心中モノって、大変だな。と、しみじみ思った、『近松・恋の道行』初日観劇。

 10年前の5月3日も、景子たんのバウホール公演を観に行ってたんだねえ、わたし。
 あれから10年、『エイジ・オブ・イノセンス』に比べ、景子せんせはほんっとーにうまくなったなああ。

 わたしが無教養なのは今にはじまったことぢゃないんだが、ほんっとに勉強してなかったんだなあ、学生時代……と、自分のダメさに肩を落とした。
 すっかり忘れてたけど、近世文学が専門だったはずだよな……いやその、ゼミは西鶴だったんですけどね……「近松と西鶴」ってとてもポピュラーなテーマで、たしか、読んだり調べたりした、はずだよなあ……なのに何故こうまでなんの身にもなっていないのか……。

 お勉強として心中モノを調べたり読んだりしているときは、感じなかった。
 でも、こうやって「物語」として、「ミュージカル」として味わうと……そうか、心中モノって、こんなに大変なのか。

 心中モノって、「美しい」とか「ロマン」とか、そーゆーイメージがある。日本人として、ときめく素材というか。
 タカラヅカでも、悲劇は大人気じゃん。オスカルとアンドレは死ぬから美しいし、マリーとルドルフだって心中するからロマンなんですよ。アイーダとラダメスだって、ふたりが手に手を取ってうふふあはは他国でしあわせになったら、名作になんてならないですよ。

 しかし、日本のいわゆる「心中モノ」って……現代の感覚では、相当料理しにくい。

 なんつっても、主人公が、かっこわるい。
 コレに尽きる。

 江戸時代の心中モノだと、どうしても男主人公はかっこよくならない。
 心中するくらい追い詰められなくてはならないんだけど、それが「どうしようもない運命」というより、「本人の無能さ」が原因だから。
 騙されて、罪を犯して。
 運命と闘い、打破するのではなく、逃げることを選ぶ。……これって、現代の価値観だと負け犬とか卑怯者とか、そっち系だよねえ?
 しかも、周囲に迷惑かけて、愛する女すら救えない。
 江戸時代ならそれで良かったんだろうけど、現代の感覚では、なかなかきついなコレ。

 景子せんせのバウ作品で、主演がみわっち。
 ということで、わたしの期待値はうなぎのぼり、観る前から勝手にMAX値だった。
 それが悪かったんだと思う。

 冷静に考えて。これは「心中モノ」なのよ。限界があるのよ。
 そう自分を戒めることが出来たのは、幕が下りたあとだ。

 原作だとダメダメ男だった豊太郎@『舞姫』を、あそこまで筋の通ったいい男にした景子たんだから、原作がどうあれ、きっとすごいことになっているに違いない、と勝手に決めつけていた。
 ……ごめん、そうだね、それは勝手な思い込みだったね。これは心中モノだ、『舞姫』ほど自由には出来なかったんだね。

 嘉平次@みわっちは、やっぱりどうあがいても、残念なだめんずでした……。

 すごいまぬけっつーか、「なんで騙されてることわかんないかなあ」とか、「なんで自分でがんばらないのかなあ」とか、じれったいっす。
 心中モノの男主人公って、自分ではなんにもしないんだよなあ。脳みそ的にも、体力的にも。で、そのせいで雪だるま式に不幸になるんですよ。
 タカラヅカというエンタメでは、なんにもしなくて破滅する男って、書くの難しいわ……。
 これがまた、天下国家がかかっていると説得力があるんだけど(国のために愛する女をあきらめなければならない!とか)、所詮市井の話だから、男の器の小ささがきつい……がっくりくる……。

 とまあ、題材自体がなかなかに難しいもんなんだ。
 それを最初から理解せずに観てしまったわたしが悪い。
 勝手に「ヅカと心中は相性がいい。だって悲劇はヅカの醍醐味だから!」くらいの軽い感覚だったよ……ごめんよ無知で。


 こんだけ不利なネタなのに、それでも美しく、ただの心中モノに収まらせず仕上げた景子たんは、すごいと思う。

 「生玉心中」「曽根崎心中」でもなく、『近松・恋の道行』なんだ。
 ネタとして心中を扱いながらも、描こうとしているのはその外側にあるモノだ。

 そして、みわっちが、美しい。

 みわさんはマジで、日本物が似合う。
 お化粧が微妙な人々の中、みわさん(と、彼のシャドウである柚カレーくん)の美しさがぶっちぎり、いやもお、ハンパねえ。
 身長や顔の大きさ的にも、日本物がいちばん似合うバランスなんだと思うよ、みわっちって。
 彼はやさしさもおおらかさも、正しさも清廉さも、そして狂気と艶も、出せる人だから。

 すげえなと思う。
 この役は、そして作品は、みわっちでないと出来ないよ。
 みわっち主演で、この作品をやりたいと思った景子せんせの気持ちはわかるよ。

 それと同時に。
 この作品をみわっちでやってしまうことへの、引っかかりも、感じる。

 最初に語ったように、「心中モノ」って、男主人公をかっこよく見せる題材ではないんだ。
 みわっちが演じることで作品は完成するし、みわっちの巧さは表現できるし、もちろんみわっちは出来上がった男役であるから、それゆえの美しさや格好良さも見せてくれるけど。
 でもそれは、みわっちが実力でそう見せているだけで、「作品」はみわっちを後押ししていないんだ。

 座付き作者がアテ書きをすることで、「スターの魅力」を出すのが、タカラヅカだ。
 だけどこの『近松・恋の道行』って、結果としてみわっちの魅力を見せてくれているけれど、創作動機はそこにない気がする。
 「心中モノ」を題材に、現代視点で新しいモノを創りたい。クリエイター植田景子の創作欲ありき。みわっちは、それに利用されただけ、のような。

 そーゆー作家のエゴを感じる。

 なんつーか、「作品」と「役者」のバランスを考えたとき、「作品愛」の比重が高い感じっていうか。
 留学から帰ったばかりの頃の、景子作品のニオイがする……。


 や、わたしの独りよがりな感じ方です。
 良い作品だった。景子たんすげーと心から思う。
 そーゆーあざとさも含め、景子せんせに拍手する。


 ところで、わたし的にいちばんツボだったのは、鯉助@みーちゃんです。

 好みの男、ど真ん中キターーッ!!

 いやいやいや、いいわあ、みーちゃん!
 最後の高笑いまで、全部素敵。

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