最初から、夢を綴ってみる・その1。@ベルサイユのばら-フェルゼン編-
2013年5月15日 タカラヅカ 植爺の『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』がキライ過ぎるので、別のことを考える。
わたしがもしも、『フェルゼン編』を書くならば、どうするか。
今までわたしは、「タカラヅカの『ベルばら』」の枠組みでのみ、「わたしならこうする」を考えてきた。
わたしはただの素人で、ただのヅカヲタ。そのわたしが勝手にどうこう言うのは、なんかルール違反というか「言うだけなら誰でも出来る」というか、どうも「チガウ」「しちゃいけないこと」だと思っていた。
だからわたしが「わたしなら」を考える場合は、既存の「タカラヅカの『ベルばら』」の作品や場面をアレンジすることに、こだわっていた。
1から考えた方が楽でも、あえて植爺作品の改稿という、制約だらけの手法でのみ考えてきた。
植爺作品の改稿案はもう2006年にえんえんやったので、もう一度考える気にならない。
植爺『ベルばら』を全部忘れ、1から好きに考えてみよう。
そう、景子先生みたいに(笑)。
『ジャン・ルイ・ファージョン』を観たとき、「植爺『ベルばら』への挑戦状か(笑)」とウケたもんなー。
そりゃ、誰だって植爺『ベルばら』がめちゃくちゃ過ぎる、フェルゼンがキチガイ過ぎる、って思ってるよなー。でも、立場的に言えないんだよなー。
言えない代わりに、しれっとこんなもん作るんだー、景子タン素敵。
自由に考えてみよう。
わたしなら、どうする? ナニを書きたい?
既存『ベルばら』の名場面も歌もナニも使わず、まったくのオリジナルで『ベルサイユのばら』をフェルゼン主人公で組み立てるならば。
……考えるのは、ほんっと楽しい。
ただの頭の体操、なんのためにもならない、ただの自己満足。
それがとてつもなく、楽しい。
『ベルばら』が、好きだから。
「ごらんなさい♪」ではじまる、タカラヅカの『ベルばら』。
アレがあると「『ベルばら』キターーッ!」ってキモチになるけど、あえて全撤去、アリモノはなにひとつ使わず、「キターーッ!」を超えるモノを考えるとしたら。
物語最初に描くのは、幕が開いてライトが点いて、最初に描くものは、フェルゼンがもっともカッコイイ場面。
チョンパではじまる光の洪水、本舞台花道銀橋、全部使ってベルサイユの超豪華舞踏会。
「タカラヅカ」ここにあり!な舞台。
登場するアントワネット、オスカル、アンドレたち、お馴染みのメンバー。
ひたすら華やかなオープニングショー。
ベルサイユ宮殿のセットは立体的で豪華なモノをどーんと作る。『フェルゼン編』なら舞台の大半はベルサイユ宮殿だもん、いろんな場面で利用可能だから、お金掛けて作ってヨシ。イケコ的な動きのあるやつ。
その豪華絢爛場面から、アンドレが、オスカルが、「いなくなる」ことがわかるように退場する。
次に音楽変わって、不穏な雰囲気に。
花道に民衆登場、武器を手に「王妃を殺せ」と叫び出す。
本舞台でアントワネットを囲んで美しく踊っていた貴族たちが、一斉に背を向ける。そのタイミングで音楽もぴたっと消えライトも消える。ぶった切り、的に、ずばっと。
中央のアントワネットだけが、強い光の輪の中に取り残される。
ただ、ひとり。
聞こえるのは民衆の呪詛の声。
そこへ。
フェルゼン登場。
膝を折っておののいていたアントワネットのもとへ進み出て、手を差し伸べる。
民衆の声も消え、ふたりだけの舞台。
「ともに死ぬためにもどってまいりました…
あなたの忠実な騎士(ナイト)にどうぞお手を…」
フェルゼンの手を取り立ち上がったアントワネットと、デュエットダンス。
そっからフェルゼンひとり銀橋へ出て主題歌ソロ。
本舞台には再び貴族たちが登場して華やかな画面へ。
花道にいる民衆たちは、今度は満面の笑顔で歓声を上げている。
舞台中央にいるのは無邪気に笑うアントワネットと、ルイ16世。アントワネットは早変わりヨロシク。
