わたしはピュアファンではないから・その2。
2007年11月1日 タカラヅカ 中村Bの無能さを真面目に考える(笑)、続きです。
ひとつめは、彼の作家としての技術面でのアレさについて書いた。
ふたつめは、「タカラヅカの座付き」としての無神経さだ。
宝塚歌劇団は、特殊なところだ。
プロが興行をしている、ということ以外に、劇団員を「生徒」と呼び、公私混同でその成長を見守り、卒業に涙するところだ。
楽屋落ちや身内受けのアドリブがよろこばれ、努力だとか友情だとかがまかり通るところ。
出来のクオリティよりも「がんばっている」ことが大切だったりするところ。
商業演劇でありながら、結果より過程を重要視されるところ。
舞台の上の芸だけでなく、そのバックボーンごと観客は「夢」を観にやってくる。
そーゆー劇団だから、年に一度の『TCA』で「オサアサ」なんてコーナーを堂々と作ってしまえるんだ。や、他のあらゆる「商業作品」であのぐだぐだぶりはありえないって。
いい悪いではなく、それが「タカラヅカ」。前提であり、お約束だ。
だから座付き作家もまた、それを踏まえた「視点」が必要になる。
タカラヅカでもっともファンに支持されるのは「名作」でも「大作」でもない。「アテ書き作品」だ。
スターの魅力を理解し、それをもっとも引き出し、ファンが「観たい」と思わせるモノを作る。
名作である必要なんかナイ。「アテ書き」さえうまくできてりゃー、あとはなんとでもなる。
外部の「大作」を引っ張ってきたって、過去の遺物の「名作」とやらを掘り起こしてきたって、リアルタイムの「アテ書き」には敵わない。
「アテ書き」は技術ではない。仕事に対する丁寧さだとか誠意だとかいう、目に見えない部分を必要とする。
このスターの魅力とはナニか。ファンはナニを望んでいるか。それを推察するのは、技術ではない。
たとえば、オサ様。
この人の魅力がなんであるか。ファンはナニを望んでいるか。……中村Bは、考えただろうか?
今回の公演、『ラブ・シンフォニー』と『アデュー・マルセイユ』は、とても対照的な作り方をしてある。
どちらも作品としてのクオリティは低いとおもっているが、技術面ではなく、「心」の部分でのアプローチの仕方が真逆なのが興味深い。
『アデュー・マルセイユ』は、「アテ書き」された作品だ。
オサに「孤独と秘密」を抱えさせ、苦悩させ、組を託す次期トップに「ずっと友だちだ」と握手をさせ、残していく娘役トップに「遠くにいても君を思うことが出来る云々」と背中を押してやり、銀橋で最後に「アデュー」と言わせる。
……それだけの動機で作られた。おかげでストーリーはめちゃくちゃ、辻褄なんかナイ、ツッコミどころだらけの珍作だ。
だが、「春野寿美礼の魅力を出す」という明確な目的ゆえに、成り立っている。
たしかにオサ様には孤独が似合うし、歌が武器なのだから歌わせまくるのは正しい。
だがそれ以外にも、オサ様にナニをして欲しいか、を考えられている。
すなわち、花組トップ男役たるもの、男同士で絡んでナンボ、ということ。
まとぶと友情で絡み、壮くんと敵対することで絡み、みわっちは女にして(男役の女装は通常ファンサービス)、まっつとは歌わせ、みつるには指南させる。
主要な男役たちにそれぞれ、男同士の絡みを披露。
それとは別に、ヒロインとは「タカラヅカの正統派男役ならでは」の、かゆくなるよーなラヴいシーンを演じさせる。
「忘れ物だ」……が、ありえるのはタカラヅカゆえ。
座付き作家として、ファンのための「春野寿美礼」をプロデュースしきった。
それと『ラブ・シンフォニー』は、正反対。
この作品の初見の印象は、「どの組で上演してもOKだな」だ。
