「巴里の侍」否定物語・その2。@Samourai
2012年3月1日 タカラヅカ 『Samourai』の構成の散漫さについて、とーっても個人的にぶつぶつ言う話(笑)、その2。
作品冒頭の前田光子の話はまるっと全部いらん。
息子の嫁、って、物語の主人公・正名@キムにはなんの関係もナイ人じゃん。
ただ「光子はタカラジェンヌだった」っていうトリビアを谷せんせが喜んでいるだけ。
『Samourai』という物語には不要どころか、害悪。
1幕で長々と続く正名の少年剣士時代だって、有名人・坂本竜馬を出したいってだけだよね?
竜馬@ヲヅキとの出会いにリスペクトされたって設定もいいけれど、別にあんだけ尺をさいてやることじゃない。
パリで思い出話をする程度で十分。
不必要に長いのは、単に「あ、あの有名人にオレ、会ったことある!」だよね?
主人公が竜馬なら、あるいはその後も竜馬が活躍するなら、あれくらい描写してもいいけど、本筋と関係ないんだから、描く必要はない。
パリ時代が本筋であるはずなのに、あちこちよそ見をして、「あっちもおいしそう」「こっちもおいしそう」とつまみ食いをしたあげく、半端におなかがいっぱいになって、メインディッシュは食べられませんでした、いきなりデザートのデュエットダンスです、という、頭の悪い構成をなんとかしてくれ。
正名が言い出す作戦の行き当たりばったりさとか、『ベルばら』もどきの演出とか、もちろんマリーの扱いのひどさとか、渡会@ちぎと大して友情も見えないその描き方はなんなのとか、細かいところに文句はいろいろいろいろ(笑)ありますが、まずこのいちばん大きな過ちが、見過ごせなかった。
谷せんせってほんと、物語作るのヘタだよね……。
時間配分もヘタだし。
何十年第一線で創作してきて、なんで上達しないんだろう。……いや、ひょっとして劣化しただけなのか。最盛期とやらがいつか知らないけども。
谷せんせに感じる苦手感は、植爺にも通じていることだし、歴史の長いタカラヅカが持つ宿命「時代感」なのかなとも思う。
物語に対する考え方の違い、スタンスの違い。
「いい役」というのは、物語に重要な役だとか複雑だったり難しかったりするやりがいのある役ではなく、「豪華な衣装を着て、何行もある台詞を喋る役」だという考え方。
だから、ストーリーにも役の身分にも関係なく、主役や特別出演の専科さんは豪華な衣装を着て、一言で終わることを何行もだらだら喋る。同じことを何度も何度も喋る。
昔のタカラヅカは、そーゆー考え方に固執していたんだろう。
谷せんせの責任ではなく、彼の生きた時代ゆえかなと。
でもわたしは、そーゆーのに違和感をおぼえる。衣装は役柄に相応しいモノの方がいいと思う。たとえ平民の衣装でも、タカラヅカである以上本当の意味でみすぼらしいモノにはならないはずだし。
台詞に関しては、嫌悪を感じる。無意味な同じこと繰り返し台詞は大嫌い。それだけで観るのやめたくなる(笑)。
びんぼーで見下されているはずの市民兵の正名が、特別に上等な軍服に身を包んでいる違和感。
正名と渡会だけ軍服がチガウのはおかしいだろ。日本人だけ上等な軍服なんて。上等でなくても、一パリ市民として戦う、が意義である以上、特別扱いであれ差別であれ、ここでふたりだけ区別されているのは作品テーマの否定だよね?
それとも史実や原作の縛りがあって、「正名に特別な軍服を着せるしかなかったんだ、原作者や関係者からの圧力で!」と泣く泣く「一市民として戦う」というテーマに関わる部分を踏みにじったの?
良くも悪くも「タカラヅカ」という特殊な世界でのみ通用する演出家なんだなあ。
構成力のなさ、起承転結を論理的に組み立てることの出来なさは、致命的欠点だと思うけど。
でも谷せんせには、一場面を派手に感動的に盛り上げる力はある。とても、タカラヅカ的に。
だから、古いヅカファンのわたしは、彼のそこの部分だけに持ち上げられ、気分良く観劇できたりする、わけだ。
部分部分を盛り上げ、でも全体的にはダメダメという、いつも谷せんせです。
盛り上がり部分が「男役かっけー!」「タカラヅカってかっけー!」なので、正月早々「タカラヅカ」を観た!という気分にさせてくれる、作品ではある。
作品冒頭の前田光子の話はまるっと全部いらん。
息子の嫁、って、物語の主人公・正名@キムにはなんの関係もナイ人じゃん。
ただ「光子はタカラジェンヌだった」っていうトリビアを谷せんせが喜んでいるだけ。
『Samourai』という物語には不要どころか、害悪。
1幕で長々と続く正名の少年剣士時代だって、有名人・坂本竜馬を出したいってだけだよね?
