いつか、宝物になる。@タカラヅカスペシャル2009
2009年12月19日 タカラヅカ 「音楽」は、ダイレクトに記憶に結びつく。
ウチの父がえんえんえんえん昭和歌謡番組ばかりを至上のモノとし、新しいモノをなにひとつ受け入れられないのも、わかるさ。
青春時代に聴いた曲は、その曲自体の力もさることながら、自分自身の記憶とシンクロしていることによって、永遠の名曲なんだ。自分自身の失われた過去に勝る音楽なんてナイんだ……。
老境ど真ん中の父と違い、まだわたしは新しい音楽と現在の自分も愛しくメモリーしたいと思っているので、過去の音楽だけで思考をストップさせる気はありませんが。
それでも、音楽を聴くことによって、当時の記憶が甦る。その過ぎた日々への愛しさを、止めることが出来ない。
『タカラヅカスペシャル2009~WAY TO GLORY~』初日初回観劇。
1幕はヅカスペ恒例?の、公演パロディだったので、大笑いして盛り上がって終了したわけだけど。
2幕はなんかもー、部分的に、ゆみこちゃんサヨナラショーみたいだった。
ゆみこに新公の主題歌歌わせちゃったりすることもそうだし、95周年つーことで、名曲を振り返ったりして、なつめさん追悼コーナーみたいになっていることもそうだし。
「音楽」が、記憶に結びついているんだな。
その曲を聴くことで、その曲に出会った時代の自分にスイッチが入る。
愛しく、切ない感覚。
わたしは、『ルートヴィヒII世』の主題歌を歌うゆみこちゃんを見ながら、この曲でスイッチが入るだろうゆみこファンのことを思い、そしてさらに、2年前の『TCAスペシャル』のことを思い出していた。
2年前の、TCA。
オサ様の退団公演の、直前に行われたイベントだったんだ。
たとえどんな公演だろうと、オサ様を少しでも多く見たくて駆けつけたけれど……まるで、オサ様サヨナラショーみたいだった。
歌うオサ様に組子たちがひとりずつ絡んでみたり、オサ様が自由に「音」で遊んでみたり、オサアサのゆるいトークコーナーがあったり、同期歌ウマ同士トウコとオサで歌対決があったり。
本公演のサヨナラショーより、よっぽどサヨナラショーらしかった(笑)。
わたしは勝手にスイッチ入りまくりで、号泣しまくりだった。
「アリベテルチ・ローマ」でやばいくらい泣いたなあ。別れの「記憶」に直結してるんだよなあ。
そんな自分の記憶と二重映しに、今目の前の舞台を眺めた。
「すみれのボレロ」で、三角形の中心として階段を降りてくる「男役・彩吹真央」の姿にも、そのゆみこちゃんの美しい姿の切なさと同時に、過去のTCAで号泣している記憶を思い出して、うろたえた。
ああ、まだこれは、「痛み」なんだ。
ケロの卒業公演だった『ドルチェ・ヴィータ!』はもう、わたしのなかでこれ以上なくしあわせな記憶になっている。
しあわせ過ぎて泣ける、今思い出すだけで、世界中への感謝の気持ちでいっぱいになる。
ご贔屓退団で切なくて苦しくて、当時は息も絶え絶えだったと思うが、それでも幸福感と人々への感謝があった。タカラヅカってすごいところだ、ご贔屓を見送る、となると、あんなにたくさんの厚意が、無償の親切が与えられるんだ。友だちからも、見知らぬ人々からもものすごく助けられ、優しくされ、支えられた。
あれから5年、つらかったことは昇華され、ただあたたかい、うつくしい感覚だけが、残っている。
だけど2年前、「これってオサ様サヨナラショー?!」と号泣していたときのわたしはまだ、大好きな人を失う痛みで、それ以上はナニもなかった。
素晴らしい演出をありがとう、と思う気持ちとは別に、取り乱してしまって、平静ではいられない。
すみれのボレロを踊るゆみこちゃんを見て、この構成をしたスタッフが、そして劇場に詰めかけたファン……ゆみこファンだけではなく、「タカラヅカ」ファンが、どれだけの愛情を込めてゆみこちゃんを見つめているかがわかる。ちりちりと肌に伝わるあの、空気。
黒燕尾の男役たちで踊るすみれのボレロが、「タカラヅカ」にてどういう意味があるか。それを95周年の記念公演で、クライマックスに披露する、そのセンターを務めること、任せることの、意味。
通常ならトップスターが、あるいは理事であるトド様が、出てきてセンターを張るだろう場面を、最初から最後までゆみこセンターで貫く。
ここが「タカラヅカ」であるからこその、愛と美の詰まった演出。
