星組再演『ロミオとジュリエット』初日、幕開きのナレーション@エマさんの安定ぶりに記憶をくすぐられ、個人的にツボった。
 彼の語る「古今東西……」というナレーションを聞くと、「ああ、『ロミジュリ』だなあ」と思う。

 そして。
 思い出すわけだ、エマさん以外の、このナレーションを。

 タカラヅカでプレスギュルヴィック版『ロミジュリ』が上演されたのは、4回。
 冒頭には必ずナレーションが入っている。

2010年 星組 英真なおき
2011年 雪組 未涼亜希
2012年 月組 英真なおき
2013年 星組 英真なおき

 1回だけ、チガウ。ひとりだけ、チガウ。
 3回のうち2回、までなら「再度」だけど、4回のうち3回になるとそれはもう「専任」ってことじゃね?
 ABAならたまたまでも、ABAAとなると、AがスタンダードでBが異端ぢゃね?

 エマさん専任、みたいなナレーションを、1回限りとはいえまっつがやっていること。
 それが、初日にツボったこと。
 プロローグの音楽が流れると、わたしの頭はふたつのことを同時に考える。
 ああ、『ロミジュリ』だ。『ロミジュリ』といえばエマさんの「古今東西」だよな。
 ああ、『ロミジュリ』だ、ここでまっつの美声が流れるんだよな。
 エマさんを「お約束」と考える部分と、ご贔屓の声を再生する部分と。
 同時に、動き出すのよ、わたしののーみそったら。

 まっつはほんと、イケコに実力を買われているよなと。
 イケコ舞台では重責を担うことが多い。
 このナレーションもまた、その現れのひとつだよな。

 『ロミジュリ』といえば、ロレンス神父の語りではじまる……そんなイメージが定着しているだろう。
 でも、雪組版だけは、ベンヴォーリオの……ただひとり生き残ってしまったあの哀しい青年の語りなんだよ。
 や、どちらにしろ、ナレーションはナレーションとして独立しているとしても。
 考え方のひとつとして、作中キャラの語りだと想像するのは自由。

 体格的にも色的にも、とてつもなくバランス良くまとまっていたあのコロボックルトリオ……キムちぎまつ、狂気と孤独をにじませたロミオの物語を語る、ベンヴォーリオ……そこへ記憶が揺れて戻っていくわけさ。

 あのナレーションを語っているのが、ベンヴォーリオだとしたら。
 地面に膝を付き、「何故」「罪びと」を歌っていた、あのベンヴォーリオが、時を経て大人になり、青春のときを振り返りながら語っているのだとしたら。
 親友も宿敵も目の前で死に、王国の崩壊をなすすべもなく見守り、ただひとり取り残され……「大人」になるしかなかった、あの哀しい男が。

 最初から「大人」で、「人格者・識者」である神父が語るよりも、痛々しく、切ないよな。

 ああだからなお、雪組版『ロミジュリ』は切なさが鋭利ないろを放っているのか。
 そんな、詮なき自分の記憶に、思いに乱れる。
 目の前の舞台を観ながら。

「愛と死に彩られた、ロミオとジュリエットの物語をはじめよう……」

 愛しい物語。
 愛しすぎて、かなしい、ものがたり。

コメント

日記内を検索