植爺の『ベルサイユのばら』が嫌い。
 その際たるモノ、わたしと植爺との、完全な認識のズレを、語る。前日欄からの続き。


 オスカルが貴族であることを捨て、革命に身を投じる決意をしたのはいつか。

 わたしは、「パリ出動前」だと思っている。


 1789年7月11日。
 オスカルはパリへ出動命令を受ける。

 冷静さを失ったオスカルは、アンドレの存在によって自分を取り戻す。
「わたしが臆病者にならぬよう、しっかりとそばについていてくれ」

 たぶん、この11日の夜には、アンドレの胸にすがっているときには、決意していたのだと思う。
 言葉には出せないけれど。

 7月12日。
 アランたち衛兵隊士に命令を伝える。オスカルは自分が直接指揮を執ると言い、アランはそれならば従うと答える。
 そして、「今宵一夜」。

 7月13日、出動。

 作中の人々は、オスカルに近しい人は、みな予感している。アンドレはもちろん、家族も、アランたち衛兵隊も。
 オスカルとわかり合えないところにいるアントワネットですら、予感に取り乱す、衛兵隊の指揮を執るのがオスカルだと知った途端、「オスカルをとめるのです!」と。

 
 予感、緊張、沈黙。
 声高に騒がないのに、外堀が徐々に埋められていくように、答えに向かってすべてが動いている。
 オスカルとアンドレの「今宵一夜」もそうだ。
 物語がしんと張り詰め、透明感を増し、緊張しているのは、「死ぬかもしれない戦場へ行く」からじゃない。
 「すべてを捨てて、生まれ変わる」ためだ。


 なのに。

 植爺は、「死ぬ」からだと思ってる。

 だから、「あなたはオスカルがかわいくないんですか。大切な我が子をそんな危険なところへやるなんて」と、「命」だけの話でぎゃーすか騒ぐ。

 オスカルはのんきに「この部屋とも当分お別れだな…私はこの部屋の中で育ってきた。悲しみや喜びもこの部屋の中で一杯に感じてきた。その青春に幕を下ろして、いよいよ明日からはまた別の人生が始まるのだ! さようなら…私の青春…!」とかうっとりしている。

 で、明日死ぬかもしれない、だからセックスする。
 兵隊が娼館へ行くのと同じノリで、「今宵一夜」を考えている。

 いざ戦闘がはじまったとなると、オスカルは立ち尽くし、
「オスカル! 君は我々に銃を向けるのか?」
「オスカルさま! お願いです! みなさんは祖国の名もなき英雄になってください!」
「我々は隊長の命令を待っているんだ!」
「オスカルの命令など待つ必要はない! 衛兵隊の指揮官はこの私だ! 撃て! 撃って暴徒たちを壊滅させろ! どうした?オスカル! 女の肝ッ玉では恐ろしくて脅えているのか!」
 などという、めーーーーっちゃ長い間、身の振り方を悩む。

 で、さんざん周囲に発破を掛けられ、決断を迫られたあとで優柔不断によーーやく決意、
「さあ、諸君、選び給え。国王の、貴族の道具として民衆に銃を向けるか、自由な市民として民衆と共にこの輝かしい偉業に参加するか!」
 と、さも自分で決めたことのように言う。
 けど、それもアランの台詞で即否定。
「隊長! よく決心してくださいました」……みんなで説得して、しぶしぶうなずいた人にかける言葉ですよそれ。能動的に、先頭切って決意した人への言葉じゃないです。


 植爺は、オスカルが反逆を決意したのが、パリでだと思っている。
 出動前夜までに決意したとは、思ってない。だって、言葉で、書いてないからだ。

 実際に原作で、オスカルが言葉に出して言ったのが、パリだから。そのときに決意したんだと。

 言葉にはあえて出さず、あんなに慎重に繊細に「行間を読み取る」演出がされていたにも関わらず。

 で、言葉で書いてないからきっと、不思議だったんだろう。
 どうしてこんなに緊張した空気が流れているのか。まるで、これが人生最後の日みたいに。
 あ、そうか、出撃して死んじゃうんだもんな。だから「これが最後」的な空気なんだ!
 じゃあ舞台ではそれを盛り上げなきゃな。家族に泣いて止めさせよう、命の危険のあるところへ行くなんてとんでもない、と。だって女だもんな。女が戦場へ行くなんてとんでもないもんな。女女女!
 原作では、オスカルは悩みもせずに民衆側に付くと決めている。なんてまずい演出だ! 一大事なんだから、もっと悩ませなきゃ! ベルナールやロザリーが哀願し、民衆や衛兵隊が騒ぐ、ブイエ将軍が罵る、それでオスカルはどうしようか悩むんだ。
 悩んだ末に、ようやく決意するんだ、弱い民衆を護ってやらなきゃって。

 ははは、オスカルが革命に参加する理由は「弱い民衆を護るため」なんですってよ。
 ははは、そんな理由で今までのすべてを捨てたんだってさー。ヒーローは違うねー。義侠心に富んでるねー。

 植爺の感性、想像力の、限界。
 ナニ不自由なく暮らすお貴族様(ナニかっちゃー「貴族」連呼する作風)が、それら恵まれたモノを全部なげうつ理由は、義侠心。弱いモノを助けてあげなきゃ!

 オスカルの人生、ナニを知りナニに苦しみ、ナニを選んだか。
 まーーーーったく、カケラも、1ミリたりとて、理解してないのですよーー。


 …………ほんとに、心から、魂のそこから、大嫌いだ。
 この、原作レイプ。

 作品を読む能力のない情緒無しじじいは出てくんなっ。

 作品のもっとも大切な部分を、クライマックスを、カケラも理解してないってどうなの。
 パリ出動からバスティーユ前までのエピソードは、すべて嫌い、嫌で嫌で仕方がない。
 カーテン前で騒ぐジャルジェ家の人々、オスカルの「この部屋とも当分お別れだな」KY台詞、「オスカルさま! お願いです! みなさんは祖国の名もなき英雄になってください!」を筆頭にしたオスカル優柔不断場面、「誰かが弱い市民を護ってやらなければ」というオスカルの行動をカケラも理解していない台詞……大嫌いだ。

 バスティーユだって、長らくひどい台詞でやってきたもんな。オスカルの私怨、としか思えない無神経台詞。植爺の感性ではそれが正義だったんだろうけど。(別項で語る)

 「今宵一夜」も「バスティーユ」も、場面としては好きだ。
 「イベント」として好き、楽しい。
 そのエンタメとしての演出力は、素晴らしいと思う。

 また、演じているタカラジェンヌはどんなひどい脚本も吹き飛ばす勢いで、「ファンタジー」として成立させる力を持っている。
 ジェンヌが魂を込めて演じている限り、タカラヅカの『ベルサイユのばら』の価値は揺るがないと信じている。

 だけど、「物語」「芝居」としては、許せない。

 ほんっとに、心の底から嫌いだ、植爺『ベルばら』。

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