友情」ダンス……と続き、大階段パレードにつながっていくわけだから。
ああもー、大好きだ『タランテラ!』。
どっかの演出家みたいに、台詞でダラダラ解説説明あらすじ起承転結テーマ鑑賞方法観劇感想文の書き方まですべて語るよーなことをしないから、観客の感性にゆだねられて、とてつもなくたのしい。
深みを探り、それゆえに自分自身とすら対峙できるだけの確かな構成と豊かな内容を持った作品だからさ。
相手にとって不足なし、思う存分トリップできる。
何度でも何度でも、繰り返し観たい。浸りたい。
世界観、色彩、物語、言葉、音楽、どれも絶品だ。
や、たしかに毒々しくも安っぽい色彩にあふれているんだけどね。タカラヅカのお約束無視で、手放しで「名作」とは言えないのかもしれないけどね。
少女の箱庭の中で、罪の遊戯に耽りたいんだ。
彼女がなんであるか、何故そこにいるのかは、なんの説明もされていない。
承前のパイド・パイパーの傍らに立ち、物語を導く者の一端であるはずの彼女。
わたしは彼女にカタチのないモノを感じた。
神だとか、運命だとか。
カタチだとか意志だとかを持たないモノ。
少女のカタチを取ってはいるけれど、少女ではない。笑っていたり人をもてあそんでいたりなにか考えていそうに見えるけれど、人間が理解できるような意志は持たない。
ただ、今、わたしたちの目に見えているだけの姿をした、本来ならば見ることも理解することもできないモノ。
いやあもー、ぞくぞくするんですけど。
彼女のかわいらしさ、無邪気さが、こわいのなんのって。
彼女がただ「そこにいる」ことが、すげーこわくて神聖で、惹きつけられる。
オープニングで、大人の女をもてあそんでいるところなんか、すげー好きです。やーん、ロリータな美少女が、美しい年長の娘を笑いながら翻弄するってナニよソレ、たのしすぎる〜〜。倒錯感がたまりません。ハァハァ。ヘタレ壮くんをいじっているときより、よっぽど萌えます(笑)。
そして彼女が関わる相手がタランテラの影@キムのみだというのも、萌え。
彼女は気まぐれにそこに存在し、彼女の姿を見ることができるモノは限られている。彼女があえて姿を現しているとき以外は、「別次元のモノ」で、同じ世界にはいないのだろうと思える。
そんな彼女が全編通して関わるのが、キム。
タランテラ@コムが本体ならば、その影である少年@キムは、この世のモノではない。たしかにそこにいて、世界を見つめ、関わっているようだけれど、本当のところ彼は存在していない。
タランテラが生み出した幻の少年と、彼にだけ見える少女の姿をした神。
それは、泣きたいくらい美しく、せつないイメージだ。
もつれあう人々から一歩離れ、清らかな白い花束を抱いた少女。
混乱の中、小さな明かりを灯している少女。
攻撃的な荒ぶる魂を秘めながら、繊細で傷つきやすい「少年」という性を持つキムとの、コントラストの美しさ。
混沌とした世界のなかで、彼らだけが、この世のモノではないのだ。
だからこそ少年は刹那の衝動に突き動かされながら傷つき続け、傷つけ続け、少女は永遠の穏やかさで人々を遠く眺めている。
揺るがない彼女は、誰に傷つけられることも損なわれることもなく、そこに在る。
誰の傷にも、誰の罪にも、誰の苦しみにも汚されることなく。
そして。
物語のフィナーレである狂乱のアマゾンにて、少女は生の象徴のような熱帯植物となって踊り狂う。
それまでの穏やかさを捨て、なにかに憑かれたかのように、大きくはじける。爆発する。
毒だとか有限だとか刹那だとか。
痛いモノをたしかに内包しながらも、生の饗宴は光を発する。
タランテラの旅路の果てにあるもの。
たどりついた生命の源で、物語はゼロに還る。メビウスの輪のように。己れの尻尾を喰らう蛇のように。
「踊らされたモノ」「囚われていたモノ」がなんだったのか……ステキ壮一帆がのほほんと歌う最後の場面で、承前のふたりが同じ姿で銀橋に現れる。
パイド・パイパー@キムと、少女@シナ。
少女が持つのは、小さな虫かご。
パイド・パイパーがそれを受け取り、のぞき込む。
かごは、空っぽ。
何故ならば。
少女が持っていた虫かごこそが、「世界」そのものだから。
タランテラの物語全部が、彼女のかごの中……彼女の箱庭の中の物語だった。
承前のパイド・パイパーに導かれ、別世界を見せられていただけのこと。
彼女は神、あるいは運命。超越したモノ。
彼女にカタチはなく、意志もない。
ただ、そこに「在る」モノ。
今、「少女」の姿に見えているだけのモノ。「少女」の無邪気さに見えているだけのモノ。
…………ああ、ステキ過ぎる、この世界観。
そして、かごが空っぽであることの、意味。
彼女の箱庭でしかなかった世界が、現実に、リンクした。
虫かごの中にいたはずのタランテラはその檻を出、わたしたちの目の前で、トップスター「朝海ひかる」として踊ってくれているのだから!!
あの悲しい物語をあとにして。
檻から解き放たれて。
美しく強いひとが、ここにいる。
踊らされるとか囚われるとか。
毒に侵され踊り続けるとか。
そーゆーんぢゃなくて。
自分の意志で、力で、輝く人が、ここにいる。
自らの輝きで、踊るひとがいる。
それまでの原色の悪夢のよーな世界が嘘のように、黒燕尾で端正にストイックに踊り出すコム姫の姿に、涙が出る。
ここまで、たどりついた。
あらゆる痛み、苦しみ、迷いや後悔、いろんな汚いもの混沌としたものを抜けて。
ここまで、たどりついたんだね。
うおおおお、コム姫、好きだああぁぁぁあ。
と、大泣き。
そっから先はほんと「サヨナラショー」だからさ、構成が。
コム姫とまーちゃんのダンス、水くんとの「男の友情」ダンス……と続き、大階段パレードにつながっていくわけだから。
ああもー、大好きだ『タランテラ!』。
どっかの演出家みたいに、台詞でダラダラ解説説明あらすじ起承転結テーマ鑑賞方法観劇感想文の書き方まですべて語るよーなことをしないから、観客の感性にゆだねられて、とてつもなくたのしい。
深みを探り、それゆえに自分自身とすら対峙できるだけの確かな構成と豊かな内容を持った作品だからさ。
相手にとって不足なし、思う存分トリップできる。
何度でも何度でも、繰り返し観たい。浸りたい。
世界観、色彩、物語、言葉、音楽、どれも絶品だ。
や、たしかに毒々しくも安っぽい色彩にあふれているんだけどね。タカラヅカのお約束無視で、手放しで「名作」とは言えないのかもしれないけどね。
少女の箱庭の中で、罪の遊戯に耽りたいんだ。
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