花組のためでも、オサ様のためでもない。
あさこと月組が似合いそうだな、と思ったのは、中村Bの『REVUE OF DREAMS』が記憶に新しいせいだろう。……似てるもん、とにかく。
中村Bはアテ書きを一切せず、「自分の引き出しの中」にあるものだけで作った。
スターの持ち味なんか関係ない。彼の中ではパターンが決まっていて、それに合わせて作品をつなぎ合わせる。「最強、秋の着回しパターン!」てな女性誌のコーナーみたいに、いくつかのアイテムと組み合わせパターンが表になっていて、その通りにしているだけ。
「最強、秋の着回しパターン!」と銘打つだけあって、ふつーの女性なら誰が着てもそれなりにオシャレにかわいく見える組み合わせ集だから、高い評価を受けるはずはないものの、通常の公演ならまだ誤魔化せるかもしれない。
だが今回は歌に特化した魅力を持つトップスターの、サヨナラ公演だ。
いわば、ふつーのOLさんの日常生活のための服装ではなく、特別なパーティに行くときのコーディネイトが求められているのに、「最強、秋の着回しパターン!」で通したよーなもんだ。だって、ソレしか知らないから。
セレブなパーティ会場に、普段着で来てしまったような場違いさ。
精一杯のおしゃれをしての結果ではなく、「なーんにも考えないで、いつもの格好で来ました」というだけの。
どこの組でも上演可能。いつもの組み合わせ、いつものパターン。
だからオサ様が踊りまくり、彩音ちゃんが歌いまくることになる。どの組のトップコンビでもできるように。
オサに踊らせるな、彩音に歌わせるな、ということではない。それが彼らのために、彼らの魅力を最大限に引き出し、ファンがよろこぶのならそれでいい。
ただ、「ノートに書いてある基本パターンだから」というだけでやられちゃたまらないってこと。
オサに踊らせなければならないなら、その分「歌」の場面を作るなりしてバランスを取ればいいのに、それすらない。
オサひとりが歌いまくるだけのワンマンショーをやれというのではなく、バランスの問題だ。「核」となる場面があれば、そこ以外は得意分野が薄めでも、組子たちの活躍が顕著でも、正しいトップスターならば「作品」の中心が自分であることを実力で示す。
得意分野を無視しただけではなく。
中村Bは、トップスター以外の組子の特性をも、まるっと無視した。
出番が与えられるのは、番手順。他にはナニも考えていない。オサ、まとぶ、壮、みわっち、まっつ、みつるめおりせまぁくん。
いちいち確認するまでもなく、どこを取っても同じ順番。誰がナニを得意だとか、誰と誰を組ませたら相乗効果が期待できるとか、一切無し。
興味がないんだろう。
組子たちは、番号札を付けられた黒子なのか。中村Bのノートに書いてある「どこの組でも同じ」パターン通りに上から順に配置して、それで完成。
小池の芝居がストーリーめちゃくちゃでも、オサ様アテ書きだからファンから愛されているように、中村Bもアテ書きすればよかったんだよ。
たしかに中村Bは作家として無能で、大劇場を立方体として認識することが出来ない。平面で、1階の真正面から観ないときれいに見えないものしか作れない。
引き出しの中の同じパターンをつぎはぎすることでしか、創作できない。
それでも最低限「アテ書き」でさえあれば。
どっかで観た(『LUCKY STAR!』『ザ・ビューティーズ!』『プレスティージュ』etc.いくつの作品に似ていると人の口に上ったろう)焼き直しのつぎはぎであったとしても、そのチョイスが「アテ書き」にさえなっていたら、別の評価もあったろうに。
「春野寿美礼にコレを歌わせたい」「演じさせたい」……そう思うものはなにもなかったのか?
