えーとね、わたしはもともと植爺の『ベルサイユのばら』がキライです。
 中でも植爺の描くフェルゼンというキャラクタが大嫌いです。
 フェルゼンを主人公にした作品は、『ベルばら』の中でも大抵酷い話で、特にキライです。

 だから、『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』については、なんの期待もありません。
 フェルゼンが人としてアレなのは知ってるし。アンタッチャブル、触りたくもないです。
 だから、植爺フェルゼンの破綻した人格や言動については、もう今さらどーでもいいです。

 それでも、『外伝』よりはマシだし。

 腐っても『ベルばら』本編、2008年の外伝シリーズに比べれば、ぜんぜん素晴らしいです。

 だから今回あぜんとしたのは、別のこと。


 植爺が創作者として終わっていることはわかっている。

 銀橋もセリも盆も、日本屈指の劇場である宝塚大劇場の舞台設備をまったく使えない、紙芝居しか出来ない人だということも、知っている。

 歌もダンスも使えず、登場人物がカーテン前で無用な説明台詞をえんえんくり返すだけの立ち話をし、横一列に並んだモブが順番に一言ずつ無用な台詞を重複するだけだということも、知っている。

 それはもう、知っていたし、あきらめていた。
 そこまでは、悟りを開いていた。

 しかし。

 また、上があった。……いや、下、奈落のまだ下、というべきか。


 植爺芝居というと、カーテン前。
 とにかく、カーテン前。
 ひとつの場面が終わるとカーテンが閉まり、その前で立ち話。

 でもさ、子どもの頃わたしは感動したんだ。
 カーテンが閉まって、その前でお芝居してる! すごい! 暗転しないんだ!!

 お芝居というのは、場面を変えるとき、暗転するものだと思っていたんだ。
 仕方ないよね。テレビじゃないんだもの。セットを変更するとき、照明を消して、その間にやるしかないよね。

 なのにタカラヅカでは、暗転しない。
 場面が終わるとさーっとカーテンが閉まり、その前でお芝居が続く。
 お芝居が、途切れない!
 すごいすごい!!

 カーテン前のお芝居が終わると、カーテンがさーっと開き、そこにはまた別の豪華セットが出来上がっている。
 すごい! まったく別の場面が出来上がってる! 途切れずに次の場面になる!!

 ……感動したなあ。

 余韻を残すためとかの、演出効果としての暗転はアリだと思っているけれど、舞台転換のために仕方なく暗転するのは、好きじゃない。
 他の劇団・劇場なら技術や設備的にそうせざるを得ないのかも知れないが、タカラヅカは暗転以外の舞台転換の出来るところだ。物語をぶったぎって、がたごと無粋に暗転して場面転換するのは、演出家の手抜きに思える。

 カーテン前芝居はつまらないけれど、最低限、暗転しないで済む。
 キャストが暗闇の中、ばたばたはけていく姿を見ないで済む。
 物語をぶったぎって、観客を待たせて、舞台転換したりしない。次の場面がスムーズに続く。

 そこだけは、評価していたのに。

 すごい。

 『ベルばら』なのに、暗転しまくり。

 カーテン前芝居しまくりなのに、暗転しまくり。

 白目。
 思わず、白目。

 なんのための、カーテン前芝居。
 暗転せずに次に引き継ぐためじゃないのか。
 暗転して舞台転換するなら、カーテン前でやらず、ずーっと本舞台使って芝居してればいいじゃないか。

 カーテンの意味ナシ。

 暗転するなかカーテンが開閉し、出演者はばたばたとはけていく。その前までナニをやっていたとしても、現実に返ってばたばた動く。その姿が見える、気配がする。

 興ざめ。

 ナニこの、素人演出。

 どこの素人劇団? 素人演出家?

 暗転どたばたをしないのが、タカラヅカだったのに。
 物語が途切れず、次々とまばゆい世界が展開してゆくのが、タカラヅカだったのに。

 植爺と言えば、カーテン前芝居。
 ……でも、そのカーテン前芝居の唯一の長所さえ、失った。

 銀橋もセリも盆も使えず、歌もダンスも使えず、ついにはカーテンすら使えなくなったか……。
 脚本を書く能力や、物語を構成する能力はハナからなかったのに、演出力すらここまで皆無だと、いっそすがすがしいです。



 2013/04/25追記。
 この記事は初日観劇後にくわーーっと書き殴ったテキストが主なんですが、再度観劇したら暗転しまくりってほどでもなかったかなー、と。
 植爺ごめん。
 でも、暗転多いのは確か。
 紙芝居立ちん坊朗読劇なのも確か。

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