新人公演『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』を観て、ショックだったことがひとつあります。

 『ベルばら』の新公なのに、構成が良くなってなかった!!

 植爺作『ベルばら』は、最悪です。間違いまくってます。
 必要な場面・台詞がなく、不要な場面・台詞や、マイナスな場面・台詞ばかりあります。
 それが植爺なので仕方ないです。宝塚歌劇団が衰退するとしたら、こんな演出家を野放しにしている結果だろうなと諦観するほど、どうしようもないことです。

 だからこそ、新公には希望があります。

 新人公演は、2幕モノの本公演を、1幕分に縮めて上演されます。
 「時間がないから、仕方ないんだよ」という大義名分をもって、植爺の最悪作を改編できるんです。

 このままでは国は滅びる……そうわかっていても、誰も暴君に意見できない。彼の非道を見て見ぬフリをしている。
 でも、新公だけは小さなレジスタンス、「本当は、王が非道だとわかっている、我らも疑問は持っている、ただ、言えないだけなんだ」と臣下たちが国民に良心を示すことが出来る場。

 つまり、ここはいらねーんだよ!という場面や台詞のばっさりカット、ここは間違ってるんだよ!という場面や台詞の訂正などが、大手を振って出来る機会なんだ。

 植田大先生様の作品を一言一句変えずに上演したいですとも、しかし時間的に許されないので血の涙を流しながらカットして変更しているのです……くくく。
 てなポーズを取りながら、容赦なく。
 植爺は自作を切り貼りされて別モノにされてもどーせ気づかない。気づくことができるなら、あんなひどい作品を平気で板に載せていない。
 その程度の人なんだから、新人公演は好き放題、どんどんやっちくりぃ!!

 少しでもまともになった、少しでも観やすくなった『ベルばら』を観られる。
 それが、新人公演の楽しみのひとつ。


 なのに。

 今回の雪組新公は、良くなってなかった。
 駄作は駄作のまま。

 作品の底上げナシに、植爺の超駄作で時代遅れの植田歌舞伎演技押しつけですよ。
 やる方も大変だろうけど、観る方もつらい。

 がっかり。

 月組の『オスカルとアンドレ編』新人公演はよかったのよ。間違っている部分を潔くカットして、別モノにしてあった。それがすごく気持ちよく、ストレスのない『ベルばら』になっていた。
 だから『フェルゼン編』もまともになるかと、ひょっとしたら、なってくれるかと、あわい期待をしてたのにー。ちぇっ。

 『フェルゼン編』『フェルゼンとアントワネット編』と、「フェルゼン」という人物を主人公にした作品で、いちばん間違っている場面ってどこだと思う?
 原作にもなくて、キャラクタを破壊していて、ストーリー上不要で、単純に画面としてもつまらなくて、芝居としてもミュージカルとしても意味のない場面。
 間違いなく、メルシー伯爵のお説教とフェルゼンの逆ギレ場面だよね?

 原作ではフェルゼンは自ら身を引くので、誰かにお説教されて気を変えたりしない。だからもちろん、メルシー伯爵がフェルゼンにお説教したりしない。
 そしてフェルゼンはもちろん、正しいことを言う目上の人に逆ギレして罵ったりする人ではない。
 原作にないことをわざわざやって、しかもキャラクタが破壊されまくり。このやりとりがあるためにフェルゼンのキチガイ度がうなぎ上り、主人公なのにまったくかっこよくない、むしろ人として最低。
 と、ストーリー上不要な上、単純に、場面としてつまらない。だだっぴろい舞台でふたりがえんえん立ち話するだけ。しかも意味のない説明台詞の羅列、目も耳も心もまったく楽しくない。さらに、めちゃくちゃ長い。

 まちがいなく、この場面が作中「いちばん間違っている場面」だ。

 だけどこの最悪な失敗場面こそが、植爺のちょーお気に入り大切場面なんだと思う。

 フェルゼンが主役のバージョンでは、絶対になくてはならないんだ。
 他のどんな場面が変更になり、時代と共に変わっても、ここだけはそのまま入れなくてはならないんだ。
 だって、これこそが植爺のこだわりだから。

 愚かな若者を、えらい年寄りが諭す場面。主人公よりもすばらしい年寄りが出てきて、尊敬される場面。
 メルシー伯爵は別に年寄りではないと思うんだけど、ヅカでは老人っぽい役作りなので。アンドレと同い年のルイ16世もまた、年寄りに描かれているよねー、そして愚かな若者(フェルゼンやアントワネット)よりも「人格者」として描かれるよねー。

 こーゆー見方こそ愚かだと思うけど、植爺アレルギーのせいでわたしは、とーっても悪意的に見てしまうの。
 「尊敬される老人」「えらい老人」に、自分を投影しているんじゃないの?と。

 アホな若者を諭すメルシー伯爵、その人格者っぷり、慈愛と聡明さにうっとり、それも何十行もの台詞と豪華な衣装(植爺の価値観)で広い舞台をトップスターとふたりきりで使う、それらすべてが、植爺のエクスタシー。

 自分がもっとも快感を得る場面だから、いちばん大切な場面。
 植爺が生きている限り、この場面がなくなることはない。
 断頭台のラストシーンがなくなる日が来ても、メルシー伯爵のお説教がなくなる日は来ないんじゃない?

 それくらい、あきらめてる。
 フェルゼンが主役だと、この場面が絶対にあるって。
 客観的に見ていちばんいらない、百害あって一利なしの場面だけど、これこそを作者が描きたがっているんだから、仕方ない。

 2幕ものを1幕分に削って、下級生たちの勉強の場であるはずの新人公演の、意義を捨てても冒涜しても、下級生たちのためになる場面、意味ある場面を削ってでも、この場面は全部入れなくてはならない。

 2006年の『フェルゼンとアントワネット編』が、そうだったんだよ……。
 『フェルゼンとアントワネット編』は本編がかなりいい出来で、あとは不要な部分を削りさえすれば、「人様にお見せできる『ベルばら』」になるところだったんだ。
 新公ならば不要なところを削ってくれると思ったのに、他はいろいろ削ってがんばっていたのに、いちばん不要なメルシー伯爵のくだりだけは手つかずで全部入ってた。

 新人公演でも、絶対に削ってはいけないんだ。もっとも大切な場面だから。

 いちばん間違っている場面を、絶対に削ってはならない、新人公演。
 1幕の短縮版なのに、いちばん長くて間違っている場面がそのまま。
 それじゃもう、どうあがいてもまともな作品になんか、なるわけない。

 仕方ないよね。
 うん、わかってた。

 わかってたけど、せめて他の細かいところは微調整して欲しかった、『オスカルとアンドレ編』新公並みに。

 他のひどいところもほとんど手直しナシで、ひどいまま、場面数だけ減らして上演してた。

 たぶん、本公演自体が、特出版と雪組版でひどい作り(2バージョンやるために、構成めちゃくちゃなまま放置)だから、新公でもどうしようもない、って、最初から投げてるのかなあ。


 月組新公は「明日から新公バージョン上演して、2幕はショーにしようよ!」と思えたけど、雪組新公はそこまで思えなかったわ。そりゃ、ショーがある方がいいに決まってるけど。

 ほんと『フェルゼン編』ってひどい。
 わかってたけど、苦笑いした。

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