オサ様だからではなく、すべてのジェンヌに対してそうなのだから、座付きである意味はないと思う。
技術か、心か。どちらか片方でも持ち合わせていればまだ救われたのに。オーソドックス、という持ち味は、一応美点であると好意的に解釈してきたのに。
今回、両方持ち合わせていないことがわかり、萎えきったよ。
ひとつめは、彼の作家としての技術面でのアレさについて書いた。
ふたつめは、「タカラヅカの座付き」としての無神経さだ。
宝塚歌劇団は、特殊なところだ。
プロが興行をしている、ということ以外に、劇団員を「生徒」と呼び、公私混同でその成長を見守り、卒業に涙するところだ。
楽屋落ちや身内受けのアドリブがよろこばれ、努力だとか友情だとかがまかり通るところ。
出来のクオリティよりも「がんばっている」ことが大切だったりするところ。
商業演劇でありながら、結果より過程を重要視されるところ。
舞台の上の芸だけでなく、そのバックボーンごと観客は「夢」を観にやってくる。
そーゆー劇団だから、年に一度の『TCA』で「オサアサ」なんてコーナーを堂々と作ってしまえるんだ。や、他のあらゆる「商業作品」であのぐだぐだぶりはありえないって。
いい悪いではなく、それが「タカラヅカ」。前提であり、お約束だ。
だから座付き作家もまた、それを踏まえた「視点」が必要になる。
タカラヅカでもっともファンに支持されるのは「名作」でも「大作」でもない。「アテ書き作品」だ。
スターの魅力を理解し、それをもっとも引き出し、ファンが「観たい」と思わせるモノを作る。
名作である必要なんかナイ。「アテ書き」さえうまくできてりゃー、あとはなんとでもなる。
外部の「大作」を引っ張ってきたって、過去の遺物の「名作」とやらを掘り起こしてきたって、リアルタイムの「アテ書き」には敵わない。
「アテ書き」は技術ではない。仕事に対する丁寧さだとか誠意だとかいう、目に見えない部分を必要とする。
このスターの魅力とはナニか。ファンはナニを望んでいるか。それを推察するのは、技術ではない。
たとえば、オサ様。
この人の魅力がなんであるか。ファンはナニを望んでいるか。……中村Bは、考えただろうか?
今回の公演、『ラブ・シンフォニー』と『アデュー・マルセイユ』は、とても対照的な作り方をしてある。
どちらも作品としてのクオリティは低いとおもっているが、技術面ではなく、「心」の部分でのアプローチの仕方が真逆なのが興味深い。
『アデュー・マルセイユ』は、「アテ書き」された作品だ。
オサに「孤独と秘密」を抱えさせ、苦悩させ、組を託す次期トップに「ずっと友だちだ」と握手をさせ、残していく娘役トップに「遠くにいても君を思うことが出来る云々」と背中を押してやり、銀橋で最後に「アデュー」と言わせる。
……それだけの動機で作られた。おかげでストーリーはめちゃくちゃ、辻褄なんかナイ、ツッコミどころだらけの珍作だ。
だが、「春野寿美礼の魅力を出す」という明確な目的ゆえに、成り立っている。
たしかにオサ様には孤独が似合うし、歌が武器なのだから歌わせまくるのは正しい。
だがそれ以外にも、オサ様にナニをして欲しいか、を考えられている。
すなわち、花組トップ男役たるもの、男同士で絡んでナンボ、ということ。
まとぶと友情で絡み、壮くんと敵対することで絡み、みわっちは女にして(男役の女装は通常ファンサービス)、まっつとは歌わせ、みつるには指南させる。
主要な男役たちにそれぞれ、男同士の絡みを披露。
それとは別に、ヒロインとは「タカラヅカの正統派男役ならでは」の、かゆくなるよーなラヴいシーンを演じさせる。
「忘れ物だ」……が、ありえるのはタカラヅカゆえ。
座付き作家として、ファンのための「春野寿美礼」をプロデュースしきった。
それと『ラブ・シンフォニー』は、正反対。
この作品の初見の印象は、「どの組で上演してもOKだな」だ。
花組のためでも、オサ様のためでもない。
あさこと月組が似合いそうだな、と思ったのは、中村Bの『REVUE OF DREAMS』が記憶に新しいせいだろう。……似てるもん、とにかく。