銀橋ソロの終わったフェルゼンのもとへ、お付きの従者(じいや)が現れてコートを渡す。
はい、もう一度銀橋へ足を戻す。
なんの騒ぎだ、とじいやに問うフェルゼン。
「フランス王太子とオーストリア皇女との婚礼があったのでございます」
「オーストリア皇女、マリー・アントワネットか……」
原作にあったあの会話をしつつ、今が1770年だということなんかを説明しつつ、スウェーデンの貴公子フェルゼンは留学中なんだよってことを説明しつつ、フェルゼンとじいやは銀橋を渡って今度こそ退場。
みなが口々にアントワネットを誉め讃え、彼女とフランスの栄光を歌っている。
本舞台の貴族たちも、花道の民衆たちも。
……という、オープニング。
クライマックスの革命と、幸せ絶頂の王太子妃時代を絡めて、同じ面子で同じ場面でオーバーラップ。
オープニング考えるだけで、ちょー楽しかった(笑)。
ところでわたし、フェルゼンに必要なのは、友だちだと思ってる。
フェルゼンが脇役でしかないのは、彼個人の人間関係が希薄だってのも原因のひとつ。
いつだってフェルゼンは彼単体。
対アントワネット、対オスカルでしかない。
アントワネットは恋人だし、崇拝する相手。
オスカルは親友と呼んではいるけど、恋愛絡んじゃって結局友だちにもなれず終了。
純粋に「会話する相手」すら不自由しているのが、フェルゼンの現状。
彼にいるのは、じいやひとり。
このじいやさんも、都合のいいときしか登場しないしね。
妹ソフィアも、なんのために出てきたかわかんない程度だし。
フェルゼンの会話相手として、じいやを出す。
お笑い系ではなく、美老人系で。原作がそうだし。
フェルゼンをシンプルに愛し、フェルゼンのことを考えてくれる人がひとりくらいいないと、物語が進まない。
や、現実問題、合いの手を入れる人がいないとフィクションって難しいのよ、話展開させるの。
で、もしも勝手な変更がアリなら、じいやを老人ではなくす(笑)。
もののわかった大人の男でもいいし、同世代の青年でもいい。
よーするに、オーベルシュタインか、キルヒアイスですよ、必要なのは!
フェルゼンの従者であり、良き相棒である。フェルゼンを敬っているけれど、耳に痛い進言も臆さずにする。フェルゼンも彼を信頼し、心を開いている。
絶対、「フェルゼン」の株が上がる(笑)。
原作を歪めない程度に、従者を出して会話させるの。
最後は自殺しようとするフェルゼンを、その従者に止めてもらわなきゃならないしね!(ロザリーがフェルゼンを止めるのは変。どんだけ怪力なんだ)
と、オープニングとフェルゼンの基本設定(じいや、もしくは従者連れ)を考えるだけでも楽しくて仕方なかった。
あとはざっくりとストーリーラインを考える。
てことで、続く。
わたしがもしも、『フェルゼン編』を書くならば、どうするか。
今までわたしは、「タカラヅカの『ベルばら』」の枠組みでのみ、「わたしならこうする」を考えてきた。
わたしはただの素人で、ただのヅカヲタ。そのわたしが勝手にどうこう言うのは、なんかルール違反というか「言うだけなら誰でも出来る」というか、どうも「チガウ」「しちゃいけないこと」だと思っていた。
だからわたしが「わたしなら」を考える場合は、既存の「タカラヅカの『ベルばら』」の作品や場面をアレンジすることに、こだわっていた。
1から考えた方が楽でも、あえて植爺作品の改稿という、制約だらけの手法でのみ考えてきた。
植爺作品の改稿案はもう2006年にえんえんやったので、もう一度考える気にならない。
植爺『ベルばら』を全部忘れ、1から好きに考えてみよう。
そう、景子先生みたいに(笑)。
『ジャン・ルイ・ファージョン』を観たとき、「植爺『ベルばら』への挑戦状か(笑)」とウケたもんなー。
そりゃ、誰だって植爺『ベルばら』がめちゃくちゃ過ぎる、フェルゼンがキチガイ過ぎる、って思ってるよなー。でも、立場的に言えないんだよなー。
言えない代わりに、しれっとこんなもん作るんだー、景子タン素敵。
自由に考えてみよう。
わたしなら、どうする? ナニを書きたい?
