オスカルの決意。~「嫌い」物語~@ベルサイユのばら
2013年7月15日 タカラヅカ わたしは、植爺の『ベルサイユのばら』が嫌い。
嫌いな理由は星の数ほどあるけれど、中でも最大級に嫌いなことを語る。
嫌いというか……疑問?
植爺は、『ベルサイユのばら』という物語の最高のクライマックス、パリ出動の意味を、まったく理解していないよな?
わたしが間違っているだけかもしれんさ。
でもわたしはわたしの意識、感情において、植爺の考える「パリ出動」~「オスカル戦死」までが、許せない。
1789年7月13日。
オスカルは衛兵隊を率いて、パリへ出動する。
パリには国王軍が集結、民衆たちはそれに対し、武装蜂起を辞さない覚悟。
まさに、一触即発。
パリへ出動するということは、戦場へ行くと同義語。
てことで、植爺『ベルばら』では、ジェローデルだーのジャルジェ家の人々だーのが、大騒ぎする。「オスカルを止めてください。オスカルは女なんですよ、女なのにそんな危険なところへ行くなんて……!!」と。
たしかにオスカルは7月14日のバスティーユの戦闘で落命する。戦死するくらい激しい戦闘でだったわけで、そんなところへ行くのだから、家族が心配して止めるのは当たり前。
と、植爺は考えている、らしい。
ちょっと待ってくれ。
オスカルが戦死するのは「結果」だ。
出動前には誰もそんなこと知らない。
第一。
国王軍とパリ市民たちは、武力に圧倒的な差があるんだってば。
国王軍の将校である限り、戦死のリスクはとっても低い。
相手は訓練を受けたわけでもない、烏合の衆。かき集めた銃器を持っているとはいえ、素人の集まりだ。軍隊の敵ではない。
圧倒的な武力差があり、国王軍としては「暴動鎮圧」認識。「勝つ見込みの薄い戦場へ、二度と帰らぬ覚悟で赴く」わけじゃない。
そして、オスカルは軍人だ。それも、昨日今日入隊したばかりの新米じゃない。この道20年のベテランで、首飾り事件や黒い騎士事件など、兵を率いて行動したり、命を賭して任務に当たっている。今にはじまったことじゃない。
だからジャルジェ家の人々が大騒ぎするのはおかしい。
現に王宮では宴会してたんだ。勝利が当たり前だから。ベルサイユに出仕する貴族のジャルジェ家だって、その空気の中にいるべきだろう。身内を心配する気持ちとは別にして。
ジャルジェの人々が「女なのに」と大騒ぎする場面を見るたび、嫌悪感で苛立つ。
『ベルサイユのばら』と銘打っている物語なのに、この舞台を書いている作者(植爺)が、『ベルサイユのばら』をまったく理解していないことがわかるからだ。
植爺は、オスカルが結果として「死ぬ」から、「パリへ行くという話は重要」だと思っている。生死という「目に見えること」しか、わかっていない。
植爺が原作を理解していない、そもそも読んだこともないんじゃないかと思うのは、そこだ。
オスカルがパリで死ぬのは結果でしかない。
問題はソコじゃない。
パリ出動が何故、物語のクライマックスなのか。
主人公が「死ぬ」からじゃない。
オスカルという人物の、「心」が「生き方」が、最大の変化を、「答え」を得るからこそ重要なんだ。
出動命令を受けたあと。
オスカルが思い悩んでいるのは、「死ぬかもしれない」ことではない。「身分を、家族を、国王一家を、それまでの自分の人生すべてを捨てて、民衆の側に付くかどうか」だ。
つまり、革命に身を投じるかどうかだ。
そして、パリへ出動する前に、オスカルは答えを出している。
だから「前夜」があれほど緊迫している。
オスカルはもう、二度とここへは戻らないと、覚悟を決めている。
「出動であって、出撃ではない」……最後の賭け。もしこのまま、国王軍が民衆に対し攻撃を仕掛けなければ、まだ信じようと思う。だけど、戦闘になるならば……民衆側に、付く。
