しつこくナイジェルさんの話です、『Victorian Jazz』

 奇術師と降霊術師は似ている、よね?
 わたしは最初なんの違和感もなく受け止めた。奇術師が、降霊術師のふりをする、ってことに。
 奇術師はトリックを扱うプロ。そして、降霊術をトリックで行うことが出来る。
 だから、似たよーなもん。

 ……すみません、わたしはどうも、「降霊術」というものを信じていないようです。
 降霊術と聞いて反射的に「トリックで行う」と連想するくらいに。

 ほんとに信じている人は、「降霊術」という単語を聞くだけで、まったく別の連想をするんだろうなあ。

 オカルト的なことは好きなんだけど(『零』や『SIREN』の大ファンですから! 新作を待ち続けてる!!)、現実として信じているかはまた別みたい。わたしの住んでいる部屋、アレな現象が起こるんだけど、わたしが信じてないから無問題だし。

 作者の田渕せんせとわたしは、同じよーなオカルト感なのかもしれない。
 信じてないけど、都合良く使う分にはステキな存在、と。
 降霊術=インチキ、現実社会において霊なんか信じてない、でも作品のクライマックスに幽霊を登場させて盛り上げるのはアリ、だっておもしろいもーん、という感覚。

 『Victorian Jazz』においての「降霊術」の位置づけが、なんとも「現代日本人感覚」。
 自称新聞記者のサラ@べーちゃんが、降霊術師を騙るナイジェルさん@だいもんのことを「インチキ」だと最初から言い切っているんだが、それはナイジェルに対してどうこうじゃない。そもそもサラは降霊術を信じてない。
 彼女は19世紀のロンドンで新聞記者を目指すほど、進歩的な女性という設定。だから当時の人々が熱狂する降霊術を信じていないのだ……というようには、見えない。
 サラが「彼女の生きる現代の通説」を否定するに至るだけの確固たる考えを持っているように見えないんだ。なにゆえにそう思うのか、裏付けがない。
 彼女はただ、観客のわたしたちが「降霊術? ナイナイ(笑)」と思うのと同じ程度のメンタルで存在している。

 降霊術を信じる人たちはみな滑稽に、アホっぽく描かれている。
 降霊術など存在しない。……そういう意識で描かれているんだ、世界自体が。作者自身が、「降霊術が存在したかもしれない時代の空気」を理解していない。存在の有無ではなく、それを信じる人々が実在したことを、想像できずに作ったみたいだ。
 それゆえ、オチに平気で霊を出す。信じてないから、道具として便利使いする。

 そんな世界観での、奇術師と降霊術師。
 わたしはストレートにシンプルに、「似ている」と思った。
 どっちも人を騙す仕事じゃん、と。


 えー、本物の降霊術師のことは、置いておきます。
 霊媒とかイタコとか? シャーマンな人々の真偽を問うこととは、別次元の話です。

 ここでの降霊術師ってのは、インチキのことです。

 奇術師のナイジェルは、降霊術師のふりをして金を稼ぐことを思いつく。
 透視でも読心でもなく降霊術なのは、当時のロンドンで降霊術が流行っていたから。UFOが流行っていたら宇宙人だと言ったろうし、超能力が流行っていたらエスパーだと言ったんじゃないかな。ひとが求めているものを読み取って差し出すのが、奇術の一歩だから。

 ナイジェルは、信じてないんだろう。霊の存在も、降霊術も。彼の相棒だった興行師@和海くんも。だからそれを騙ることを思いつく。
 本気で信じていたら、霊を馬鹿にするよーなことは出来ないはず。
 主人公も、その相棒らしい男も、当たり前に降霊術を否定する。現代のわたしたちと同じ感覚で。物語がスタートして最初の登場人物がコレだもんよ。

 奇術師と降霊術師は、同じようなもの。
 ナイジェルも、物語の世界観自体も、そう言っている。……ように、わたしには見えた。

 同じ? 似ている? そうなの?

 まったくチガウよね?

 どちらも、客を騙して金を取る。そこは同じかもしれない。
 しかし。

 奇術師は、最初から「嘘」だと明かしている。
 奇術には種も仕掛けもある。超能力も神の力も持たないふつーの人間が、消えたり無から有を生み出したり、宙に浮いたりする。
 観客は「トリックがある」とわかっていて、それでも「魔法のような」ひとときを楽しむ。

 芝居と同じだね。
 俳優たちが舞台で演じている、それはあくまでもフィクション、本当の出来事ではない。わかっていて、その「嘘」を理解した上で、観客は芝居を楽しむし、それに対してお金を払う。

 だが降霊術師はチガウ。
 彼らは「真実だ」と言って、種も仕掛けもあるショーを見せる。
 観客は「真実」にお金を払うのであって、「嘘」だったらハナから相手にしない。

 奇術師にとって、噴飯ものの職業だろうな、降霊術師って。
 観客に対してふるう技術は同じ、しかし片方は「トリック/人間のやること」だと前置きして、片方は「奇跡/人間を超えた存在の技」と讃えられて。

 ナイジェルさんが奇術を愛し、奇術師として生きることに誇りやこだわりを持っているなら、降霊術師を騙ることだけは、やらないと思うんですよ。
 矜持に懸けて。

 奇術の舞台の上で、演出として「降霊術を披露します」ならアリなの。シャンドンさん@『マジシャンの憂鬱』で、マジックを披露した延長で透視術をやって見せたように。
 それを「マジックの演出」と受け止めるか「彼は本物の超能力者!」と思うかは、観客にゆだねられているから。

 冒頭部分で、警官がナイジェルさんを馬鹿にする。奇術師も犯罪者も似たようなものだ、と。
 それに対してナイジェルさんは報復行動、「降霊術」だと言って警官をとっちめるわけだ。

 警官は「嘘をついて金を取る」奇術師を、詐欺師と同じだと罵るわけだ。それに対して憤るナイジェルさんは、奇術師と詐欺師の境界線を理解しているし、一緒にされたらたまらない、という矜持があるわけだ。
 なのに彼は、次の瞬間詐欺師に落ちぶれる。警官が嘲笑った通りの存在になる。

 ナイジェル自身が、奇術師を汚している。

 ここがなー、わかんないんだよなー。

 詐欺師呼ばわりされて怒って、その次の瞬間詐欺師になる、って。しかも罪悪感なし、明るく楽しく人を傷つけよう私腹を肥やそう、なんて。
 それなら、「奇術師を犯罪者呼ばわりする者たちへの復讐だ、奇術を使って完全犯罪をやってやろうじゃないか」と開き直る方がいいよ。

 もしくは、「同じ技術を使っているだけなのに、奇術師だとひとから見向きもされなかった。降霊術師ならスターとして扱われる。必要なのは肩書きだけで、俺の技術は本物だったんだ」と落としどころをつけるとか。
 ナイジェルさんがやりたかったことは「奇術」そのものであり、奇術師として名を成すことじゃない。彼のトリックで人々が夢を見られれば、それがマジックでもオカルトでもなんでもいいんだ。……てな。

 奇術師にこだわりながら、奇術師を汚し、オチに幽霊を使いながら霊の存在も降霊術も信じてない。
 ナイジェルさんが、というか、作者の「軽さ」が気になる。

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