人間の心は、動き続けるものだから。@ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌
2013年2月12日 タカラヅカ で、『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』って、面白いの?
……てことはわかんないけど、とりあえず、正塚晴彦、復活だと思った。
正塚節満載の会話だとか、普遍のテーマ「自分探し」×3だとか、薄暗い舞台にモノトーンの衣装、コロス多用だとか、行き交う雑踏の人々だとか、お約束に満ちていることだけでなく。
実は、わたしがもっとも痛感したのは、モノローグ(録音)が、ない!!ってこと。
主演のまっつはナレーション力の高さを評価されている人でもある。こりゃー『BJ』も録音されたBJのモノローグだらけだろうな。BJの台詞の何分の一かは録音テープかもしれないな。
そう、危惧していた。
そんな状態であっても絶望しちゃダメだぞ、と覚悟していた。
なのに、なのに。
フタを開けてみたら、なんと、モノローグなし!!
やった~~!! ばんざーーい!! ヒャッホウ~~!!
正塚晴彦のモノローグ依存は、どこからはじまったんだろう。
その場で役者に喋らせれば済むことなのに、わざわざ全部録音だった。
また、その録音されたモノローグだって、ある必要のない繰り言だった。
だらだら言葉で説明するより、芝居で、物語で描くべきことだ。なのに、まるで小説のように主人公の一人称の語りがえんえん入った。
舞台はナマモノ。1回1回別モノだし、初日と千秋楽も違っている。なのに主人公の「心の声」だけは、初日以前の録音テープ。芝居・舞台がイキモノである、ということを否定した姿勢。
そのときの舞台がどんな色でどんな盛り上がりで進んでいても、水を差すかのように、録音テープ挿入。役者はそのときのナマの舞台を、ナマの感情を捨てても、録音に合わせた芝居をしなくてはならなかった。
わたしは、録音テープが大嫌い。
映画を観に来たわけじゃない、生の舞台を観に来ているんだ。音楽がテープなのは予算上仕方ないとわかるけれど、役者にナマで喋らせない意味がわからない。
作者のエゴなんだろうなと思った。
舞台にどうしても必要、というわけではない録音モノローグ乱用は、役者も観客も軽んじている、作者の姿勢の表れだろうと。
「観客はバカだから、言葉で説明しないと理解できない」から、「そのとき俺はこう思った」と台詞で解説。「役者には技術が足りないから、長台詞を言いながら芝居なんかできない」から、テープをBGMに顔芸をさせる。
もしくは、「舞台を完全に支配するため、完全監修の録音モノローグを全体に散りばめて、役者や観客が作者の意図した以外のモノを作ったり観たりできないようにする」ことが目的か? 舞台は役者のモノ、舞台がナマモノなんて許せない、演出家は神、という意味か?
理由はわからない。だって、誰も得をしない「不要」なものをわざわざ自作に山ほど使って、作品クオリティを下げるクリエイターのキモチなんか、わたしには理解できないもの。
クリエイターなら自作がかわいい、それをすることが「よい」と思ってやっているんだろうから……それが1観客のわたしの目には「不要」「欠点」「悪癖」と映っているので、それを強行し続ける以上、作者のエゴなんだろうなと。
もう正塚晴彦は、戻って来ないのかもしれない……。
そう思っていた。
いつまでも「あの国」「あの戦争」の話をし、やりたいのはストレートプレイの会話劇なのに、仕方なく無理矢理ダンスシーンを入れるために、主人公を「クラブ・オーナー」とか「クラブのダンサー」とかにし、忘れた頃に主人公が1曲長々と歌って「ミュージカルだから仕方ないんだ、さあ、銀橋ソロやってやったから、あとはもういいよな」とまた会話劇、えんえん続く録音モノローグ、主人公はまともに恋愛しない、しても「タカラヅカがたら仕方ないんだ」という言い訳程度、クライマックスも盛り上がりもなく、自己満足な「男の美学」で終了。
昔はそうじゃなかったし、迷走しながらも10年くらい前はまだ、いろいろ新しいことに挑戦しようとしていた。
なのにここ数年はもう、「タカラヅカ」にも「ミュージカル」にも飽きたのかと思えるような、雑な作りの「焼き直し」ばかりだった。
それでもわたしは、正塚作品好きだけど。
彼の持つカラーやテーマ、そしてロマンチストっぷりが、ツボだったけど。
長年の悪癖から解き放たれ、昔の正塚の「良さ」が戻って来た。
その象徴に思えたんだ、「録音モノローグが、ない」。
もひとつ、『BJ』で「よかった」と思ったことは。
