「タカラヅカ」のミューズであれ。-壮一帆万歳-@復活
2012年1月28日 タカラヅカ 壮一帆という舞台人の不思議。
彼がキムシンのミューズ(笑)なのは、過去作品から見当が付く。
キムシン作品においてのえりたんてば、とんでもなく魅力的である。
実力がかなり足りていなかった雪組時代の『スサノオ』ですら、えりたんの役付きはやたら良かった。彼より番手が上のガイチに女役をさせることで、えりたんを男役3番手にしたもんなあ。
以来、『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』『オグリ!』『虞美人』と、ザ・えりたん!な役や作品を演じ続けている。
キムシンとえりたんの相性の良さは周知のことと思う。
でも、キムシンだけに留まらないんだなあ。
イシダもか。
『復活 -恋が終わり、愛が残った-』における、シェンボック@えりたんの力ときたら。
この重いテーマを持った『復活』という作品において、シェンボックが担うものは、救いだ。
軽薄な遊び人として描かれる彼は、深刻で周囲が見えなくなるネフリュードフ@らんとむの横でただ「自由に」在る。
本筋の横にいるだけのキャラクタで、彼自身がナニか事件を起こしたり引っ張ったりするわけではない。
ぶっちゃけ、本筋だけで言うなら、彼は「いなくてもいい」。
だが、シェンボックは「作品」に不可欠な存在だ。
原作がどうなのか無教養ゆえ知らないのだが、イシダせんせ作の宝塚歌劇『復活』において、シェンボックの意味は重い。
ネフリュードフだけでは、本筋が成り立ったとしても、誰も付いてこない。彼の行動は他人の共感を得にくい。少なくとも、「タカラヅカ」では求められていないキャラクタなので、観客の支持を得にくいだろう。
横で明るく茶々入れをするシェンボックが在ってはじめて、「タカラヅカ」の範疇に収まっているわけだ。
優秀なネフリュードフとは違い、シェンボックは成績も悪く、事業にも失敗して借金まみれ、自由恋愛主義という看板の、女にだらしない最低男。およそ「いいところ」がなにひとつない。
だけど、真に聡明なのはシェンボックの方だ。
学校の成績がいいのはネフリュードフ、人生の成績がいいのがシェンボック。
現に、ネフリュードフは簡単に破滅したり絶望したり人を傷つけたりするけれど、シェンボックはそんな事態には陥らずに生きるだろう。
あくまでも、ネフリュードフという暗い色があってのシェンボックという光。
そういう描き方をした物語だけど、シェンボックの光が、半端ナイ。
物語を「タカラヅカ」にし、光を射し、道なき荒野にひょうひょうと道を作る。
それを「本筋の横」でやってのける。
本筋を損なうことなく。
すげえキャラだな、シェンボック。
そして、そんな荒技を可能にしてしまう、壮一帆という舞台人。
壮くんがものすげー演技巧者で緻密な芝居をしている、という印象は、ごめん、わたしにはない。
雪組時代なんか、見事な大根ぶりで重厚な雪組芝居で浮きまくっていた。根本的に、芝居センスがないのかと疑ったことすらあった。(ex.『DAYTIME HUSTLER』)
センスの問題じゃ、ないんだよなあ。舞台人って。
その舞台に、役に、はまるかどうかなんだ。
『タランテラ!』にて、今までさんざん舞台クラッシャーをしてきた、その浮きっぷりを逆手に取った役割を演じた。
絶望に満ちた美しい世界に、壮くんがそれまでの空気なんかなんの理解もせず、ぶち壊してテカ~!とかピカ~!と現れた……その、すばらしさ。
その輝きを持ったまま花組にやって来て。
それ以来、壮くんは魅力を開花しまくっている。
いつも同じ役、と言ってしまえばそれまでだが、それはえりたんにしかできない役だ。
新公で同じ役を演じた子たちが、まったく別モノになるように、えりたんは「属性えりたん」で「輝き」や「救い」を舞台に添える。
演技が出来る人なら、いくらでもいる。小器用に脚本に書いてある通りの台詞を言い、演出家の指示通りに動いたり表情を作ったりするだけの人なら。
だけど、「属性えりたん」は、えりたんだけだ。
この「輝き」があるのは、舞台人・壮一帆の才能だろう。
そしてクリエイターは、彼のその「輝き」を愛でる。欲する。
ここが「タカラヅカ」であり、絶望とか深刻とかだけを重宝する舞台ではナイ。ハッピーエンド至上主義の世界観。悲劇で終わっても、死んだ主人公とヒロインが起き上がって天国でデュエットダンスするよーな世界観の舞台だ。
えりたんは、その世界観に必要不可欠なキャラクタだ。
ぶっちゃけ、えりたんがいれば、通常の「タカラヅカ」では描けないものを描けるんだよ?
