肯定の輝き。−壮一帆万歳−@タランテラ!
2006年10月26日 タカラヅカ で。
荻田浩一作『タランテラ!』において、いちばん泣ける場面は、どこですか?
もちろん、全編泣きツボだらけなんだけどね。
せつなく美しい「ラ・プラタ河」のシーンでは当然泣けるし、かなしく神聖で、おそろしくてたまらない「大西洋」ではダダ泣き必至、嗚咽こらえるのに苦労する。
観るたびに感じることや気づくこと、考えることがちがってくるので、泣けるポイントもそのたびチガウ。
体調次第によっては冒頭の「ビビデバビデブー」からスイッチ入って泣き出しちゃうし、コム姫の闘牛士姿の美しさに泣いてしまったりもする。
後半の「サヨナラショー」は「さあ、泣いていいんですよ」てな演出がこれでもかとされているんで、泣きっぱなしだし。
どこがいちばん、というのはチガウかもしれないが。
少なくとも、「毎回そこで必ず」泣ける場面がある。少なくとも、「他のどこともチガウ」意味で泣ける場面がある。
だからその場面こそが、いちばん泣ける場面だと思うんだ。
どこかって?
ソレはずばり。
ステキ壮一帆がのほほんと歌う銀橋の場面ですよっ!!
壮一帆最強!! てか、最高!!
21日、22日は我が友ドリーさんが遠征して来ててね。『タランテラ!』初見の彼女は言うのですよ。
「壮くんの銀橋の場面って、なんでみんな笑わないで観てられるの? アレ、おかしいでしょ、どう考えても」
おかしいともさ!
爆笑しても変ぢゃないって!
だって壮一帆だよ? 壮くんがものごっつー壮くん全開で壮一帆しているシーンだよ? おもしろいに決まってるぢゃないか。
でも。
その場面が、いちばんの泣きポイントなんだ。
壮くんは、健在だ。
いついかなるときも、壮一帆。
健康で、自分ダイスキで、周囲の空気読まなくて、じつにたのしそーに爆走している。
『堕天使の涙』でも「演技している」というよりは、「演技している俺」に酔っている感じがぷんぷん臭っていて実に美味しい。ナイスな陶酔ぶり(笑)。
『Romance de Paris』のディディエ役では、あまりの芝居音痴ぶりに閉口したもんだが、『お笑いの果てに』『DAYTIME HUSTLER』『ベルサイユのばら』(全ツ)と正しく進化し、今のステキ芸風を確立した。
彼はもう、大根とか芝居音痴とかゆーレベルではありません。
アレは、「壮一帆」という芸風なのです。
周囲から浮き上がっていて当然、ひとり陶酔していて当然、空気読めなくて当然。
だってアレはジャンル「壮一帆」。
いついかなるときも「自分ダイスキ!!」と全世界へ向かって叫び続ける強さと健康さを持った人。
もう、ダイスキです。
心奮えます。
半端に大根だったときは苦手イメージがあったりもしたけれど、そんなところはすでに突き抜けました。
GO! GO! 壮一帆! ハレルヤ壮一帆!!
この原色の毒がぎらぎらした作品『タランテラ!』において。
どれだけ、彼の存在が救いになっているか。
孤独なタランテラの旅路を、彼と共に魂をきしませて、傷ついて傷ついて、ただかなしいつらいだけでなく、美しくたのしい意味も大いにあり、心を上へ下へすごい勢いでシェイクされて、ボロボロになっているときに。
壮くんが、問答無用の輝きで出てくるの。
「ねえわたし、生きていていいの?」ーーそんな、根元の疑問に、レーゾンデートルが揺らいでいるときに。
他人を傷つけながらでしか生きられない、そんな人生になんの意味があるの? あたしなんか、いなくなった方がいい、あたしの犯してきた罪に、過去に、食われてしまえばいい……そんなトコまで追いつめられているときにだよ?
