「初演の記憶と戦うところからはじまった」
と、中日『メランコリック・ジゴロ』初日に、ドリーさんが言っていた。台詞や歌、全部インプットされている作品を、再演として別キャストで観る上での、どうしようもない混乱。
他意があるわけではないのに、どうしても二重映しになる。比べてしまう。
「ソレからいちばん先に解き放たれたのが、壮くんスタン」
初演を観ていないわたしにも、意味はわかった。
あまりにも別物過ぎて、初演の記憶云々とは関係なくなってしまう爆弾演技。比べるもナニもないよねー、別キャラじゃんコレ。ははは。
はい。
そんなことを、思い出しました。
『ANNA KARENINA』Aチーム観劇にて。
カレーニン@ベニーにウケる。
カレーニンはかしちゃんの当たり役。かしちゃんのイメージ、思い出が大きすぎて、懐かしさだけで泣けて仕方なかった。
が。
それも最初のうちだけ。
だってさー。
ベニー演じるカレーニンさんたら、おもしろすぎて泣いてる場合じゃなくなっちゃったよ。かしちゃん偲んでる場合ぢゃないよ。
顔芸し過ぎ。
感情のひとつひとつが、ぜーーんぶ顔に出る。しかも、かなり大仰な「これでもかっ」という激しさで。
「くわっ」「がーん」「くくっ」「うっ」……全部、擬音で表現できるんです、このカレーニンさんの表情……。
えーと。
カレーニンさんって、こんな愉快なおじさんでしたっけ?
べつに初演のコピーをする必要はないので、ハイテンションおじさんでもぜんぜんかまいませんとも。
カレーニンさんの救いは、孤独な人なので、そうやって渾身の顔芸していても、誰も彼を見ていないことです。
会話している相手がよそを向いているときとか、ひとりぼっちの独白とかで顔芸しているので、舞台上ではクールな大人としてまかり通っているのだと思います。
しかし客席から全部観ている者からすれば、人と話しているときは抑え気味、視線がはずれるなり「がーーんっ」とか「どーーんっ」(『ワンピース』風書き文字)とかやられると、ツボ直撃です。目をくわっとむき出すことが多いんだけど、まさに『ワンピース』とかで目が飛び出て驚きを表す、あのデフォルメを見ている気分……。
ここまで別物にされてしまうと、かしちゃんの幻影に悩まされることもないっす。
おもしろい。おもしろいぞ紅ゆずる!! 演技がうまいのかどうか、すでに別次元キャラなのでわけわかんないが、やる気はわかった。その高い戦意に敬意を表する。
ただ不思議なのは、そのビジュアル。
お化粧変えた、ベニー?
ベニーといえば、なにより美形という思い込みがあるので、なんかちがっているような気がした。べつにヒゲのせいではなくて。
気合い入りすぎてるせいかなー?
これくらいテンション高く作っても、それほど浮かないのは、星組『ANNA KARENINA』が総じてハイテンションだからだ。
景子せんせの作品と、星組は合わないのかもしれないと思った(笑)。
熱血火の玉だからなー、星組。
全員前へ前へと飛び出してくるからなー。
白く透明に繊細な世界、とは、微妙に別物……。
初演はコム姫のクールさが場を支配していたので、ひたすら硬質で美しかったなー。
や、今回の星組が悪いと言っているわけではなくて。
空気感がまったくチガウなんて、舞台ってのはなんておもしろいんだろうな、と。
カレーニンがやりすぎているため、作品の軸がブレてしまっている、気はした。
わたしの目に見えている「カレーニン」という男は表情豊かで感情豊か、彼の心の中まで全部わかる。
しかし作品中の人々は、カレーニンの外側しか見えず、彼の感情は伝わっていないことになっている。
これは、「カレーニン」主役ならアリな表現なんだ。
カレーニンの一人称なら、観客は彼の「心の声」もナレーションとかで聞くことができる。カレーニン中心の世界だから、他人に見せている顔と真実の姿を同時に追うことができる。
でもコレ、カレーニン主役じゃないし。
アンナ@まりもとヴィロンスキー@ともみんもがカレーニン以上に「主役」として暴風を吹き荒らしてくれたらバランスが保てるんだけど、どうもそーゆーわけでもなくて。
ヴィロンスキーを頂点に、アンナ、カレーニンとで描くべき三角形が、アンナが頂点でカレーニン暴走、ヴィロンスキーがあおりを食って小さくなっている。
大変だなー。
若手くんたちは自分たちのことだけに精一杯で、舞台の空気や対人関係までは気が回らないようだ。
ひとりずつ、すげーがんばっているのだけれど、この役とこの役で作り上げる調和、とかはそもそも存在していない感じ。
まりもちゃんもともみんもうまいのに、ベニーのこの役作りだってべつにアリだと思うのに、それでもバランスはよくないし、作品の軸はブレている。
舞台上、すべての人たちが戦っている。
みんなみんな、前へ向いて「うおおおっ」と雄叫びを上げながら、「自分」と戦っている。
アツいなあ。
このアツさは『ANNA KARENINA』という作品とはぜんっぜん関係ないと思うんだけど、みんな大真面目に『ANNA KARENINA』をやりながら、高温を発している。
自分と戦うのはイイが、もう少し空気とかバランスとか調和とか……ああ、もーいいや。愛しいから、それでイイ。
ハイテンションでマンガみたいなカレーニン@ベニーが、存在しうる世界観。
景子せんせーの本来の脚本にはないだろうその暑苦しさが、魅力となる舞台があっても、いいじゃないか。
いいワークショップだなあ。しみじみ。
と、中日『メランコリック・ジゴロ』初日に、ドリーさんが言っていた。台詞や歌、全部インプットされている作品を、再演として別キャストで観る上での、どうしようもない混乱。
他意があるわけではないのに、どうしても二重映しになる。比べてしまう。
「ソレからいちばん先に解き放たれたのが、壮くんスタン」
初演を観ていないわたしにも、意味はわかった。
あまりにも別物過ぎて、初演の記憶云々とは関係なくなってしまう爆弾演技。比べるもナニもないよねー、別キャラじゃんコレ。ははは。
はい。
そんなことを、思い出しました。
『ANNA KARENINA』Aチーム観劇にて。
カレーニン@ベニーにウケる。
カレーニンはかしちゃんの当たり役。かしちゃんのイメージ、思い出が大きすぎて、懐かしさだけで泣けて仕方なかった。
が。
それも最初のうちだけ。
だってさー。
ベニー演じるカレーニンさんたら、おもしろすぎて泣いてる場合じゃなくなっちゃったよ。かしちゃん偲んでる場合ぢゃないよ。
顔芸し過ぎ。
感情のひとつひとつが、ぜーーんぶ顔に出る。しかも、かなり大仰な「これでもかっ」という激しさで。
「くわっ」「がーん」「くくっ」「うっ」……全部、擬音で表現できるんです、このカレーニンさんの表情……。
えーと。
カレーニンさんって、こんな愉快なおじさんでしたっけ?
