でもさ、やっぱイケコってすごいよね、うまいよね、と思う、『銀河英雄伝説@TAKARAZUKA』を観て。
いちばん盛り上がること必至のクライマックス場面が、大人の事情で盛り上げられない。
同じよーなモノを観ました、同じ劇場で。
タカラヅカには番手というものがあり、たとえ原作がどうあろうと、観客がナニを求めていようと、んなことぁお構いなしに優先されるモノが、あるのです。
その物語の主人公は、オスカル(男装の女性)といいました。
オスカルがいろんな経験をして、成長して、それまで自分を捕らえていたしがらみを自ら捨てて、自分の道を歩く……己れの信念を貫き、剣を抜くことになる物語でした。
オスカルがそれまで属していた貴族社会を裏切り、平民側で闘う!という場面は、物語のクライマックスです。
もっとも盛り上がる場面であり、そこでオスカルは幼なじみである最愛の人アンドレを失い、さらには自分も華やかに戦死するのです。
この原作を、ナニを間違ったのか、とってもおかしな料理をして、タカラヅカで舞台化されました。
トップスターが演じるのは、主人公のオスカルの幼なじみ・アンドレ。主人公の恋人役だし、主人公の影として常に付き従ってきたし、最期は華々しく戦死するし、まあ彼をトップスターが演じるのは、わかります。アンドレ視点に微調整することは可能。
問題は、トップ娘役。
物語の主人公のオスカルは、男装の女性です。女性役なんだから、トップ娘役が演じてもよさそーなもんですが、そうではないのです。その役は、男役が演じると決まっている。
じゃあトップ娘役はナニをするの、というと……主人公オスカルの恋人アンドレの、幼なじみ、という、わけわかんない役になりました。
物語の中心は、オスカル。その恋人アンドレを演じるのが、トップスター。そのアンドレに片想いしてストーカーする女を、トップ娘役が演じる。
……えーと?
すでによくわかんないことになってますが、物語はどうあがいたって、オスカル中心に存在するわけです。
物語のクライマックスだって、オスカルが民衆の真ん中に立って闘う場面なんだし。
じゃあその、原作の主人公であるオスカルを演じるのは誰? トップスターでもトップ娘役でもないなら、男役2番手?
……いいえ。何故か男役3番手が演じました。
原作の主人公。物語の中心。クライマックスの、中心人物。
それを、3番手が演じるとどうなるか。
クライマックスに、オスカルは出ませんでした。
オスカルが、民衆の真ん中に立って闘う場面です。
なのに、本人不在。
かわりに、その恋人アンドレ役のトップスターが、ひとりで「オスカル~~!!」と連呼しながら、群舞のセンターにいました。
オスカルは、いません。
いないけど、いるということにして、名前だけ出して、アンドレ役のトップスターひとりでがんばる。
物語的にも原作的に、オスカルがこの場面にいたら、どーしても彼女が「主役」になってしまうからです。
物語を動かしているのは、主人公である彼女ですから。
タカラヅカには番手がある。
トップスターより、3番手を目立たせてはいけない。
いや、それでもトップが目立つ演出は可能だが、そうしたとしても、少なくとも2番手より目立ってしまう。
それではいけない。
てことで、3番手が演じている役だから、という理由で、原作の主人公はいるはずの戦場に不在、「いるという設定」で名前だけ連呼されるエア主人公になっていました。
原作の名前に惹かれて来場した客も、往年のタカラヅカ名作に思いを馳せて来た客も、ふつーのタカラヅカファンも、ひたすらぽかーん。
アンドレがひたすら大仰に、いもしないオスカルの名前を呼びながら、派手に絶命しておりました。
ぽかーん……。
そして、アンドレが死んだあと、トップ娘役演じるストーカー女は、アンドレ戦死=彼はもう私のもの、と恍惚の笑みを浮かべる。
タカラヅカですから、トップスターとトップ娘役のラブラブでエンドマーク出さなきゃいけないから、オスカルの名を呼びながら戦死したはずのアンドレが、天使が舞い踊る中、ストーカー女の前に笑顔で現れ、トップコンビの場面で幕が下りる……という。
ぽかーんを通り越して、震撼。こわっ。こわすぎるっ。
こんなものすごい公演もあったわけです。
今回の『銀河英雄伝説@TAKARAZUKA』に当てはめるなら。
「キルヒアイス役は、クライマックスで自然と目立ってしまう。トップや正2番手ならともかく、それ以外の役者がクライマックスの華となってはいけない」と判断され、エア・キルヒアイスになる。
キルヒは舞台上にいないけど、「いる」という設定で、ラインハルトが「俺をかばって撃たれるなんて! 死ぬなキルヒアイス!!」と説明台詞を喋りながら、ひとりで騒いでいる……という場面になる、わけだ。
舞台にいないんだから、目立ちようがないよな、ひとりで大騒ぎしているラインハルトを観客は「なんだなんだ?」と見るよな。
ほーら、演出家の狙い通り、目立ってはいけない番手の人は目立たず、目立たせたいスターだけが目立っている!