「民衆に銃を向けろとおっしゃるのですか」と動揺する衛兵隊に「わたしが直接指揮をとる」と言うのは、国王でも貴族たちでもなく、自分個人を信じてついてこいと言うのは、その決意があったからだ。
でもこの決意は、誰にも言えない。アンドレにさえ。
「わたしが臆病者にならぬよう、しっかりとそばについていてくれ」……そう言うのみ。
そしてアンドレは、オスカルの言葉にしない覚悟を察している。
パリへ出動したあと、オスカルがまだ行動を起こさないことに「なぜオスカルはだまっている?」と疑問を持っていたように。で、暴動発生を知ったオスカルが「自由であるべきは心のみにあらず!」と民衆側に付くのを黙って見守った。
オスカルが「決断」するのは、「出動前」だ。
「勝つ見込みの薄い戦場へ、二度と帰らぬ覚悟で赴く」かのように空気が濃いのは、彼女が民衆側付くつもりだから。
愛する父にも母にも、二度と会えない。会わない。そうわかっているからこそ、別れの挨拶をしている。
「たとえなにがおころうとも、父上はわたくしを卑怯者にはお育てにならなかったと、お信じくださってよろしゅうございます」
父もまた、すべてを察し、受け止めている。「いくがいい、おまえのえらんだ道を。その情熱の命ずるままに…」
ばあやだけは引き留めているし、泣き言も言っているけれど、彼女は「命が危険だから行かないで」とは、ひとことも言ってない。「女なのに、そんな危険なところに行くなんて」とは、言ってない。
オスカルが戻らないのではないかという「別れの予感」に泣いている。
オスカルの決意、覚悟に対し、作中ではあえて、言葉にされていない。
7月13日、パリで暴動発生の報を受け、そこで突然オスカルが勲章をむしり取る、その「転身」がより際立つように、あえて前宣伝をしていないんだ。
だけど、それまでの彼女の考え方、性格、物語の流れを理解していれば、言葉がなくてもわかる。
決めていたんだ、と。
続く。
嫌いな理由は星の数ほどあるけれど、中でも最大級に嫌いなことを語る。
嫌いというか……疑問?
植爺は、『ベルサイユのばら』という物語の最高のクライマックス、パリ出動の意味を、まったく理解していないよな?
わたしが間違っているだけかもしれんさ。
でもわたしはわたしの意識、感情において、植爺の考える「パリ出動」~「オスカル戦死」までが、許せない。
1789年7月13日。
オスカルは衛兵隊を率いて、パリへ出動する。
パリには国王軍が集結、民衆たちはそれに対し、武装蜂起を辞さない覚悟。
まさに、一触即発。
パリへ出動するということは、戦場へ行くと同義語。
てことで、植爺『ベルばら』では、ジェローデルだーのジャルジェ家の人々だーのが、大騒ぎする。「オスカルを止めてください。オスカルは女なんですよ、女なのにそんな危険なところへ行くなんて……!!」と。
たしかにオスカルは7月14日のバスティーユの戦闘で落命する。戦死するくらい激しい戦闘でだったわけで、そんなところへ行くのだから、家族が心配して止めるのは当たり前。
と、植爺は考えている、らしい。
ちょっと待ってくれ。
オスカルが戦死するのは「結果」だ。
出動前には誰もそんなこと知らない。
第一。
国王軍とパリ市民たちは、武力に圧倒的な差があるんだってば。
国王軍の将校である限り、戦死のリスクはとっても低い。
相手は訓練を受けたわけでもない、烏合の衆。かき集めた銃器を持っているとはいえ、素人の集まりだ。軍隊の敵ではない。
圧倒的な武力差があり、国王軍としては「暴動鎮圧」認識。「勝つ見込みの薄い戦場へ、二度と帰らぬ覚悟で赴く」わけじゃない。
そして、オスカルは軍人だ。それも、昨日今日入隊したばかりの新米じゃない。この道20年のベテランで、首飾り事件や黒い騎士事件など、兵を率いて行動したり、命を賭して任務に当たっている。今にはじまったことじゃない。