既存『ベルばら』の名場面も歌もナニも使わず、まったくのオリジナルで『ベルサイユのばら』をフェルゼン主人公で組み立てるならば。
……考えるのは、ほんっと楽しい。
ただの頭の体操、なんのためにもならない、ただの自己満足。
それがとてつもなく、楽しい。
『ベルばら』が、好きだから。
「ごらんなさい♪」ではじまる、タカラヅカの『ベルばら』。
アレがあると「『ベルばら』キターーッ!」ってキモチになるけど、あえて全撤去、アリモノはなにひとつ使わず、「キターーッ!」を超えるモノを考えるとしたら。
物語最初に描くのは、幕が開いてライトが点いて、最初に描くものは、フェルゼンがもっともカッコイイ場面。
チョンパではじまる光の洪水、本舞台花道銀橋、全部使ってベルサイユの超豪華舞踏会。
「タカラヅカ」ここにあり!な舞台。
登場するアントワネット、オスカル、アンドレたち、お馴染みのメンバー。
ひたすら華やかなオープニングショー。
ベルサイユ宮殿のセットは立体的で豪華なモノをどーんと作る。『フェルゼン編』なら舞台の大半はベルサイユ宮殿だもん、いろんな場面で利用可能だから、お金掛けて作ってヨシ。イケコ的な動きのあるやつ。
その豪華絢爛場面から、アンドレが、オスカルが、「いなくなる」ことがわかるように退場する。
次に音楽変わって、不穏な雰囲気に。
花道に民衆登場、武器を手に「王妃を殺せ」と叫び出す。
本舞台でアントワネットを囲んで美しく踊っていた貴族たちが、一斉に背を向ける。そのタイミングで音楽もぴたっと消えライトも消える。ぶった切り、的に、ずばっと。
中央のアントワネットだけが、強い光の輪の中に取り残される。
ただ、ひとり。
聞こえるのは民衆の呪詛の声。
そこへ。
フェルゼン登場。
膝を折っておののいていたアントワネットのもとへ進み出て、手を差し伸べる。
民衆の声も消え、ふたりだけの舞台。
「ともに死ぬためにもどってまいりました…
あなたの忠実な騎士(ナイト)にどうぞお手を…」
フェルゼンの手を取り立ち上がったアントワネットと、デュエットダンス。
そっからフェルゼンひとり銀橋へ出て主題歌ソロ。
本舞台には再び貴族たちが登場して華やかな画面へ。
花道にいる民衆たちは、今度は満面の笑顔で歓声を上げている。
舞台中央にいるのは無邪気に笑うアントワネットと、ルイ16世。アントワネットは早変わりヨロシク。
銀橋ソロの終わったフェルゼンのもとへ、お付きの従者(じいや)が現れてコートを渡す。
はい、もう一度銀橋へ足を戻す。
なんの騒ぎだ、とじいやに問うフェルゼン。
「フランス王太子とオーストリア皇女との婚礼があったのでございます」
「オーストリア皇女、マリー・アントワネットか……」
原作にあったあの会話をしつつ、今が1770年だということなんかを説明しつつ、スウェーデンの貴公子フェルゼンは留学中なんだよってことを説明しつつ、フェルゼンとじいやは銀橋を渡って今度こそ退場。
みなが口々にアントワネットを誉め讃え、彼女とフランスの栄光を歌っている。
本舞台の貴族たちも、花道の民衆たちも。
……という、オープニング。
クライマックスの革命と、幸せ絶頂の王太子妃時代を絡めて、同じ面子で同じ場面でオーバーラップ。
オープニング考えるだけで、ちょー楽しかった(笑)。
ところでわたし、フェルゼンに必要なのは、友だちだと思ってる。
フェルゼンが脇役でしかないのは、彼個人の人間関係が希薄だってのも原因のひとつ。
いつだってフェルゼンは彼単体。
対アントワネット、対オスカルでしかない。
アントワネットは恋人だし、崇拝する相手。
オスカルは親友と呼んではいるけど、恋愛絡んじゃって結局友だちにもなれず終了。
純粋に「会話する相手」すら不自由しているのが、フェルゼンの現状。
彼にいるのは、じいやひとり。
このじいやさんも、都合のいいときしか登場しないしね。
妹ソフィアも、なんのために出てきたかわかんない程度だし。
フェルゼンの会話相手として、じいやを出す。
お笑い系ではなく、美老人系で。原作がそうだし。
フェルゼンをシンプルに愛し、フェルゼンのことを考えてくれる人がひとりくらいいないと、物語が進まない。
や、現実問題、合いの手を入れる人がいないとフィクションって難しいのよ、話展開させるの。
で、もしも勝手な変更がアリなら、じいやを老人ではなくす(笑)。
もののわかった大人の男でもいいし、同世代の青年でもいい。
よーするに、オーベルシュタインか、キルヒアイスですよ、必要なのは!
フェルゼンの従者であり、良き相棒である。フェルゼンを敬っているけれど、耳に痛い進言も臆さずにする。フェルゼンも彼を信頼し、心を開いている。
絶対、「フェルゼン」の株が上がる(笑)。
原作を歪めない程度に、従者を出して会話させるの。
最後は自殺しようとするフェルゼンを、その従者に止めてもらわなきゃならないしね!(ロザリーがフェルゼンを止めるのは変。どんだけ怪力なんだ)
と、オープニングとフェルゼンの基本設定(じいや、もしくは従者連れ)を考えるだけでも楽しくて仕方なかった。
あとはざっくりとストーリーラインを考える。
てことで、続く。
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