主人公に、友だちがいること。
正塚せんせの間違ったハードボイルド観が炸裂しているときって、主人公に友だちがいないの。
クールで孤独な男こそ至上!と思うあまり、根本をまちがえてしまう。
クールでも孤独でもいいけど、それと「他人すべてを軽んじている」ことは、別。
べたべたした恋愛や友情を繰り広げる必要はない。
主人公が人間を愛し、尊んでいること。根底に人としてまっとーなものがあり、表面的にはクールで孤独、「男が憧れる男」であればいい。
正塚せんせの作風で、主人公が間違っていると、もー目も当てられない。
なんせ、ストーリーに起伏がないし、ドラマティックなラブもないし、派手なクライマックスもないんだ。ただ淡々と会話劇が進むだけなのに、主人公が関わるすべての人に無関心。
や、表面上は仲間がいたり、昔の女がいたりするんだけど、「アンタ、誰のことも好きじゃないよね? 興味もないし、大切でもないよね?」というのが透けて見える。
そーゆー淡々とした男を「カッコイイ」と正塚おじさんが思うのは自由だけど、タカラヅカの舞台でやらなくていい。
感情未発達のナニを考えているかわからない男を主人公にしたいなら、ストーリーだけは派手にしろ。ストーリー主導型なら、主人公が薄くてもエンタメとして成り立つ。
なのに主人公もストーリーもどっちも未発達なままじゃあ、どうしようもない。
『BJ』はストーリー性の薄い、正塚らしい作品。
これで主人公まで「クールという名の、なにも考えていない男」だったら、いつもの悪く転んだ正塚。
どーなることかといろいろ危惧したけれど、BJ先生はとてもハートフルで人間くさい人でした。
どんだけクールぶっても悪ぶっても、BJが愛情深い人だということが見える。
なにしろBJなので女性と恋愛はしないけれど、恋に匹敵する深さで他人とつながっている。関わり合っている。
BJが、愛すべき生身の人間である。
だから、ストーリーが平坦であっても、生身の人間の心の起伏だけで、作品が成り立つ。
ああ、正塚作品だなあ、と思う。
正塚晴彦、復活。
そう思ったんだ。
……てことはわかんないけど、とりあえず、正塚晴彦、復活だと思った。
正塚節満載の会話だとか、普遍のテーマ「自分探し」×3だとか、薄暗い舞台にモノトーンの衣装、コロス多用だとか、行き交う雑踏の人々だとか、お約束に満ちていることだけでなく。
実は、わたしがもっとも痛感したのは、モノローグ(録音)が、ない!!ってこと。
主演のまっつはナレーション力の高さを評価されている人でもある。こりゃー『BJ』も録音されたBJのモノローグだらけだろうな。BJの台詞の何分の一かは録音テープかもしれないな。
そう、危惧していた。
そんな状態であっても絶望しちゃダメだぞ、と覚悟していた。
なのに、なのに。
フタを開けてみたら、なんと、モノローグなし!!
やった~~!! ばんざーーい!! ヒャッホウ~~!!
正塚晴彦のモノローグ依存は、どこからはじまったんだろう。
その場で役者に喋らせれば済むことなのに、わざわざ全部録音だった。
また、その録音されたモノローグだって、ある必要のない繰り言だった。
だらだら言葉で説明するより、芝居で、物語で描くべきことだ。なのに、まるで小説のように主人公の一人称の語りがえんえん入った。
舞台はナマモノ。1回1回別モノだし、初日と千秋楽も違っている。なのに主人公の「心の声」だけは、初日以前の録音テープ。芝居・舞台がイキモノである、ということを否定した姿勢。
そのときの舞台がどんな色でどんな盛り上がりで進んでいても、水を差すかのように、録音テープ挿入。役者はそのときのナマの舞台を、ナマの感情を捨てても、録音に合わせた芝居をしなくてはならなかった。
わたしは、録音テープが大嫌い。
映画を観に来たわけじゃない、生の舞台を観に来ているんだ。音楽がテープなのは予算上仕方ないとわかるけれど、役者にナマで喋らせない意味がわからない。
作者のエゴなんだろうなと思った。
舞台にどうしても必要、というわけではない録音モノローグ乱用は、役者も観客も軽んじている、作者の姿勢の表れだろうと。
「観客はバカだから、言葉で説明しないと理解できない」から、「そのとき俺はこう思った」と台詞で解説。「役者には技術が足りないから、長台詞を言いながら芝居なんかできない」から、テープをBGMに顔芸をさせる。
もしくは、「舞台を完全に支配するため、完全監修の録音モノローグを全体に散りばめて、役者や観客が作者の意図した以外のモノを作ったり観たりできないようにする」ことが目的か? 舞台は役者のモノ、舞台がナマモノなんて許せない、演出家は神、という意味か?