どんだけ本筋やテーマが「タカラヅカ」らしくなくても、えりたんを放り込めば、ちゃんと「タカラヅカ」として仕上がる(笑)。
そりゃ重宝するわー。
『復活』はよく出来た話で、「どーしたんだイシダ?!」的な、良い舞台だ。
だけど、話の内容的にタカラヅカでやるべきじゃないよね? やってもいいけど難しいっていうか、リスクが大きいよね?
トルストイで愛か償いかなんてテーマで、ヒロインがガチ娼婦なんて題材、ふつーは大劇場では描けない。
それをやるためには、タカラヅカ的な仕掛けが必要で、それにはえりたんが、必要だった。
えりたんが、えりたんならではの輝きでもって、テカ~!とかピカ~!とか、発光しているのを見ると、ほんと愛されてるなと思う。
クリエイターに。
芝居が出来る、だけの代わりならいくらでもいるけど、えりたんの代わりはいない。
壮くんにしかできない役割。
キムシンに引き続き、イシダもか。
えりたんをミューズとして作品作っちゃうの。
『相棒』のえりたん、良かったもんなー。彼の特性を活かして、作品を新たに書きたくなるよなああ。
えりたんの「救い」の輝きが、まぶしくて。
この人はほんとに、タカラヅカに在るべき人だよなあ。
なにかのインタビュー記事で読んだ。
「生まれ変わったらナニになりたいか」という質問に、「自分自身」と答えた、そんなえりたんを、泣きたいくらいステキだと思う。
彼が持つ「自己肯定」が、劣等感だらけのわたしを救うんだ。
技術とか努力とか、せせこましい部分ではなく、持って生まれた才能、「私が、私である」というだけの力で輝く人。
『復活』のえりたんも、ほんとにいいえりたんだ。
これだけでも、観劇する意味がある。
彼がキムシンのミューズ(笑)なのは、過去作品から見当が付く。
キムシン作品においてのえりたんてば、とんでもなく魅力的である。
実力がかなり足りていなかった雪組時代の『スサノオ』ですら、えりたんの役付きはやたら良かった。彼より番手が上のガイチに女役をさせることで、えりたんを男役3番手にしたもんなあ。
以来、『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』『オグリ!』『虞美人』と、ザ・えりたん!な役や作品を演じ続けている。
キムシンとえりたんの相性の良さは周知のことと思う。
でも、キムシンだけに留まらないんだなあ。
イシダもか。
『復活 -恋が終わり、愛が残った-』における、シェンボック@えりたんの力ときたら。
この重いテーマを持った『復活』という作品において、シェンボックが担うものは、救いだ。
軽薄な遊び人として描かれる彼は、深刻で周囲が見えなくなるネフリュードフ@らんとむの横でただ「自由に」在る。
本筋の横にいるだけのキャラクタで、彼自身がナニか事件を起こしたり引っ張ったりするわけではない。
ぶっちゃけ、本筋だけで言うなら、彼は「いなくてもいい」。
だが、シェンボックは「作品」に不可欠な存在だ。
原作がどうなのか無教養ゆえ知らないのだが、イシダせんせ作の宝塚歌劇『復活』において、シェンボックの意味は重い。
ネフリュードフだけでは、本筋が成り立ったとしても、誰も付いてこない。彼の行動は他人の共感を得にくい。少なくとも、「タカラヅカ」では求められていないキャラクタなので、観客の支持を得にくいだろう。
横で明るく茶々入れをするシェンボックが在ってはじめて、「タカラヅカ」の範疇に収まっているわけだ。
優秀なネフリュードフとは違い、シェンボックは成績も悪く、事業にも失敗して借金まみれ、自由恋愛主義という看板の、女にだらしない最低男。およそ「いいところ」がなにひとつない。
だけど、真に聡明なのはシェンボックの方だ。
学校の成績がいいのはネフリュードフ、人生の成績がいいのがシェンボック。
現に、ネフリュードフは簡単に破滅したり絶望したり人を傷つけたりするけれど、シェンボックはそんな事態には陥らずに生きるだろう。
あくまでも、ネフリュードフという暗い色があってのシェンボックという光。
