『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』青年館版の演出が良くなっていた……のは確か。
 だからといって、完全にこちらが良いわけじゃない。

 なにしろわたしは、まっつファンなので。


 DCの最初の演出では、なにかにつれ、まっつの歌唱力・技術力頼みの演出だったんだ。伴奏も音響も、まっつソロの邪魔をしない。つまり、なんの底上げもなく、ただまっつの声だけが響く作りだった。
 作品の構成自体が、まっつの歌う「主題」にて、物語すべてを集約させる作りだしね。目に見える起承転結がないわけだしね。
 いろんな意味で、いろんな部分が、まっつに丸投げされたような作り。

 まっつの声が好き、歌が好き、な者からすりゃ、この「完全ファンアイテム」的な構成は、楽しかった。

 まっつの声にも歌にも思い入れのない人には、青年館演出の方がいいんじゃないかな。コーラスや編曲によって、まっつソロコンサートみたいな作りじゃなくなってる。

 青年館が初見の人は、予備知識がない限り変更点はわかんないだろう。
 そうなっているのは、青年館版の方がわりと「ふつー」の作りで、DC版は偏っていたせいだなーと思う。
 正塚せんせ、ほんとにまっつを好きで、まっつを信頼しているんだなあ。
 その半端ナイ比重で声を出し続けることが出来なかったのは残念だけど、それゆえに「まっつのBJ」が「みんなのBJ」になった印象。
 主題を担うのがまっつだけでなく、カゲコーラスのみんなも一緒になって担う。
 それは、BJが言葉にはしない部分の主題を、図らずも表現する結果になったのではないか。

 ……と思ってはいるけど、なにしろわたしはまっつファンなので。
 主題をまっつが独り占め、まっつの声だけにすべてを託されていたDC版は、心地よかったなあ、と(笑)。
 まっつが歌うときは余計なモノ一切なし、ただまっつの声だけを楽しむ作り、って、ヲタが夢見るまっつですよ!


 まあその、ヲタ以外には、まっつはいろいろと「薄い」とか「小さい」とか言われる人だし。身長のことだけじゃなくて。
 爆発的になにを表現する人ではなく、しみじみと内側が何層にもなる、浸透系の芝居をする人で。

 染みるのではなく爆発することを求める人には、伝わる部分が少ない芸風だろうなあと思う。
 歌声も、しかり。

 だから、まっつ個人技中心のDCより、青年館の方が「作品として」進化したと思うんだ。

 また、まっつ自身も。
 本調子じゃないから、派手な歌い上げはない。そのかわり、いつもにも増して「演技」して歌う。
 地味で小さくて温度の伝わりにくいまっつが、全霊をあげて「芝居」をしていた。ここまで大きく演じることがかつてあっただろうか、って勢いで、表現することに必死になっていた。
 内側に向かいがちな芸風の人が、外側へと意志を持って新しい表現を模索していた。

 ……また一皮剥けたんじゃないか、この人。

 2009年辺りから、変化が毎回すごい人なんだけど。なんかまたさらに、役者としてタカラヅカスターとして、レベルアップした気がする。
 いや今まさに、変わりつつあるさまを、目撃しているんじゃないかと思った。

 舞台に立つ組子たちの熱量もすごいし。
 まっつにアクシデントがあった分、彼らの「まっつさんを支え、作品を共に作り上げる!!」という意識が、ベクトルが、より強くクリアになった感じ。
 それまでが足りていなかったということではなく、余分なモノが振り落とされ、研磨され、鏡面になった矢印が自然と光を乱反射している。

 青年館版が、えらいことになっている。
 いや、今、なっている途中。

 そこに立ち会っていることに、ぞくぞくする。


 とはいえ、やっぱどーしても残念な部分もあって。
 まっつの「声」を堪能できた、DCがなつかしいですのよ……。
 欲張りですなー。

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