わたしはピュアファンではないから・その3。
2007年11月2日 タカラヅカ 『春野寿美礼サヨナラショー』が、どんな演出だったか。
広大な宝塚大劇場を使った、ディナーショーだった。
そこは、ホテルの宴会場。壁際の一部分に細長く作られたステージ。簡易ステージなので、セリもなければ大がかりなセットもない。名前を書いた電飾と、菫の花束の絵だけ。
ディナーショーなので、主役ひとりがえんえん歌う。1回登場すると、続け様に何曲も歌う。
ステージに立ったままでは場が持たないので、客席降りならぬ銀橋を渡らせる。
スターの衣装替えのときだけに、バックコーラスの下級生たちがマイクを持って場つなぎの歌をみんなで歌う。
相手役が登場し、スターと絡むこともなくそれぞれ歌う。や、一応公演の再現だけど、何故か絡まない、踊らない場面の歌。
スターがまたひとりでえんえん歩きながら歌う。何曲も歌う。
スターの衣装替えのときだけに、バックコーラスの退団者たちがマイクを持って場つなぎの歌をみんなで歌う。ダンサーとして名を馳せた人も、その実力に関係なく歌を歌う。
スターが登場、ようやく組子たちに出番。でも、すでにフィナーレ。しかもラストは知らない昭和歌謡。
中村Bの空間認識力は、ホテルの宴会場の特設ステージが精一杯。
そのため彼は、ディナーショーと同じ方法論で、大劇場のサヨナラショーを作った。
彼のノートには、それしか書いてなかったんだろう。
トップスターの「サヨナラショー」というものがなんなのか、どういう意味を持つのか、誰も教えてくれなかったんだと思う。そして彼も、教えられないのをいいことに、自分で考えようとはしなかった。
その結果が、無神経かつつまらないショーだ。
ファンが聴きたい、と思っていた曲をことごとくはずしていることに、ナニか意味があるのかもしれない。オサ様自身の意志だったのかもしれない。
だが、選曲ではなく「演出」は、演出家の領分だろう。『エリザベート』も『I got music』も『不滅の棘』も、なにもなくても演出さえまともならもっとチガウモノになっていた。
持ち歌を使わなくても十分サヨナラショーだった、『TCA2007』のように。
ここはホテルの宴会場じゃない。特設ステージじゃない。
大劇場だ。
歌うオサ様のバックで、組子たちを踊らせればいい。コーラスだけでもいい。
それぞれの曲に相応しい、「あのとき同じ場面に出ていたね」な子たちを控えめに出しておけばいい。想い出の再現、記憶の再確認、歌を盛り上げるためであり気を散らすためではないから、要点を絞って意味のある使い方を。
そしてときには、歌うオサ様に絡ませる。ダンスででもいいし、一小節ごとに歌い継いだりハモったりするのでもいい。
サヨナラショーの基本演出だ。
退団者たちにも、意味のある場面を与える。たとえば『マラケシュ』の主題歌を銀橋でオサ様が歌っているときに、本舞台でとしこさんが踊るとか。ドレス姿でいい、華麗に端正に舞うだけで、なんのことがわかるだろう。
退団者オンリーの場面でも、きよみが歌い、さおた×としこ、まりん×ひーさんが踊るとか。退団者だけ出せば「任を果たした」わけじゃない。彼らへの愛情が感じられてこそ、だ。カップリングは重要。長くコンビを組んできた人たちが別れることになるんだから、惜しむ場面を。
若手男役がぞろりと出て、一瞬だけでもきよみがセンターにいるとか、花組デカ男ズで最後の並びを披露するとか。
いくらでも、できることはあるだろうに。
たしかにオサ様の歌は素晴らしい。
彼ひとりが歌うことで、演出なんて無意味なほど魅せてくれる。
だがここはタカラヅカで、これはサヨナラショーだ。
彼が孤高のトップで組子たちから慕われていないというならともかく、愛され、惜しまれて去るのだという演出は、ショーを盛り上げることはあっても、損ないはしないだろう。たかちゃんもワタさんもコムちゃんも、組子と絡み、ひとつになってサヨナラショーを見せてくれた。
タカラヅカの素晴らしさは、大いなるアマチュア精神。舞台とそのバックボーンが相まっていること。
トップスターがどれほどすばらしい能力や技術を持っているかも大切だけれど、どれほど「夢の世界の住人」として、夢とか愛とか友情とか信頼とか、現実社会ではないがしろにされてしまうものたちに囲まれ、それを得て生きているか、「永遠の学園祭前夜」でいるかを見せつけ、フェアリーでいるかも大切なんだ。
オサ様の持ち歌としてはラストソングとなった『La Esperanza』も、当時の場面をまんま再現しちゃえばよかったのに。
組子たちの歌い継ぎ、肩をたたき合ったり目線を交わしたりしながら、壮大な合唱へ。……なのに現実には、ただの勢揃い正面向いて合唱するだけ。
オサ様がひとりでえんえん歌い、彼がいない場面はつなぎであること見え見えに他の複数人が歌うか、組子全員のコーラス。