いつかきっと、この記憶は、宝物のひとつになる。
今はまだ、「痛み」だ。
美しい、愛がある、うれしい、すごい……よくぞ今ここでこの演出でこの人たちを見せてくれた!と感動する気持ちとは別に、「痛み」がある。
悲しい、切ない。
でもいつかきっと、かなしみを超えて、幸福感だけで涙する場面を、わたしは今、見ているんだ。
「音楽」は、記憶に結びつく。
哀しみは涙で洗われ、時で流され、愛だけが残る。
……なんてことを、いろいろいろいろ考えてしまったのは、わたしもたしかにゆみこちゃんが好きで、そして一ヅカファンとして2番手退団という現実にショックを受けているものの、本物のゆみこファンではないためだろう。
加えて、素直に舞台の上だけに集中する以前に、これを今同じ劇場で見ているゆみこファンの友人がどう思っているのか、大丈夫なのか、心配になって浮き足立ったせいもある。
自分のことだったら、もうただただ取り乱して号泣して貧血起こして大騒ぎしているのだと思う。や、過去の経験からして。(友人諸姉にはほんとーに迷惑掛けっぱなしでした、はい)
いろんなこと考えて、キモチがめちゃくちゃで、混乱しつつ、でも、今、見なければいけない、と、必死になって見た。
舞台を。
黒燕尾の彩吹真央を。その隣のらんとむとテルという、ゆみこちゃんと縁の深いふたりのスターを。黒燕尾の男たちを。
ただもお、目に焼き付けろと。心に、焼き付けておけと。
今は痛かったり複雑だったりつらかったりいろいろだけど、とにかく見て、刻んでおけば、いつか、愛しさだけで思い出せるから。
それが「タカラヅカ」だから。
人事その他もろもろに納得できないことがあったとしても、舞台上にいるタカラジェンヌには関係ない。
彼らが作り上げる舞台は、その美しさは、そんなモノを超えていくから。
彼らは、それだけのモノを創り上げているんだ。わたしは、彼らを信じている。卑小な自分の善良さなんぞ信じられないが、ジェンヌの「夢を作る力」を信じているんだ。
だから、いつかこの記憶を、好きな人の美しい姿を、宝物にするために。
今は、刻みつけろと。
ゆみこちゃんも水しぇんも、みんなみんな、きれいに笑っていた。
その笑顔を、刻みつけるんだ。
ウチの父がえんえんえんえん昭和歌謡番組ばかりを至上のモノとし、新しいモノをなにひとつ受け入れられないのも、わかるさ。
青春時代に聴いた曲は、その曲自体の力もさることながら、自分自身の記憶とシンクロしていることによって、永遠の名曲なんだ。自分自身の失われた過去に勝る音楽なんてナイんだ……。
老境ど真ん中の父と違い、まだわたしは新しい音楽と現在の自分も愛しくメモリーしたいと思っているので、過去の音楽だけで思考をストップさせる気はありませんが。
それでも、音楽を聴くことによって、当時の記憶が甦る。その過ぎた日々への愛しさを、止めることが出来ない。
『タカラヅカスペシャル2009~WAY TO GLORY~』初日初回観劇。
1幕はヅカスペ恒例?の、公演パロディだったので、大笑いして盛り上がって終了したわけだけど。
2幕はなんかもー、部分的に、ゆみこちゃんサヨナラショーみたいだった。
ゆみこに新公の主題歌歌わせちゃったりすることもそうだし、95周年つーことで、名曲を振り返ったりして、なつめさん追悼コーナーみたいになっていることもそうだし。
「音楽」が、記憶に結びついているんだな。
その曲を聴くことで、その曲に出会った時代の自分にスイッチが入る。
愛しく、切ない感覚。
わたしは、『ルートヴィヒII世』の主題歌を歌うゆみこちゃんを見ながら、この曲でスイッチが入るだろうゆみこファンのことを思い、そしてさらに、2年前の『TCAスペシャル』のことを思い出していた。
2年前の、TCA。
オサ様の退団公演の、直前に行われたイベントだったんだ。
たとえどんな公演だろうと、オサ様を少しでも多く見たくて駆けつけたけれど……まるで、オサ様サヨナラショーみたいだった。
歌うオサ様に組子たちがひとりずつ絡んでみたり、オサ様が自由に「音」で遊んでみたり、オサアサのゆるいトークコーナーがあったり、同期歌ウマ同士トウコとオサで歌対決があったり。
本公演のサヨナラショーより、よっぽどサヨナラショーらしかった(笑)。
わたしは勝手にスイッチ入りまくりで、号泣しまくりだった。
「アリベテルチ・ローマ」でやばいくらい泣いたなあ。別れの「記憶」に直結してるんだよなあ。