中村Bはアテ書きを一切せず、「自分の引き出しの中」にあるものだけで作った。
スターの持ち味なんか関係ない。彼の中ではパターンが決まっていて、それに合わせて作品をつなぎ合わせる。「最強、秋の着回しパターン!」てな女性誌のコーナーみたいに、いくつかのアイテムと組み合わせパターンが表になっていて、その通りにしているだけ。
「最強、秋の着回しパターン!」と銘打つだけあって、ふつーの女性なら誰が着てもそれなりにオシャレにかわいく見える組み合わせ集だから、高い評価を受けるはずはないものの、通常の公演ならまだ誤魔化せるかもしれない。
だが今回は歌に特化した魅力を持つトップスターの、サヨナラ公演だ。
いわば、ふつーのOLさんの日常生活のための服装ではなく、特別なパーティに行くときのコーディネイトが求められているのに、「最強、秋の着回しパターン!」で通したよーなもんだ。だって、ソレしか知らないから。
セレブなパーティ会場に、普段着で来てしまったような場違いさ。
精一杯のおしゃれをしての結果ではなく、「なーんにも考えないで、いつもの格好で来ました」というだけの。
どこの組でも上演可能。いつもの組み合わせ、いつものパターン。
だからオサ様が踊りまくり、彩音ちゃんが歌いまくることになる。どの組のトップコンビでもできるように。
オサに踊らせるな、彩音に歌わせるな、ということではない。それが彼らのために、彼らの魅力を最大限に引き出し、ファンがよろこぶのならそれでいい。
ただ、「ノートに書いてある基本パターンだから」というだけでやられちゃたまらないってこと。
オサに踊らせなければならないなら、その分「歌」の場面を作るなりしてバランスを取ればいいのに、それすらない。
オサひとりが歌いまくるだけのワンマンショーをやれというのではなく、バランスの問題だ。「核」となる場面があれば、そこ以外は得意分野が薄めでも、組子たちの活躍が顕著でも、正しいトップスターならば「作品」の中心が自分であることを実力で示す。
得意分野を無視しただけではなく。
中村Bは、トップスター以外の組子の特性をも、まるっと無視した。
出番が与えられるのは、番手順。他にはナニも考えていない。オサ、まとぶ、壮、みわっち、まっつ、みつるめおりせまぁくん。
いちいち確認するまでもなく、どこを取っても同じ順番。誰がナニを得意だとか、誰と誰を組ませたら相乗効果が期待できるとか、一切無し。
興味がないんだろう。
組子たちは、番号札を付けられた黒子なのか。中村Bのノートに書いてある「どこの組でも同じ」パターン通りに上から順に配置して、それで完成。
小池の芝居がストーリーめちゃくちゃでも、オサ様アテ書きだからファンから愛されているように、中村Bもアテ書きすればよかったんだよ。
たしかに中村Bは作家として無能で、大劇場を立方体として認識することが出来ない。平面で、1階の真正面から観ないときれいに見えないものしか作れない。
引き出しの中の同じパターンをつぎはぎすることでしか、創作できない。
それでも最低限「アテ書き」でさえあれば。
どっかで観た(『LUCKY STAR!』『ザ・ビューティーズ!』『プレスティージュ』etc.いくつの作品に似ていると人の口に上ったろう)焼き直しのつぎはぎであったとしても、そのチョイスが「アテ書き」にさえなっていたら、別の評価もあったろうに。
「春野寿美礼にコレを歌わせたい」「演じさせたい」……そう思うものはなにもなかったのか?
オサ様だからではなく、すべてのジェンヌに対してそうなのだから、座付きである意味はないと思う。
技術か、心か。どちらか片方でも持ち合わせていればまだ救われたのに。オーソドックス、という持ち味は、一応美点であると好意的に解釈してきたのに。
今回、両方持ち合わせていないことがわかり、萎えきったよ。
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