オサ様はついに組子たちとは一切絡まなかった。彩音、まとぶとささやかに同じ舞台に立っただけ。
ただ「曲」を並べただけだ。
こんなの「演出」じゃない。
オサ・彩音・まとぶの「黒いワシ」から組子たちによる「新世界」への盛り上がりはよかったし、彼らの気合い、ダンスの揃い具合はすごかった。彼らも、オサ様を「送りたい」と誠心誠意思っているのだろうに、場を与えられなかった。
ディナーショーなら、それでもよかったんだろう。
スターが持ち歌を歌い、彼のお着替えタイムに数人のコーラス隊が1曲歌い、あとはまたスターがひとりでえんえん歌う。その繰り返し。
ディナーショーしかできないなら、大劇場に出てくるな。サヨナラショーの演出はするな。
頼みます。泣いて頼みます。
それでも、春野寿美礼はすばらしかった。
どんな駄作でも力業でねじ伏せる、トップとしての力に改めて敬服した。
だからこそ、これほどの人がこんなサヨナラショーで退団するのが惜しい。口惜しい。
わたしはピュアファンではないので、駄作にはどーしても引っかかってしまう。
「嫌なら観るな」ということでは片づかない。
観たい。酔いたい。見送りたい。
その思いを、演出家の無能さに踏みにじられるのがつらいんだ。
「サヨナラショー」なら、なんでもいいわけじゃない。ここでどんな演出をするかで、株が上がりもするし、暴落しもするんだよ。
座付き作家として、いや、クリエイターとして、誠意を持って仕事をして欲しい。
観客に「夢」を見せるのが仕事なのだから、きちんと働いて欲しい。
いろいろ書いたが、オサ様と花組に対してじゃない。また、演出に物申すことで、オサ様のせっかくのサヨナラショーに砂を掛けたいわけでもない。
わたしの思いがどうあれ、結果としてあるのは「サヨナラショーに文句を言っているイタイ人間」ということだけだろう。それでも、書かずにいられない。
よかったことも、悪かったことも。春野寿美礼の軌跡を、わたしの目を通したあの希有な人の姿を、わたしの言葉で書き記したい。オサ様たちが素晴らしかったことと、演出のひどさを混同したくない。
オサ様と彼のサヨナラショー自体は素晴らしかった。よい空間だった。あの時間を、空気を共有できて良かった。感謝している。
わたしがここでなにを言ったところで。
世界はナニも変わらない。
オサ様と花組のみんなが、しあわせでありますように。
見送るファンたちが、しあわせでありますように。
広大な宝塚大劇場を使った、ディナーショーだった。
そこは、ホテルの宴会場。壁際の一部分に細長く作られたステージ。簡易ステージなので、セリもなければ大がかりなセットもない。名前を書いた電飾と、菫の花束の絵だけ。
ディナーショーなので、主役ひとりがえんえん歌う。1回登場すると、続け様に何曲も歌う。
ステージに立ったままでは場が持たないので、客席降りならぬ銀橋を渡らせる。
スターの衣装替えのときだけに、バックコーラスの下級生たちがマイクを持って場つなぎの歌をみんなで歌う。
相手役が登場し、スターと絡むこともなくそれぞれ歌う。や、一応公演の再現だけど、何故か絡まない、踊らない場面の歌。
スターがまたひとりでえんえん歩きながら歌う。何曲も歌う。
スターの衣装替えのときだけに、バックコーラスの退団者たちがマイクを持って場つなぎの歌をみんなで歌う。ダンサーとして名を馳せた人も、その実力に関係なく歌を歌う。
スターが登場、ようやく組子たちに出番。でも、すでにフィナーレ。しかもラストは知らない昭和歌謡。
中村Bの空間認識力は、ホテルの宴会場の特設ステージが精一杯。
そのため彼は、ディナーショーと同じ方法論で、大劇場のサヨナラショーを作った。
彼のノートには、それしか書いてなかったんだろう。
トップスターの「サヨナラショー」というものがなんなのか、どういう意味を持つのか、誰も教えてくれなかったんだと思う。そして彼も、教えられないのをいいことに、自分で考えようとはしなかった。
その結果が、無神経かつつまらないショーだ。
ファンが聴きたい、と思っていた曲をことごとくはずしていることに、ナニか意味があるのかもしれない。オサ様自身の意志だったのかもしれない。
だが、選曲ではなく「演出」は、演出家の領分だろう。『エリザベート』も『I got music』も『不滅の棘』も、なにもなくても演出さえまともならもっとチガウモノになっていた。
持ち歌を使わなくても十分サヨナラショーだった、『TCA2007』のように。
ここはホテルの宴会場じゃない。特設ステージじゃない。
大劇場だ。
歌うオサ様のバックで、組子たちを踊らせればいい。コーラスだけでもいい。
それぞれの曲に相応しい、「あのとき同じ場面に出ていたね」な子たちを控えめに出しておけばいい。想い出の再現、記憶の再確認、歌を盛り上げるためであり気を散らすためではないから、要点を絞って意味のある使い方を。