原作も観客の期待も、作品のクオリティも関係ない!
人事優先、大人の事情優先!
そんなことになっておらず、あっさり短めとはいえ、原作通りにキルヒアイスが撃たれて死ぬ場面があり、ラインハルトが親友を抱いて嘆いてるんだから、十分だよな。
植爺作『外伝 ベルサイユのばら-呪いのドングリ編-』に比べれば、クライマックスをキルヒの死から、ラインハルトとヒルダのラブラブ場面に変更するくらい、大したことないさ。
ラインハルトとキルヒアイスが歌う、ふたりの友情の歌……「ああ あれはフレイヤの星♪」を、ラストでラインハルトとヒルダの歌として使われ、ラインハルトとキルヒアイスの少年時代の思い出「共に流星を見たモノは」をラインハルトとヒルダの思い出にすり替えてエンドマークでも、だ。
RPGでキャラクタが離脱し、ぽっと出の新キャラクタが引き継ぐとき、パラメータが前キャラのまんまで「キャラが変わる意味ナシかいっ」と突っ込む、アレですな。
キルヒのパラメータは、全部まるっとヒルダにコピーされましたとさ。必殺技も溜めてきたポイントも、全部そのまま使えます。
ラストシーンで、ラインハルトとヒルダの背後に流星が走ったときに、膝を打ちました(笑)。
パラメータ完コピの、キャラ引き継ぎキターーっ!!と。
わかりやすくて、いいんじゃないすか? 時間もないことだし。(真顔)
いちばん盛り上がること必至のクライマックス場面が、大人の事情で盛り上げられない。
同じよーなモノを観ました、同じ劇場で。
タカラヅカには番手というものがあり、たとえ原作がどうあろうと、観客がナニを求めていようと、んなことぁお構いなしに優先されるモノが、あるのです。
その物語の主人公は、オスカル(男装の女性)といいました。
オスカルがいろんな経験をして、成長して、それまで自分を捕らえていたしがらみを自ら捨てて、自分の道を歩く……己れの信念を貫き、剣を抜くことになる物語でした。
オスカルがそれまで属していた貴族社会を裏切り、平民側で闘う!という場面は、物語のクライマックスです。
もっとも盛り上がる場面であり、そこでオスカルは幼なじみである最愛の人アンドレを失い、さらには自分も華やかに戦死するのです。
この原作を、ナニを間違ったのか、とってもおかしな料理をして、タカラヅカで舞台化されました。
トップスターが演じるのは、主人公のオスカルの幼なじみ・アンドレ。主人公の恋人役だし、主人公の影として常に付き従ってきたし、最期は華々しく戦死するし、まあ彼をトップスターが演じるのは、わかります。アンドレ視点に微調整することは可能。
問題は、トップ娘役。
物語の主人公のオスカルは、男装の女性です。女性役なんだから、トップ娘役が演じてもよさそーなもんですが、そうではないのです。その役は、男役が演じると決まっている。
じゃあトップ娘役はナニをするの、というと……主人公オスカルの恋人アンドレの、幼なじみ、という、わけわかんない役になりました。
物語の中心は、オスカル。その恋人アンドレを演じるのが、トップスター。そのアンドレに片想いしてストーカーする女を、トップ娘役が演じる。
……えーと?
すでによくわかんないことになってますが、物語はどうあがいたって、オスカル中心に存在するわけです。
物語のクライマックスだって、オスカルが民衆の真ん中に立って闘う場面なんだし。
じゃあその、原作の主人公であるオスカルを演じるのは誰? トップスターでもトップ娘役でもないなら、男役2番手?
