花組初日に行ってきました。

 『愛と革命の詩-アンドレア・シェニエ-』を観て受け取ったメッセージは、「ファンレターは出すものだ」とゆーことでした……。

 芸能人でもタカラジェンヌでも作家でも、好きな人にはばんばんファンレター書こうよ! 感想を伝えようよ!
 ひょっとしたら、スターさん本人から返事が来たり、会えたり、恋人になれちゃうかもしんないぞ!

 そーいやわたし昔、そうやって、大ファンだったマンガ家さんと友だちになることができたわ。
 書いて送ったのはマンガの感想とかファンレターと呼べるモノではなく、その号に載っているマンガをネタにしたツッコミやパロディを、つたない絵でマンガにして毎月「読者ページ」へ送りつけたんだ……。掲載されて、マンガ家さんからコメントもらえるのうれしかったし。
 痛い。今考えると、めちゃくちゃ痛い。いやそのわたしも若かったんだ。
 でもさー、アホな行為もやってみるもんだよなあ。向こうから連絡来たもんよ、「会いましょうよ」と。
 わたしはただの1ファンで、ファンレター(はがき1枚のマンガだったが)を毎月描き続けていただけ、だったのに。
 「大好きです」という気持ちは届くもんなんだと、感動したっけ。

 そんなことを思い出した。

 みんな、ファンレターを書こうぜ!!

 …………マッダレーナ@蘭ちゃんは、えんえんシェニエさん@らんとむにファンレターを書き続けた。
 そしたらシェニエさんが「会おうよ」ってお返事くれて、いっぺん会ったらあっちゅー間に恋人ですよ。
 ああ、両思いだね、良かったね……と思った次の瞬間恋人たちが何組も夢夢しく愛のデュエットダンス、だからマツダ姫とシェニエさんもこのノリでラヴラヴデュエットなのね、真ん中が開いて登場するのね……と思ったら、真ん中でいきなりふたりして一緒に寝てたので、「早っ!!」と目を剥きました(笑)。


 冗談はさておき、『愛と革命の詩』はとっても景子タンな感じの作品でした。
 きれいで凝っていて、薄い。
 バウだともっと楽しいものを作る人なのに、大劇だと途端薄くなるよなー。主人公の造形がゆるくなるから?

 景子せんせのお得意は「苦悩するクリエイターもの」。たぶん、景子せんせ自身が主人公なんだろう、「創造する」ことに対しての苦悩やこだわりをメインに据えたもの。
 でも、「創作すること」に悩まない主人公=ヒーロータイプを真ん中にすると、途端生彩を失う。
 創作とは生きること、仕事とは人生。景子せんせ作品のこだわり。
 そこに悩みの根幹がないと、わりと楽に表層だけで生きられてしまうので、主人公に、「やること」がない。
 『ジャン・ルイ・ファージョン』でも感じたんだけど、クリエイターとしてどうこう、というテーマでない主人公(それでも職業はクリエイター)は、ストーリーの中で受動的というか、所詮巻き込まれ型、基本なーんもしない、流されてしまう感じ。

 シェニエさんの創作スタンスは、決まっている。
 なにしろ「高潔すぎる魂を持った詩人」ですから。設定に、すでに書かれているわけですよ、「高潔すぎる」と文章で。
 答えが出てるんですわ。
 だからシェニエさんは「クリエイターとして」は悩まないの。
 そりゃうまくいかないことはあるから大変なんだけど、彼は最初から「高潔」「高尚」「至宝」と決まっているので、いつもの景子タンの「創造する苦しみ」は持たないの。根っこは揺るがないの。
 「高潔」な彼は正しくて、彼を損なう人々や時代が間違っている。
 シェニエさん自身が躓いて悩んで苦しんで、新しい自分へステップアップするわけじゃないの。