理由はわからない。だって、誰も得をしない「不要」なものをわざわざ自作に山ほど使って、作品クオリティを下げるクリエイターのキモチなんか、わたしには理解できないもの。
クリエイターなら自作がかわいい、それをすることが「よい」と思ってやっているんだろうから……それが1観客のわたしの目には「不要」「欠点」「悪癖」と映っているので、それを強行し続ける以上、作者のエゴなんだろうなと。
もう正塚晴彦は、戻って来ないのかもしれない……。
そう思っていた。
いつまでも「あの国」「あの戦争」の話をし、やりたいのはストレートプレイの会話劇なのに、仕方なく無理矢理ダンスシーンを入れるために、主人公を「クラブ・オーナー」とか「クラブのダンサー」とかにし、忘れた頃に主人公が1曲長々と歌って「ミュージカルだから仕方ないんだ、さあ、銀橋ソロやってやったから、あとはもういいよな」とまた会話劇、えんえん続く録音モノローグ、主人公はまともに恋愛しない、しても「タカラヅカがたら仕方ないんだ」という言い訳程度、クライマックスも盛り上がりもなく、自己満足な「男の美学」で終了。
昔はそうじゃなかったし、迷走しながらも10年くらい前はまだ、いろいろ新しいことに挑戦しようとしていた。
なのにここ数年はもう、「タカラヅカ」にも「ミュージカル」にも飽きたのかと思えるような、雑な作りの「焼き直し」ばかりだった。
それでもわたしは、正塚作品好きだけど。
彼の持つカラーやテーマ、そしてロマンチストっぷりが、ツボだったけど。
長年の悪癖から解き放たれ、昔の正塚の「良さ」が戻って来た。
その象徴に思えたんだ、「録音モノローグが、ない」。
もひとつ、『BJ』で「よかった」と思ったことは。
主人公に、友だちがいること。
正塚せんせの間違ったハードボイルド観が炸裂しているときって、主人公に友だちがいないの。
クールで孤独な男こそ至上!と思うあまり、根本をまちがえてしまう。
クールでも孤独でもいいけど、それと「他人すべてを軽んじている」ことは、別。
べたべたした恋愛や友情を繰り広げる必要はない。
主人公が人間を愛し、尊んでいること。根底に人としてまっとーなものがあり、表面的にはクールで孤独、「男が憧れる男」であればいい。
正塚せんせの作風で、主人公が間違っていると、もー目も当てられない。
なんせ、ストーリーに起伏がないし、ドラマティックなラブもないし、派手なクライマックスもないんだ。ただ淡々と会話劇が進むだけなのに、主人公が関わるすべての人に無関心。
や、表面上は仲間がいたり、昔の女がいたりするんだけど、「アンタ、誰のことも好きじゃないよね? 興味もないし、大切でもないよね?」というのが透けて見える。
そーゆー淡々とした男を「カッコイイ」と正塚おじさんが思うのは自由だけど、タカラヅカの舞台でやらなくていい。
感情未発達のナニを考えているかわからない男を主人公にしたいなら、ストーリーだけは派手にしろ。ストーリー主導型なら、主人公が薄くてもエンタメとして成り立つ。
なのに主人公もストーリーもどっちも未発達なままじゃあ、どうしようもない。
『BJ』はストーリー性の薄い、正塚らしい作品。
これで主人公まで「クールという名の、なにも考えていない男」だったら、いつもの悪く転んだ正塚。
どーなることかといろいろ危惧したけれど、BJ先生はとてもハートフルで人間くさい人でした。
どんだけクールぶっても悪ぶっても、BJが愛情深い人だということが見える。
なにしろBJなので女性と恋愛はしないけれど、恋に匹敵する深さで他人とつながっている。関わり合っている。
BJが、愛すべき生身の人間である。
だから、ストーリーが平坦であっても、生身の人間の心の起伏だけで、作品が成り立つ。
ああ、正塚作品だなあ、と思う。
正塚晴彦、復活。
そう思ったんだ。
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