100年を思う。@悠未ひろ退団発表
2013年8月18日 タカラヅカ 8月17日午後、ムラへ向かう電車の中で、ともちん退団を知りました。
ただ寂しいです。
そして、舞台のみーちゃんを見ながら、さらに寂しくなりました。
で、観劇中に突然ひでー頭痛が襲ってきて、とりあえず鎮痛剤飲んでやりすごし、家に帰る電車の中でさらにひでー頭痛になり、その日は倒れ込むように寝込んで終了。
知恵熱、というか、ストレス性の偏頭痛かしら……。
いろいろ考えちゃったからなあ。ともちんだけでなく、まっつのことも。
そして今さらながらに、宙組の偏ったラインアップをうらめしく思う(笑)。
や、わたしの思考回路はこうです。
ともちん、辞めるにしたってなんで『風と共に去りぬ』なの、植爺一本モノでショーなしとかつらすぎる→次の公演まで卒業するの待ってよ→げ、次も『ベルばら』、植爺一本モノだ→退団者に優しい公演が1年間ないのが宙組の現実!!
……アタマ悪いから、気づいてなかったの。植爺一本モノ連続はひどい、と憤るのは作品への嫌悪と生徒の出番のなさについてであって、退団者のことまでは考えが至ってなかった。
卒業を考える生徒さん、覚悟するファンが、「この作品なら……」と思える公演が、1年間ナイってどんだけ……。
みーちゃんサヨナラショー状態になっている『Mr. Swing!』の後半を観ながら、「ショー付き公演なら、ともちんだって1場面もらうことはできたろうに」と、切なかった。
ゆみこやすずみんは1場面どころでなくサヨナラ色の強い作品で卒業したし、番手付きスターに限らず、ポジションや学年に従ってなにかしら餞場面や扱いをされるのが、最近の常。
タカラヅカが新陳代謝を繰り返す劇団であるからには、「卒業」は最大のイベントである。そしてこのイベントという観点での舞台演出は、退団者とそのファンにだけ意味があるわけじゃない。彼らにとってそれが特別なのは言うまでもないが、退団しない生徒と退団者のガチなファン以外にも、特別なものだ。
「見送る」人々を眺めるのも、「タカラヅカ」なんだ。
タカラヅカが特別な場所である証。巣立っていく者と、そこに残り、見送る者、どちらも愛情にあふれ誠意を尽くし舞台を作り上げる。餞演出のされたショー場面では、とくにその「出会いと別れをくり返すタカラヅカの美しさ」を味わえる。人生の縮図のように。
そーゆー意味で、ショー作品が1年間存在しないラインアップは、組子たちの人生設計にも関わってくるんだろうなあと思ってみたり。
……ショー作品でなら、ともちんもポジションと学年に相応しく送り出してもらえたろうになあ。「サヨナラショー」の有無ではなく、公演本編の話ね。
タカラヅカ100年についても考えた。
いやその、花組公演を観ながら。
わたしがヅカヲタになったのなんて、100年の歴史の4分の1にも満たない。自分のヅカヲタ人生を振り返り、タカラヅカのすごさを改めて思う。
わたしは生で観劇できる立地に生まれ育ったため、映像にほぼ興味なく来たけれど、出会ったヅカファンの多くは当たり前に「映像で見た」と言う。それこそ、自分の生まれる前の公演すら、スターすら、自然に受け入れている。
大昔はともかく、公演ビデオが発売される時代よりあとのタカラヅカは、それが何年前であっても消えることなく生き続けるんだろう。映像の残っていない時代のスターさんをdisる意味ではなくて、単純に今「見る」ことが出来るかどうかの話。
ヅカヲタは過去時代の映像もふつーに見るもんなあ。「出会う」よなあ。だって過去映像の中に、現在のスターさんたちがいるんだもの。群舞の中だったり、ほんのちょい役だったり。
それが「続く」ということ。
それが、「タカラヅカ」のすごさ。
過去は現在に続き、未来へつながる。
なんでそんな思考になったかというと、今観ている花組公演、これもまたいずれ「過去」になり、10年20年後にヅカヲタになった娘さんが「友だちから借りたメディアで、蘭寿とむさんを見た。めちゃくちゃ素敵だった。20年早く生まれたかった!」とか言うんだろうなー、いや、そんな未来でなくてもほんの3年後に「春風さんの最後の銀橋の歌、生で聴きたかった!」と拳を握る新規ファンの娘さんが現れたりするんだろなー、って思ったんだ。
ともちんのことだって、きっときっと、これから未来のいろんな人が「悠未ひろかっこいい」って言うんだ。
だって、それが「タカラヅカ」だから。100年続いてきた世界だから。
卒業しても、その功績が消えるわけじゃない。消えてたら、ヅカは100年続いてない。
タカラヅカってすごいな。100年は伊達じゃないな。
……そんなこと考えて泣いてたら、ひどい頭痛に襲われてね……。
功績が消えるわけじゃないけど、新しい悠未ひろを見られることがなくなるのが、寂しくてならない。
ただ寂しいです。
そして、舞台のみーちゃんを見ながら、さらに寂しくなりました。
で、観劇中に突然ひでー頭痛が襲ってきて、とりあえず鎮痛剤飲んでやりすごし、家に帰る電車の中でさらにひでー頭痛になり、その日は倒れ込むように寝込んで終了。
知恵熱、というか、ストレス性の偏頭痛かしら……。
いろいろ考えちゃったからなあ。ともちんだけでなく、まっつのことも。
そして今さらながらに、宙組の偏ったラインアップをうらめしく思う(笑)。
や、わたしの思考回路はこうです。
ともちん、辞めるにしたってなんで『風と共に去りぬ』なの、植爺一本モノでショーなしとかつらすぎる→次の公演まで卒業するの待ってよ→げ、次も『ベルばら』、植爺一本モノだ→退団者に優しい公演が1年間ないのが宙組の現実!!