べつに初演のコピーをする必要はないので、ハイテンションおじさんでもぜんぜんかまいませんとも。
カレーニンさんの救いは、孤独な人なので、そうやって渾身の顔芸していても、誰も彼を見ていないことです。
会話している相手がよそを向いているときとか、ひとりぼっちの独白とかで顔芸しているので、舞台上ではクールな大人としてまかり通っているのだと思います。
しかし客席から全部観ている者からすれば、人と話しているときは抑え気味、視線がはずれるなり「がーーんっ」とか「どーーんっ」(『ワンピース』風書き文字)とかやられると、ツボ直撃です。目をくわっとむき出すことが多いんだけど、まさに『ワンピース』とかで目が飛び出て驚きを表す、あのデフォルメを見ている気分……。
ここまで別物にされてしまうと、かしちゃんの幻影に悩まされることもないっす。
おもしろい。おもしろいぞ紅ゆずる!! 演技がうまいのかどうか、すでに別次元キャラなのでわけわかんないが、やる気はわかった。その高い戦意に敬意を表する。
ただ不思議なのは、そのビジュアル。
お化粧変えた、ベニー?
ベニーといえば、なにより美形という思い込みがあるので、なんかちがっているような気がした。べつにヒゲのせいではなくて。
気合い入りすぎてるせいかなー?
これくらいテンション高く作っても、それほど浮かないのは、星組『ANNA KARENINA』が総じてハイテンションだからだ。
景子せんせの作品と、星組は合わないのかもしれないと思った(笑)。
熱血火の玉だからなー、星組。
全員前へ前へと飛び出してくるからなー。
白く透明に繊細な世界、とは、微妙に別物……。
初演はコム姫のクールさが場を支配していたので、ひたすら硬質で美しかったなー。
や、今回の星組が悪いと言っているわけではなくて。
空気感がまったくチガウなんて、舞台ってのはなんておもしろいんだろうな、と。
カレーニンがやりすぎているため、作品の軸がブレてしまっている、気はした。
わたしの目に見えている「カレーニン」という男は表情豊かで感情豊か、彼の心の中まで全部わかる。
しかし作品中の人々は、カレーニンの外側しか見えず、彼の感情は伝わっていないことになっている。
これは、「カレーニン」主役ならアリな表現なんだ。
カレーニンの一人称なら、観客は彼の「心の声」もナレーションとかで聞くことができる。カレーニン中心の世界だから、他人に見せている顔と真実の姿を同時に追うことができる。
でもコレ、カレーニン主役じゃないし。
アンナ@まりもとヴィロンスキー@ともみんもがカレーニン以上に「主役」として暴風を吹き荒らしてくれたらバランスが保てるんだけど、どうもそーゆーわけでもなくて。
ヴィロンスキーを頂点に、アンナ、カレーニンとで描くべき三角形が、アンナが頂点でカレーニン暴走、ヴィロンスキーがあおりを食って小さくなっている。
大変だなー。
若手くんたちは自分たちのことだけに精一杯で、舞台の空気や対人関係までは気が回らないようだ。
ひとりずつ、すげーがんばっているのだけれど、この役とこの役で作り上げる調和、とかはそもそも存在していない感じ。
まりもちゃんもともみんもうまいのに、ベニーのこの役作りだってべつにアリだと思うのに、それでもバランスはよくないし、作品の軸はブレている。
舞台上、すべての人たちが戦っている。
みんなみんな、前へ向いて「うおおおっ」と雄叫びを上げながら、「自分」と戦っている。
アツいなあ。
このアツさは『ANNA KARENINA』という作品とはぜんっぜん関係ないと思うんだけど、みんな大真面目に『ANNA KARENINA』をやりながら、高温を発している。
自分と戦うのはイイが、もう少し空気とかバランスとか調和とか……ああ、もーいいや。愛しいから、それでイイ。
ハイテンションでマンガみたいなカレーニン@ベニーが、存在しうる世界観。
景子せんせーの本来の脚本にはないだろうその暑苦しさが、魅力となる舞台があっても、いいじゃないか。
いいワークショップだなあ。しみじみ。
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