だからジャルジェ家の人々が大騒ぎするのはおかしい。
現に王宮では宴会してたんだ。勝利が当たり前だから。ベルサイユに出仕する貴族のジャルジェ家だって、その空気の中にいるべきだろう。身内を心配する気持ちとは別にして。
ジャルジェの人々が「女なのに」と大騒ぎする場面を見るたび、嫌悪感で苛立つ。
『ベルサイユのばら』と銘打っている物語なのに、この舞台を書いている作者(植爺)が、『ベルサイユのばら』をまったく理解していないことがわかるからだ。
植爺は、オスカルが結果として「死ぬ」から、「パリへ行くという話は重要」だと思っている。生死という「目に見えること」しか、わかっていない。
植爺が原作を理解していない、そもそも読んだこともないんじゃないかと思うのは、そこだ。
オスカルがパリで死ぬのは結果でしかない。
問題はソコじゃない。
パリ出動が何故、物語のクライマックスなのか。
主人公が「死ぬ」からじゃない。
オスカルという人物の、「心」が「生き方」が、最大の変化を、「答え」を得るからこそ重要なんだ。
出動命令を受けたあと。
オスカルが思い悩んでいるのは、「死ぬかもしれない」ことではない。「身分を、家族を、国王一家を、それまでの自分の人生すべてを捨てて、民衆の側に付くかどうか」だ。
つまり、革命に身を投じるかどうかだ。
そして、パリへ出動する前に、オスカルは答えを出している。
だから「前夜」があれほど緊迫している。
オスカルはもう、二度とここへは戻らないと、覚悟を決めている。
「出動であって、出撃ではない」……最後の賭け。もしこのまま、国王軍が民衆に対し攻撃を仕掛けなければ、まだ信じようと思う。だけど、戦闘になるならば……民衆側に、付く。
「民衆に銃を向けろとおっしゃるのですか」と動揺する衛兵隊に「わたしが直接指揮をとる」と言うのは、国王でも貴族たちでもなく、自分個人を信じてついてこいと言うのは、その決意があったからだ。
でもこの決意は、誰にも言えない。アンドレにさえ。
「わたしが臆病者にならぬよう、しっかりとそばについていてくれ」……そう言うのみ。
そしてアンドレは、オスカルの言葉にしない覚悟を察している。
パリへ出動したあと、オスカルがまだ行動を起こさないことに「なぜオスカルはだまっている?」と疑問を持っていたように。で、暴動発生を知ったオスカルが「自由であるべきは心のみにあらず!」と民衆側に付くのを黙って見守った。
オスカルが「決断」するのは、「出動前」だ。
「勝つ見込みの薄い戦場へ、二度と帰らぬ覚悟で赴く」かのように空気が濃いのは、彼女が民衆側付くつもりだから。
愛する父にも母にも、二度と会えない。会わない。そうわかっているからこそ、別れの挨拶をしている。
「たとえなにがおころうとも、父上はわたくしを卑怯者にはお育てにならなかったと、お信じくださってよろしゅうございます」
父もまた、すべてを察し、受け止めている。「いくがいい、おまえのえらんだ道を。その情熱の命ずるままに…」
ばあやだけは引き留めているし、泣き言も言っているけれど、彼女は「命が危険だから行かないで」とは、ひとことも言ってない。「女なのに、そんな危険なところに行くなんて」とは、言ってない。
オスカルが戻らないのではないかという「別れの予感」に泣いている。
オスカルの決意、覚悟に対し、作中ではあえて、言葉にされていない。
7月13日、パリで暴動発生の報を受け、そこで突然オスカルが勲章をむしり取る、その「転身」がより際立つように、あえて前宣伝をしていないんだ。
だけど、それまでの彼女の考え方、性格、物語の流れを理解していれば、言葉がなくてもわかる。
決めていたんだ、と。
続く。
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