……いいえ。何故か男役3番手が演じました。
原作の主人公。物語の中心。クライマックスの、中心人物。
それを、3番手が演じるとどうなるか。
クライマックスに、オスカルは出ませんでした。
オスカルが、民衆の真ん中に立って闘う場面です。
なのに、本人不在。
かわりに、その恋人アンドレ役のトップスターが、ひとりで「オスカル~~!!」と連呼しながら、群舞のセンターにいました。
オスカルは、いません。
いないけど、いるということにして、名前だけ出して、アンドレ役のトップスターひとりでがんばる。
物語的にも原作的に、オスカルがこの場面にいたら、どーしても彼女が「主役」になってしまうからです。
物語を動かしているのは、主人公である彼女ですから。
タカラヅカには番手がある。
トップスターより、3番手を目立たせてはいけない。
いや、それでもトップが目立つ演出は可能だが、そうしたとしても、少なくとも2番手より目立ってしまう。
それではいけない。
てことで、3番手が演じている役だから、という理由で、原作の主人公はいるはずの戦場に不在、「いるという設定」で名前だけ連呼されるエア主人公になっていました。
原作の名前に惹かれて来場した客も、往年のタカラヅカ名作に思いを馳せて来た客も、ふつーのタカラヅカファンも、ひたすらぽかーん。
アンドレがひたすら大仰に、いもしないオスカルの名前を呼びながら、派手に絶命しておりました。
ぽかーん……。
そして、アンドレが死んだあと、トップ娘役演じるストーカー女は、アンドレ戦死=彼はもう私のもの、と恍惚の笑みを浮かべる。
タカラヅカですから、トップスターとトップ娘役のラブラブでエンドマーク出さなきゃいけないから、オスカルの名を呼びながら戦死したはずのアンドレが、天使が舞い踊る中、ストーカー女の前に笑顔で現れ、トップコンビの場面で幕が下りる……という。
ぽかーんを通り越して、震撼。こわっ。こわすぎるっ。
こんなものすごい公演もあったわけです。
今回の『銀河英雄伝説@TAKARAZUKA』に当てはめるなら。
「キルヒアイス役は、クライマックスで自然と目立ってしまう。トップや正2番手ならともかく、それ以外の役者がクライマックスの華となってはいけない」と判断され、エア・キルヒアイスになる。
キルヒは舞台上にいないけど、「いる」という設定で、ラインハルトが「俺をかばって撃たれるなんて! 死ぬなキルヒアイス!!」と説明台詞を喋りながら、ひとりで騒いでいる……という場面になる、わけだ。
舞台にいないんだから、目立ちようがないよな、ひとりで大騒ぎしているラインハルトを観客は「なんだなんだ?」と見るよな。
ほーら、演出家の狙い通り、目立ってはいけない番手の人は目立たず、目立たせたいスターだけが目立っている!
原作も観客の期待も、作品のクオリティも関係ない!
人事優先、大人の事情優先!
そんなことになっておらず、あっさり短めとはいえ、原作通りにキルヒアイスが撃たれて死ぬ場面があり、ラインハルトが親友を抱いて嘆いてるんだから、十分だよな。
植爺作『外伝 ベルサイユのばら-呪いのドングリ編-』に比べれば、クライマックスをキルヒの死から、ラインハルトとヒルダのラブラブ場面に変更するくらい、大したことないさ。
ラインハルトとキルヒアイスが歌う、ふたりの友情の歌……「ああ あれはフレイヤの星♪」を、ラストでラインハルトとヒルダの歌として使われ、ラインハルトとキルヒアイスの少年時代の思い出「共に流星を見たモノは」をラインハルトとヒルダの思い出にすり替えてエンドマークでも、だ。
RPGでキャラクタが離脱し、ぽっと出の新キャラクタが引き継ぐとき、パラメータが前キャラのまんまで「キャラが変わる意味ナシかいっ」と突っ込む、アレですな。
キルヒのパラメータは、全部まるっとヒルダにコピーされましたとさ。必殺技も溜めてきたポイントも、全部そのまま使えます。
ラストシーンで、ラインハルトとヒルダの背後に流星が走ったときに、膝を打ちました(笑)。
パラメータ完コピの、キャラ引き継ぎキターーっ!!と。
わかりやすくて、いいんじゃないすか? 時間もないことだし。(真顔)
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