そんな自分の記憶と二重映しに、今目の前の舞台を眺めた。
「すみれのボレロ」で、三角形の中心として階段を降りてくる「男役・彩吹真央」の姿にも、そのゆみこちゃんの美しい姿の切なさと同時に、過去のTCAで号泣している記憶を思い出して、うろたえた。
ああ、まだこれは、「痛み」なんだ。
ケロの卒業公演だった『ドルチェ・ヴィータ!』はもう、わたしのなかでこれ以上なくしあわせな記憶になっている。
しあわせ過ぎて泣ける、今思い出すだけで、世界中への感謝の気持ちでいっぱいになる。
ご贔屓退団で切なくて苦しくて、当時は息も絶え絶えだったと思うが、それでも幸福感と人々への感謝があった。タカラヅカってすごいところだ、ご贔屓を見送る、となると、あんなにたくさんの厚意が、無償の親切が与えられるんだ。友だちからも、見知らぬ人々からもものすごく助けられ、優しくされ、支えられた。
あれから5年、つらかったことは昇華され、ただあたたかい、うつくしい感覚だけが、残っている。
だけど2年前、「これってオサ様サヨナラショー?!」と号泣していたときのわたしはまだ、大好きな人を失う痛みで、それ以上はナニもなかった。
素晴らしい演出をありがとう、と思う気持ちとは別に、取り乱してしまって、平静ではいられない。
すみれのボレロを踊るゆみこちゃんを見て、この構成をしたスタッフが、そして劇場に詰めかけたファン……ゆみこファンだけではなく、「タカラヅカ」ファンが、どれだけの愛情を込めてゆみこちゃんを見つめているかがわかる。ちりちりと肌に伝わるあの、空気。
黒燕尾の男役たちで踊るすみれのボレロが、「タカラヅカ」にてどういう意味があるか。それを95周年の記念公演で、クライマックスに披露する、そのセンターを務めること、任せることの、意味。
通常ならトップスターが、あるいは理事であるトド様が、出てきてセンターを張るだろう場面を、最初から最後までゆみこセンターで貫く。
ここが「タカラヅカ」であるからこその、愛と美の詰まった演出。
いつかきっと、この記憶は、宝物のひとつになる。
今はまだ、「痛み」だ。
美しい、愛がある、うれしい、すごい……よくぞ今ここでこの演出でこの人たちを見せてくれた!と感動する気持ちとは別に、「痛み」がある。
悲しい、切ない。
でもいつかきっと、かなしみを超えて、幸福感だけで涙する場面を、わたしは今、見ているんだ。
「音楽」は、記憶に結びつく。
哀しみは涙で洗われ、時で流され、愛だけが残る。
……なんてことを、いろいろいろいろ考えてしまったのは、わたしもたしかにゆみこちゃんが好きで、そして一ヅカファンとして2番手退団という現実にショックを受けているものの、本物のゆみこファンではないためだろう。
加えて、素直に舞台の上だけに集中する以前に、これを今同じ劇場で見ているゆみこファンの友人がどう思っているのか、大丈夫なのか、心配になって浮き足立ったせいもある。
自分のことだったら、もうただただ取り乱して号泣して貧血起こして大騒ぎしているのだと思う。や、過去の経験からして。(友人諸姉にはほんとーに迷惑掛けっぱなしでした、はい)
いろんなこと考えて、キモチがめちゃくちゃで、混乱しつつ、でも、今、見なければいけない、と、必死になって見た。
舞台を。
黒燕尾の彩吹真央を。その隣のらんとむとテルという、ゆみこちゃんと縁の深いふたりのスターを。黒燕尾の男たちを。
ただもお、目に焼き付けろと。心に、焼き付けておけと。
今は痛かったり複雑だったりつらかったりいろいろだけど、とにかく見て、刻んでおけば、いつか、愛しさだけで思い出せるから。
それが「タカラヅカ」だから。
人事その他もろもろに納得できないことがあったとしても、舞台上にいるタカラジェンヌには関係ない。
彼らが作り上げる舞台は、その美しさは、そんなモノを超えていくから。
彼らは、それだけのモノを創り上げているんだ。わたしは、彼らを信じている。卑小な自分の善良さなんぞ信じられないが、ジェンヌの「夢を作る力」を信じているんだ。
だから、いつかこの記憶を、好きな人の美しい姿を、宝物にするために。
今は、刻みつけろと。
ゆみこちゃんも水しぇんも、みんなみんな、きれいに笑っていた。
その笑顔を、刻みつけるんだ。
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