竜馬@ヲヅキとの出会いにリスペクトされたって設定もいいけれど、別にあんだけ尺をさいてやることじゃない。
パリで思い出話をする程度で十分。
不必要に長いのは、単に「あ、あの有名人にオレ、会ったことある!」だよね?
主人公が竜馬なら、あるいはその後も竜馬が活躍するなら、あれくらい描写してもいいけど、本筋と関係ないんだから、描く必要はない。
パリ時代が本筋であるはずなのに、あちこちよそ見をして、「あっちもおいしそう」「こっちもおいしそう」とつまみ食いをしたあげく、半端におなかがいっぱいになって、メインディッシュは食べられませんでした、いきなりデザートのデュエットダンスです、という、頭の悪い構成をなんとかしてくれ。
正名が言い出す作戦の行き当たりばったりさとか、『ベルばら』もどきの演出とか、もちろんマリーの扱いのひどさとか、渡会@ちぎと大して友情も見えないその描き方はなんなのとか、細かいところに文句はいろいろいろいろ(笑)ありますが、まずこのいちばん大きな過ちが、見過ごせなかった。
谷せんせってほんと、物語作るのヘタだよね……。
時間配分もヘタだし。
何十年第一線で創作してきて、なんで上達しないんだろう。……いや、ひょっとして劣化しただけなのか。最盛期とやらがいつか知らないけども。
谷せんせに感じる苦手感は、植爺にも通じていることだし、歴史の長いタカラヅカが持つ宿命「時代感」なのかなとも思う。
物語に対する考え方の違い、スタンスの違い。
「いい役」というのは、物語に重要な役だとか複雑だったり難しかったりするやりがいのある役ではなく、「豪華な衣装を着て、何行もある台詞を喋る役」だという考え方。
だから、ストーリーにも役の身分にも関係なく、主役や特別出演の専科さんは豪華な衣装を着て、一言で終わることを何行もだらだら喋る。同じことを何度も何度も喋る。
昔のタカラヅカは、そーゆー考え方に固執していたんだろう。
谷せんせの責任ではなく、彼の生きた時代ゆえかなと。
でもわたしは、そーゆーのに違和感をおぼえる。衣装は役柄に相応しいモノの方がいいと思う。たとえ平民の衣装でも、タカラヅカである以上本当の意味でみすぼらしいモノにはならないはずだし。
台詞に関しては、嫌悪を感じる。無意味な同じこと繰り返し台詞は大嫌い。それだけで観るのやめたくなる(笑)。
びんぼーで見下されているはずの市民兵の正名が、特別に上等な軍服に身を包んでいる違和感。
正名と渡会だけ軍服がチガウのはおかしいだろ。日本人だけ上等な軍服なんて。上等でなくても、一パリ市民として戦う、が意義である以上、特別扱いであれ差別であれ、ここでふたりだけ区別されているのは作品テーマの否定だよね?
それとも史実や原作の縛りがあって、「正名に特別な軍服を着せるしかなかったんだ、原作者や関係者からの圧力で!」と泣く泣く「一市民として戦う」というテーマに関わる部分を踏みにじったの?
良くも悪くも「タカラヅカ」という特殊な世界でのみ通用する演出家なんだなあ。
構成力のなさ、起承転結を論理的に組み立てることの出来なさは、致命的欠点だと思うけど。
でも谷せんせには、一場面を派手に感動的に盛り上げる力はある。とても、タカラヅカ的に。
だから、古いヅカファンのわたしは、彼のそこの部分だけに持ち上げられ、気分良く観劇できたりする、わけだ。
部分部分を盛り上げ、でも全体的にはダメダメという、いつも谷せんせです。
盛り上がり部分が「男役かっけー!」「タカラヅカってかっけー!」なので、正月早々「タカラヅカ」を観た!という気分にさせてくれる、作品ではある。
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