そしてときには、歌うオサ様に絡ませる。ダンスででもいいし、一小節ごとに歌い継いだりハモったりするのでもいい。
サヨナラショーの基本演出だ。
退団者たちにも、意味のある場面を与える。たとえば『マラケシュ』の主題歌を銀橋でオサ様が歌っているときに、本舞台でとしこさんが踊るとか。ドレス姿でいい、華麗に端正に舞うだけで、なんのことがわかるだろう。
退団者オンリーの場面でも、きよみが歌い、さおた×としこ、まりん×ひーさんが踊るとか。退団者だけ出せば「任を果たした」わけじゃない。彼らへの愛情が感じられてこそ、だ。カップリングは重要。長くコンビを組んできた人たちが別れることになるんだから、惜しむ場面を。
若手男役がぞろりと出て、一瞬だけでもきよみがセンターにいるとか、花組デカ男ズで最後の並びを披露するとか。
いくらでも、できることはあるだろうに。
たしかにオサ様の歌は素晴らしい。
彼ひとりが歌うことで、演出なんて無意味なほど魅せてくれる。
だがここはタカラヅカで、これはサヨナラショーだ。
彼が孤高のトップで組子たちから慕われていないというならともかく、愛され、惜しまれて去るのだという演出は、ショーを盛り上げることはあっても、損ないはしないだろう。たかちゃんもワタさんもコムちゃんも、組子と絡み、ひとつになってサヨナラショーを見せてくれた。
タカラヅカの素晴らしさは、大いなるアマチュア精神。舞台とそのバックボーンが相まっていること。
トップスターがどれほどすばらしい能力や技術を持っているかも大切だけれど、どれほど「夢の世界の住人」として、夢とか愛とか友情とか信頼とか、現実社会ではないがしろにされてしまうものたちに囲まれ、それを得て生きているか、「永遠の学園祭前夜」でいるかを見せつけ、フェアリーでいるかも大切なんだ。
オサ様の持ち歌としてはラストソングとなった『La Esperanza』も、当時の場面をまんま再現しちゃえばよかったのに。
組子たちの歌い継ぎ、肩をたたき合ったり目線を交わしたりしながら、壮大な合唱へ。……なのに現実には、ただの勢揃い正面向いて合唱するだけ。
オサ様がひとりでえんえん歌い、彼がいない場面はつなぎであること見え見えに他の複数人が歌うか、組子全員のコーラス。
オサ様はついに組子たちとは一切絡まなかった。彩音、まとぶとささやかに同じ舞台に立っただけ。
ただ「曲」を並べただけだ。
こんなの「演出」じゃない。
オサ・彩音・まとぶの「黒いワシ」から組子たちによる「新世界」への盛り上がりはよかったし、彼らの気合い、ダンスの揃い具合はすごかった。彼らも、オサ様を「送りたい」と誠心誠意思っているのだろうに、場を与えられなかった。
ディナーショーなら、それでもよかったんだろう。
スターが持ち歌を歌い、彼のお着替えタイムに数人のコーラス隊が1曲歌い、あとはまたスターがひとりでえんえん歌う。その繰り返し。
ディナーショーしかできないなら、大劇場に出てくるな。サヨナラショーの演出はするな。
頼みます。泣いて頼みます。
それでも、春野寿美礼はすばらしかった。
どんな駄作でも力業でねじ伏せる、トップとしての力に改めて敬服した。
だからこそ、これほどの人がこんなサヨナラショーで退団するのが惜しい。口惜しい。
わたしはピュアファンではないので、駄作にはどーしても引っかかってしまう。
「嫌なら観るな」ということでは片づかない。
観たい。酔いたい。見送りたい。
その思いを、演出家の無能さに踏みにじられるのがつらいんだ。
「サヨナラショー」なら、なんでもいいわけじゃない。ここでどんな演出をするかで、株が上がりもするし、暴落しもするんだよ。
座付き作家として、いや、クリエイターとして、誠意を持って仕事をして欲しい。
観客に「夢」を見せるのが仕事なのだから、きちんと働いて欲しい。
いろいろ書いたが、オサ様と花組に対してじゃない。また、演出に物申すことで、オサ様のせっかくのサヨナラショーに砂を掛けたいわけでもない。
わたしの思いがどうあれ、結果としてあるのは「サヨナラショーに文句を言っているイタイ人間」ということだけだろう。それでも、書かずにいられない。
よかったことも、悪かったことも。春野寿美礼の軌跡を、わたしの目を通したあの希有な人の姿を、わたしの言葉で書き記したい。オサ様たちが素晴らしかったことと、演出のひどさを混同したくない。
オサ様と彼のサヨナラショー自体は素晴らしかった。よい空間だった。あの時間を、空気を共有できて良かった。感謝している。
わたしがここでなにを言ったところで。
世界はナニも変わらない。
オサ様と花組のみんなが、しあわせでありますように。
見送るファンたちが、しあわせでありますように。
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