エリスは無垢な少女である。
 彼女は光、彼女は夢。
 ただただ美しい存在。

 主人公・太田豊太郎の目線で描かれた「青春の幻影」の物語である『舞姫』において、ヒロイン・エリスはただ美しく、それゆえに哀しい。

 森鴎外原作ではあるが、植田景子作のこの作品は、名前だけ借りた別物、景子先生のオリジナルだと言ってもいいと思う。
 主役の人格も物語のテーマもなにもかも違い、名前と基本設定・物語の流れだけが同じ、じゃ、「実在の人物を主人公に物語を作りました。実在の人物なんで人物関係も出来事も史実通りですが、他は全部フィクションです」とゆー『THE LAST PARTY』と同じじゃん。

 つーことで、そのオリジナルな『舞姫』。
 豊太郎とその恋人・エリス、親友・相沢。3人の主要人物それぞれが罪を犯す物語

 「夢」の具現であるエリスの犯した罪は、もちろん彼女が純粋すぎ、汚い現実世界で生きられなかったことにある……が。
 愛ゆえに壊れた美しい人、という、「よいイメージ」だけで終始するのではなく、彼女が具体的に犯した、致命的な罪について。

 もしも武士を相手に町人の娘が、
「名誉のために死ぬなんてバカじゃないの?」
 と言ったら、斬り捨てられても仕方ないよな? 斬り捨て御免、死を持って償え、てな致命的犯罪だわな。
 それも、今まさに「名誉のために自害」した武士の家族の前でソレを言ったら。
 
 エリスは、豊太郎にソレをした。

 豊太郎が本来の豊太郎なら、「日本人」であり、「武士」である豊太郎のままであったら、その場でエリスを殺し、自分も自害していると思う。
 豊太郎が魅力的なのは、彼が絶対に責任転嫁しないことだ。
 なにごとも、自分で決め、自分で責任を負う。
 彼は自分の意志と責任で、エリスを殺し、己の生命でもってけじめをつけただろう。
 本来ならば。

 エリスはそれだけ徹底的な、取り返しのつかない過ちを犯しているが、そもそもの過ちの根幹であるところの無知さにより、自分の罪にすら気づかない。

 日本人だからドイツ人だからとかゆー話ではなく、生命を懸けた価値観を、浅慮さゆえに全否定する愚かさ。無神経さ。
 「わからない」ことは仕方ないかもしれないが、何故ソレを今ここで口に出す? いくらなんでも無神経すぎるだろう。愚かすぎるだろう。殺されなかったのは、相手が豊太郎だったからであって、武士でなくても死んだ家族をあのタイミングで貶められたら激昂するぞ? ドイツ人同士でも殺されたかもしれないぞ?

 このことからわかる通り、彼女はただ「愛している」と言うだけで、豊太郎を理解する気がまったくない。
 人間として、あまりに幼く、矮小だ。

 彼女の美しさ、純粋さは、ただの愚かさだ。
 なにも知らないからきれいなだけ。汚れる前だからきれいなだけ。汚れたらそのことに耐えきれずに逃げ出してしまう。

 彼女の「罪」は「愛している」と言いながら、その愛する相手を「まったく理解しない」ことだ。
 なにが相手を傷つけるかも考えず、ただ自分が気持ちいいことだけを追求する。
 蝶の羽、足を、ひとつずつもぎ取り、嬲り殺す子どもと同じ「純粋」さで。
 

 「エリスの罪は純粋すぎたこと」ではない。
 それもあるっちゃーあるが、それだけではない。

 えー、いつも語っているが、わたしは「まちがっていることを『正しい』とする世界観」が嫌い。
 たとえば「世界でいちばん尊いのは愛だから、自分と恋人以外はどーなってもヨシ、仕事なんか投げ出して当然、不倫も当然、自分たちに説教するよーなヤツは悪人、卑怯者、自分だけが正義」とかな。や、植爺作『ベルサイユのばら』のフェルゼンとかゆー人の言動ですが。
 この例題が気持ち悪いのは、この自分勝手極まりない万年留学中(30過ぎてまだ遊ぶだけの学生)不倫男を「正しいことをしているのに、愚かな人々から攻撃される悲劇の主人公」と描いていること。
 主人公を「正しい」とするために、他のすべての世界観、価値観がゆがめられているの。
 どう考えてもまちがっているのは主人公なのに、彼をマンセーするために彼以外のすべてが「悪」になっている。

 「まちがっている」ことは、悪いことではない。
 リアル界でどーだかは置いておいて、「物語」の中では、だ。
 「まちがっている」ことは「まちがっている」こととして公正に描き、「過ちを犯してまで、なにをしたいのか」「何故その過ちを犯したのか」を描くことこそ、「物語」だろう。
 ある殺人者の物語だとしたら、植爺作品ではもれなく価値観倫理観がゆがめられ殺人が正しいことになるだろうが、そーではなく、殺人は悪い、だが殺人を犯してまでなにを求めたのか、殺人を犯したのは何故かを描くのが「物語」の醍醐味だろう。

 エリスは美しいだけの少女ではなく、身もフタもなく愚かなだけの罪を犯している。

 だが、彼女は美しく、この物語もまた美しい。

 それはエリスを正当化するために世界観をゆがめた結果得られたモノではない。

 彼女の罪や愚かさをきちんと描いたうえで、それを認めているゆえだ。

 視点となる主人公豊太郎が、エリスの罪と愚かさを理解し、それでもなお彼女を愛しているから、だ。

「わたしにはわからない」
 と、豊太郎の人生を全否定するエリスに、豊太郎は、

「愛している」

 と返す。


 この少女のために、母を殺した男が狂気の目で「愛している」と歌う。
 返り血をあび、汚れ、歪んだ顔に、目だけがぎらぎらと光る。

 まちがっている。
 これは罪だ。

 それでもなお、愛さずにはいられない。

 その壮絶さが、激しい琴の音と相まって目眩のような美に昇華される。

 人間たちが、罪を犯す物語。
 罪を犯してまで、誰かを愛する物語。

 だからこそエリスは美しく、豊太郎は美しく、この物語『舞姫』は美しい。


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