壮くんが、にぱぱっと笑って出てくるのさ。
「俺ってすごい! 俺ってダイスキ!!」
と。
理屈じゃないの。
どれだけなにもできなくても、浮いていよーと空気壊そうと、そんなこと関係ないの。
彼はただ「自分であること」を肯定しているの。それだけなの。
自己否定と自傷のあとに、爆弾みたいな自己肯定と自画自賛の光が輝く。
その光が、ただもうまぶしくて。
号泣。
壮くんが好きだ。
心から、好きだ。
彼を思うと涙が止まらなくなる。
あの魂の健康さに、救われる。
壮くんが壮くんでいてくれて、よかった。
ひとはひとりひとりちがい、誰が誰の代わりもできない。
壮くんはこの光を発するために、壮くんなんだね。
壮くんののほほん銀橋場面は、たのしい明るい場面だというだけでなく、壮くんの壮くんらしい陶酔ぶりに爆笑することもできる。『お笑いの果てに』テイストというか。『DAYTIME HUSTLER』で爆笑した人は、ここでも絶対思い切り笑えるはずだ。
でもね、そのおかしさが、救いなの。
この重すぎる作品では。
壮一帆メイト(いつの間にそんなメイトがっ?!)のパクちゃんと、楽の朝、彼のすばらしさと銀橋場面のすばらしさについて、レストランのテーブルを叩くほどの勢いで語り合った。
「オギーってアレ、絶対わかって使ってますよね」
「壮一帆の正しい使い方だよ、ありゃ」
壮くんに、救われる。
壮くんが、壮くんであることに。
ひとはそうやって、誰かを救うことができるんだ。
だから、生きていこう。
この、痛みに満ちた人生を。
「いちばん泣ける場面」は、「壮くんの銀橋」。
いつも必ずここで泣けるし、他の場面の涙とは、涙の意味がチガウ。
あってよかったよ、この場面。
ダイスキだ。
ところでオギーってさ、実は壮くんのこと気に入ってるよね?
少なくとも、水くんより。
今回の水くんの扱い、ほんとひどいもんなあ……。
や、ちゃんと「2番手」として大事にはされているけれど、「サラリーマン・オギー」として大切にしているだけで、「アーティスト・オギー」として、興味がないことが透けて見えるのがつらい。
水くんのキャラクタは、「サヨナラショー」部分では素の「アツい水先輩」としてハートフルに使われているけれど、「タランテラ物語」部分では、コムちゃんを薄めただけの使い方しかしてない。中途半端。ぶっちゃけ、いなくてもいい。
熱も光も、半端なんだよなあ。水くん……。今回の作品では、「水夏希」というキャラクタは不要だったんだよな。
もちろん、水くんには別の魅力があり、他の作品でなら活かせることを知っているから、「今回は残念だ」と肩を落とすだけだけどさっ。
半端に陰と色気と熱と光のある水先輩とちがい、壮くんはもー突き抜けて健康だ。この個性は愛でられるモノだろう。
で、その壮くんは雪組でオギー作品に出演し、まーちゃんDSでオギー作品に出演し、そのまま花組異動でまたしてもオギー作品に出演する。
どこまでオギーのお気に入りなの、壮一帆?! えりたん、おそろしい子!!(白目)
やー、パクちゃんもブログで書いているけれど、壮くんって、実はオギー役者なのかもしれませんよお客さん!! どー思いますっ?!(笑)
荻田浩一作『タランテラ!』において、いちばん泣ける場面は、どこですか?
もちろん、全編泣きツボだらけなんだけどね。
せつなく美しい「ラ・プラタ河」のシーンでは当然泣けるし、かなしく神聖で、おそろしくてたまらない「大西洋」ではダダ泣き必至、嗚咽こらえるのに苦労する。
観るたびに感じることや気づくこと、考えることがちがってくるので、泣けるポイントもそのたびチガウ。
体調次第によっては冒頭の「ビビデバビデブー」からスイッチ入って泣き出しちゃうし、コム姫の闘牛士姿の美しさに泣いてしまったりもする。
後半の「サヨナラショー」は「さあ、泣いていいんですよ」てな演出がこれでもかとされているんで、泣きっぱなしだし。
どこがいちばん、というのはチガウかもしれないが。
少なくとも、「毎回そこで必ず」泣ける場面がある。少なくとも、「他のどこともチガウ」意味で泣ける場面がある。
だからその場面こそが、いちばん泣ける場面だと思うんだ。
どこかって?
ソレはずばり。
ステキ壮一帆がのほほんと歌う銀橋の場面ですよっ!!
壮一帆最強!! てか、最高!!
21日、22日は我が友ドリーさんが遠征して来ててね。『タランテラ!』初見の彼女は言うのですよ。
「壮くんの銀橋の場面って、なんでみんな笑わないで観てられるの? アレ、おかしいでしょ、どう考えても」
おかしいともさ!
爆笑しても変ぢゃないって!
だって壮一帆だよ? 壮くんがものごっつー壮くん全開で壮一帆しているシーンだよ? おもしろいに決まってるぢゃないか。
でも。
その場面が、いちばんの泣きポイントなんだ。
壮くんは、健在だ。
いついかなるときも、壮一帆。
健康で、自分ダイスキで、周囲の空気読まなくて、じつにたのしそーに爆走している。
『堕天使の涙』でも「演技している」というよりは、「演技している俺」に酔っている感じがぷんぷん臭っていて実に美味しい。ナイスな陶酔ぶり(笑)。
『Romance de Paris』のディディエ役では、あまりの芝居音痴ぶりに閉口したもんだが、『お笑いの果てに』『DAYTIME HUSTLER』『ベルサイユのばら』(全ツ)と正しく進化し、今のステキ芸風を確立した。
彼はもう、大根とか芝居音痴とかゆーレベルではありません。
アレは、「壮一帆」という芸風なのです。
周囲から浮き上がっていて当然、ひとり陶酔していて当然、空気読めなくて当然。
だってアレはジャンル「壮一帆」。
いついかなるときも「自分ダイスキ!!」と全世界へ向かって叫び続ける強さと健康さを持った人。
もう、ダイスキです。
心奮えます。
半端に大根だったときは苦手イメージがあったりもしたけれど、そんなところはすでに突き抜けました。
GO! GO! 壮一帆! ハレルヤ壮一帆!!