そういう描き方をした物語だけど、シェンボックの光が、半端ナイ。
物語を「タカラヅカ」にし、光を射し、道なき荒野にひょうひょうと道を作る。
それを「本筋の横」でやってのける。
本筋を損なうことなく。
すげえキャラだな、シェンボック。
そして、そんな荒技を可能にしてしまう、壮一帆という舞台人。
壮くんがものすげー演技巧者で緻密な芝居をしている、という印象は、ごめん、わたしにはない。
雪組時代なんか、見事な大根ぶりで重厚な雪組芝居で浮きまくっていた。根本的に、芝居センスがないのかと疑ったことすらあった。(ex.『DAYTIME HUSTLER』)
センスの問題じゃ、ないんだよなあ。舞台人って。
その舞台に、役に、はまるかどうかなんだ。
『タランテラ!』にて、今までさんざん舞台クラッシャーをしてきた、その浮きっぷりを逆手に取った役割を演じた。
絶望に満ちた美しい世界に、壮くんがそれまでの空気なんかなんの理解もせず、ぶち壊してテカ~!とかピカ~!と現れた……その、すばらしさ。
その輝きを持ったまま花組にやって来て。
それ以来、壮くんは魅力を開花しまくっている。
いつも同じ役、と言ってしまえばそれまでだが、それはえりたんにしかできない役だ。
新公で同じ役を演じた子たちが、まったく別モノになるように、えりたんは「属性えりたん」で「輝き」や「救い」を舞台に添える。
演技が出来る人なら、いくらでもいる。小器用に脚本に書いてある通りの台詞を言い、演出家の指示通りに動いたり表情を作ったりするだけの人なら。
だけど、「属性えりたん」は、えりたんだけだ。
この「輝き」があるのは、舞台人・壮一帆の才能だろう。
そしてクリエイターは、彼のその「輝き」を愛でる。欲する。
ここが「タカラヅカ」であり、絶望とか深刻とかだけを重宝する舞台ではナイ。ハッピーエンド至上主義の世界観。悲劇で終わっても、死んだ主人公とヒロインが起き上がって天国でデュエットダンスするよーな世界観の舞台だ。
えりたんは、その世界観に必要不可欠なキャラクタだ。
ぶっちゃけ、えりたんがいれば、通常の「タカラヅカ」では描けないものを描けるんだよ?
どんだけ本筋やテーマが「タカラヅカ」らしくなくても、えりたんを放り込めば、ちゃんと「タカラヅカ」として仕上がる(笑)。
そりゃ重宝するわー。
『復活』はよく出来た話で、「どーしたんだイシダ?!」的な、良い舞台だ。
だけど、話の内容的にタカラヅカでやるべきじゃないよね? やってもいいけど難しいっていうか、リスクが大きいよね?
トルストイで愛か償いかなんてテーマで、ヒロインがガチ娼婦なんて題材、ふつーは大劇場では描けない。
それをやるためには、タカラヅカ的な仕掛けが必要で、それにはえりたんが、必要だった。
えりたんが、えりたんならではの輝きでもって、テカ~!とかピカ~!とか、発光しているのを見ると、ほんと愛されてるなと思う。
クリエイターに。
芝居が出来る、だけの代わりならいくらでもいるけど、えりたんの代わりはいない。
壮くんにしかできない役割。
キムシンに引き続き、イシダもか。
えりたんをミューズとして作品作っちゃうの。
『相棒』のえりたん、良かったもんなー。彼の特性を活かして、作品を新たに書きたくなるよなああ。
えりたんの「救い」の輝きが、まぶしくて。
この人はほんとに、タカラヅカに在るべき人だよなあ。
なにかのインタビュー記事で読んだ。
「生まれ変わったらナニになりたいか」という質問に、「自分自身」と答えた、そんなえりたんを、泣きたいくらいステキだと思う。
彼が持つ「自己肯定」が、劣等感だらけのわたしを救うんだ。
技術とか努力とか、せせこましい部分ではなく、持って生まれた才能、「私が、私である」というだけの力で輝く人。
『復活』のえりたんも、ほんとにいいえりたんだ。
これだけでも、観劇する意味がある。
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