 で、正しいシェニエさんが間違った人々や時代を、その高潔な能力で戦いを挑み、周囲を変える……こともない。
 負けるのはシェニエさんの方。

 主人公は最初から最終形態で成長も変化もなく、そして周囲も変わらず、主人公が負けて終わる。
 景子タンの得意技、「ストーリー終了後に、テーマを台詞で語る人々が出てくるエピローグ」で「答え合わせ」して完了。シェニエさんは素晴らしいんだよ、と。

 むー……。
 難しい題材だよな、シェニエさん。

 彼が「ヒーロー」なのはいい。
 彼は彼の武器である「詩」を使って、時代に物申している。……らしい。

 らしい、というのは、それが観ているわたしたちに、伝わりにくいんだ。

 シェニエさんの素晴らしい詩で、ジャコバン党の危うさを人々に訴えたとする。シェニエさんの主張の正しさを、盲目状態の民衆に訴えたとする。苦しむ罪なき人々へ、勇気となる言葉を綴ったとする。
 だがその「素晴らしい詩」「正しい主張」「勇気となる言葉」というのを、舞台上で、表現出来ないんだ。

 だって、「詩」だし。

 わたしはシェニエさんの詩を知らないのだけど、彼の書いた原詩の訳文を舞台でそのまま読み上げても、現代日本人のわたしたちは「ストーリー上必要なだけの感動」は得られないと思う。

 『Paradise Prince』の「300万ドルの絵」みたいなもんさ。
 作品の中では、「300万ドル」に相応しい感動を与える絵、という設定なんだが、実際に見せられた絵は、子どもの落書きのようなツギハギ絵。観客はぽかーん。
 絵として「いい絵ね」と思うことと、舞台上で大どんでん返しを成立させる説得力を持つことは、別。
 カタルシスを創り出す「芸術」を、舞台上で表現するのは難しいんだってば。

 クライマックスに「ここぞ!」とばかりに差し出せるものじゃないのなー、「詩」って。
 だからシェニエさんの「かっこいいところ」を描くのが難しくなっている。

 直接の武器も必殺技も出せないからか、革命への関わり方も薄いし、友人たちとの関係も薄い。
 恋愛は一応がんばって描いている方だと思うけど(比較対象『クラシコ・イタリアーノ』・笑)、ヒロインが心を動かすのが主人公の武器、必殺技……つまりは「詩」なわけで、ここでも直接それを出せないので、なんでヒロインがそこまで心を動かしたのかは、濃く描けない。

 全体的に説得力がないまま、きれいな画面と雰囲気だけで、話が進む。
 決定打を出すことはせず、雰囲気だけで押し通す。

 革命か恋愛か、どっちかに絞れば良かったのに。
 両方手を出して、両方薄い……。

 そして、シェニエさんの必殺技を、2500人劇場で説得力を持たせるように、表現方法を突き抜けて考えるべきだったなー。
 多少ベタになったとしても、わかりやすく。

 恋敵のジェラールさん@みりおくんは、役割の半分をみーちゃんに持って行かれているためか、こちらも薄いです。
 『My dear New Orleans』で、2番手のれおんくんの役を膨らませなきゃならないのに、退団するしいちゃんに役割半分与えたために、どっちの役も半端になった、アレをそのまま見せられた気がします。とってつけた銀橋ソロごと。
 や、しいちゃんスキーだしみーちゃんスキーなので、かっこいい彼らを観られてうれしいですが、作品的にはどうやねん、と(笑)。

 景子せんせの悪いところがいっぱい出た作品だなあ、という感想。


 でも。
 とにかくきれいで、景子せんせのいいところもいっぱいある作品。

 薄くて散漫なのは、公演が進めばキャストが力業でなんとかしてくれることでしょう。
 舞台上にいっぱい出てて、目が忙しい。きれいだし、おしゃれだし、タカラヅカ的な要素もいっぱいあるし、リピートすれば楽しくなると思う。
 つか、各キャストは楽しいのよ~~。ストーリーと作品自体はいろいろ残念なんだけど。

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