この原色の毒がぎらぎらした作品『タランテラ!』において。
どれだけ、彼の存在が救いになっているか。
孤独なタランテラの旅路を、彼と共に魂をきしませて、傷ついて傷ついて、ただかなしいつらいだけでなく、美しくたのしい意味も大いにあり、心を上へ下へすごい勢いでシェイクされて、ボロボロになっているときに。
壮くんが、問答無用の輝きで出てくるの。
「ねえわたし、生きていていいの?」ーーそんな、根元の疑問に、レーゾンデートルが揺らいでいるときに。
他人を傷つけながらでしか生きられない、そんな人生になんの意味があるの? あたしなんか、いなくなった方がいい、あたしの犯してきた罪に、過去に、食われてしまえばいい……そんなトコまで追いつめられているときにだよ?
壮くんが、にぱぱっと笑って出てくるのさ。
「俺ってすごい! 俺ってダイスキ!!」
と。
理屈じゃないの。
どれだけなにもできなくても、浮いていよーと空気壊そうと、そんなこと関係ないの。
彼はただ「自分であること」を肯定しているの。それだけなの。
自己否定と自傷のあとに、爆弾みたいな自己肯定と自画自賛の光が輝く。
その光が、ただもうまぶしくて。
号泣。
壮くんが好きだ。
心から、好きだ。
彼を思うと涙が止まらなくなる。
あの魂の健康さに、救われる。
壮くんが壮くんでいてくれて、よかった。
ひとはひとりひとりちがい、誰が誰の代わりもできない。
壮くんはこの光を発するために、壮くんなんだね。
壮くんののほほん銀橋場面は、たのしい明るい場面だというだけでなく、壮くんの壮くんらしい陶酔ぶりに爆笑することもできる。『お笑いの果てに』テイストというか。『DAYTIME HUSTLER』で爆笑した人は、ここでも絶対思い切り笑えるはずだ。
でもね、そのおかしさが、救いなの。
この重すぎる作品では。
壮一帆メイト(いつの間にそんなメイトがっ?!)のパクちゃんと、楽の朝、彼のすばらしさと銀橋場面のすばらしさについて、レストランのテーブルを叩くほどの勢いで語り合った。
「オギーってアレ、絶対わかって使ってますよね」
「壮一帆の正しい使い方だよ、ありゃ」
壮くんに、救われる。
壮くんが、壮くんであることに。
ひとはそうやって、誰かを救うことができるんだ。
だから、生きていこう。
この、痛みに満ちた人生を。
「いちばん泣ける場面」は、「壮くんの銀橋」。
いつも必ずここで泣けるし、他の場面の涙とは、涙の意味がチガウ。
あってよかったよ、この場面。
ダイスキだ。
ところでオギーってさ、実は壮くんのこと気に入ってるよね?
少なくとも、水くんより。
今回の水くんの扱い、ほんとひどいもんなあ……。
や、ちゃんと「2番手」として大事にはされているけれど、「サラリーマン・オギー」として大切にしているだけで、「アーティスト・オギー」として、興味がないことが透けて見えるのがつらい。
水くんのキャラクタは、「サヨナラショー」部分では素の「アツい水先輩」としてハートフルに使われているけれど、「タランテラ物語」部分では、コムちゃんを薄めただけの使い方しかしてない。中途半端。ぶっちゃけ、いなくてもいい。
熱も光も、半端なんだよなあ。水くん……。今回の作品では、「水夏希」というキャラクタは不要だったんだよな。
もちろん、水くんには別の魅力があり、他の作品でなら活かせることを知っているから、「今回は残念だ」と肩を落とすだけだけどさっ。
半端に陰と色気と熱と光のある水先輩とちがい、壮くんはもー突き抜けて健康だ。この個性は愛でられるモノだろう。
で、その壮くんは雪組でオギー作品に出演し、まーちゃんDSでオギー作品に出演し、そのまま花組異動でまたしてもオギー作品に出演する。
どこまでオギーのお気に入りなの、壮一帆?! えりたん、おそろしい子!!(白目)
やー、パクちゃんもブログで書いているけれど、壮くんって、実はオギー役者なのかもしれませんよお客さん!! どー思いますっ?!(笑)
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