……アタマ悪いから、気づいてなかったの。植爺一本モノ連続はひどい、と憤るのは作品への嫌悪と生徒の出番のなさについてであって、退団者のことまでは考えが至ってなかった。
卒業を考える生徒さん、覚悟するファンが、「この作品なら……」と思える公演が、1年間ナイってどんだけ……。
みーちゃんサヨナラショー状態になっている『Mr. Swing!』の後半を観ながら、「ショー付き公演なら、ともちんだって1場面もらうことはできたろうに」と、切なかった。
ゆみこやすずみんは1場面どころでなくサヨナラ色の強い作品で卒業したし、番手付きスターに限らず、ポジションや学年に従ってなにかしら餞場面や扱いをされるのが、最近の常。
タカラヅカが新陳代謝を繰り返す劇団であるからには、「卒業」は最大のイベントである。そしてこのイベントという観点での舞台演出は、退団者とそのファンにだけ意味があるわけじゃない。彼らにとってそれが特別なのは言うまでもないが、退団しない生徒と退団者のガチなファン以外にも、特別なものだ。
「見送る」人々を眺めるのも、「タカラヅカ」なんだ。
タカラヅカが特別な場所である証。巣立っていく者と、そこに残り、見送る者、どちらも愛情にあふれ誠意を尽くし舞台を作り上げる。餞演出のされたショー場面では、とくにその「出会いと別れをくり返すタカラヅカの美しさ」を味わえる。人生の縮図のように。
そーゆー意味で、ショー作品が1年間存在しないラインアップは、組子たちの人生設計にも関わってくるんだろうなあと思ってみたり。
……ショー作品でなら、ともちんもポジションと学年に相応しく送り出してもらえたろうになあ。「サヨナラショー」の有無ではなく、公演本編の話ね。
タカラヅカ100年についても考えた。
いやその、花組公演を観ながら。
わたしがヅカヲタになったのなんて、100年の歴史の4分の1にも満たない。自分のヅカヲタ人生を振り返り、タカラヅカのすごさを改めて思う。
わたしは生で観劇できる立地に生まれ育ったため、映像にほぼ興味なく来たけれど、出会ったヅカファンの多くは当たり前に「映像で見た」と言う。それこそ、自分の生まれる前の公演すら、スターすら、自然に受け入れている。
大昔はともかく、公演ビデオが発売される時代よりあとのタカラヅカは、それが何年前であっても消えることなく生き続けるんだろう。映像の残っていない時代のスターさんをdisる意味ではなくて、単純に今「見る」ことが出来るかどうかの話。
ヅカヲタは過去時代の映像もふつーに見るもんなあ。「出会う」よなあ。だって過去映像の中に、現在のスターさんたちがいるんだもの。群舞の中だったり、ほんのちょい役だったり。
それが「続く」ということ。
それが、「タカラヅカ」のすごさ。
過去は現在に続き、未来へつながる。
なんでそんな思考になったかというと、今観ている花組公演、これもまたいずれ「過去」になり、10年20年後にヅカヲタになった娘さんが「友だちから借りたメディアで、蘭寿とむさんを見た。めちゃくちゃ素敵だった。20年早く生まれたかった!」とか言うんだろうなー、いや、そんな未来でなくてもほんの3年後に「春風さんの最後の銀橋の歌、生で聴きたかった!」と拳を握る新規ファンの娘さんが現れたりするんだろなー、って思ったんだ。
ともちんのことだって、きっときっと、これから未来のいろんな人が「悠未ひろかっこいい」って言うんだ。
だって、それが「タカラヅカ」だから。100年続いてきた世界だから。
卒業しても、その功績が消えるわけじゃない。消えてたら、ヅカは100年続いてない。
タカラヅカってすごいな。100年は伊達じゃないな。
……そんなこと考えて泣いてたら、ひどい頭痛に襲われてね……。
功績が消えるわけじゃないけど、新しい悠未ひろを見られることがなくなるのが、寂しくてならない。
コメント