『愛と革命の詩』で描かれている「愛」のトホホさに、作者の関心の所在を思う。

 シェニエさん@らんとむは、ちっともマッダレーナ@蘭ちゃんを愛しているように見えない。演じているらんとむの力で、愛が見えるだけで、脚本と演出からは、愛が見えない。
 詩のネタとして重宝している、だけに見える。

 恋敵ポジションのジェラール@みりおくんの愛の描き方も、こりゃまた大変!なくらい、薄い。
 マッダレーナを愛していた、というが、なんで愛していたのか、ほんとに愛しているのか、よくわかんない。

 革命前の舞踏会で「♪美しい人」と歌っていただけなんだもん。
 ただの憧れ以上のモノが見えない。わたしには。

 だからマッダレーナがシェニエと恋人同士だと聞くなり「許せない」と言い出すことが、わからない。
 え、なんでそこでキレるの??
 手の届かなかった愛する人が、自分の敵とデキあがっていた、ってことで、二重の意味で「俺への嫌がらせ?!」と受け取った?

 ジェラールさんも、シェニエさんと同じなの。
 そこまでマッダレーナを愛していたというなら、なんで彼女がいないところで、彼女のことを思い出さないの?

 この男たち、目の前に現れるまでマッダレーナのことを、忘れてるのよ。
 それで「愛してる」っていうのよ。

 取られたらくやしいおもちゃみたいに。
 なければないで、人生なんの問題もないけど、目の前にあると「それは俺のだ!」と思う。

 ジェラールさんなんて、マッダレーナを不幸に陥れた側の人間でしょ? 暴徒の先頭に立って、コワニー家を襲撃したのよね?
 マッダレーナを愛しているなら、その時点でなんらかの反応があると思うんだけどなー。マッダレーナだけは逃がそうとするとか、反対に彼女を力尽くで奪おうとするとか。
 忘れていたとしか思えない行動を取っておいて、「実は愛していた」と言われても。

 マッダレーナがシェニエさんを愛しているのだけはわかるけど。
 わかる、というだけだしなあ。
 押しつけたり泣き叫んだり、自分を愛している男を利用したりと、なんとも痛い愛の使い方で、もう少しなんとかならんかったのかと思う。

 これらのことから痛切に感じるのは、作者は「愛」に関心ないよね?ってこと。

 「愛」を描こうとはまったく思ってない。
 描きたいのは革命と……そして、「クリエイター」の高尚な心。

 景子先生の作品は、いつも「クリエイター」が主人公。業種は様々だけど、なにかしら「創作する」ことをなりわいとしている。
 産みの苦しみとか葛藤とか世間の軋轢とか、そーゆーことがテーマ。
 クリエイターである景子せんせ自身が、それをいちばん気にしているからだろう。
 自分が心から関心のあることだから、なにを描いてもどんな職業のどんなキャラをどんな物語を書いても、大なり小なりテーマがそれになる。

 それはそれでいい。
 クリエイターの持つ悩みだって、わたしたち世間一般の人間の悩みにリンクする。それらを乗り越えて成長する、成功することに感情移入できる。
 そこに「人生」を重ね合わせることが出来る。
 成功例は『クラシコ・イタリアーノ』かな。恋愛部分はおまけでしかなく、全編全力を挙げて「創作とは」「クリエイターとは」を描いた作品。

 つまずき、悩み葛藤し、それを超えて成長する、答えを得る主人公の物語は、それがクリエイターであるなしに関わらず、観客の共感を呼ぶ。
 だから、いつも同じ人……作者である景子タン……が主人公の物語を書き続けていても、ぜんぜんOKだと思う。

 しかし今回の作品は、どうなんだろ。
 「愛」を描くことを放棄してまで描いた「創作」部分は、正しく作用しているのか?

 主人公は「高潔な詩人」であり、最初から出来上がっていて、迷いもつまずきも、成長もしない。
 素晴らしい詩人、彼の言葉で民衆が勇気を得るとか、「普遍の真理を謳った言葉」とか、台詞でだけ持ち上げられているけれど、実際どんだけすごいのかは作中で披露されない。

 『Paradise Prince』のときの「300万ドルの絵」の失敗を踏まえ、「空前絶後に素晴らしいモノ」は「実際に出さず、想像させるだけ」にしたためだとは思う。
 だから、作中でシェニエさんは「素晴らしい詩人」と語られるだけで、彼の詩は披露されない。
 ホロメス、イリアス、オデュッセイア、と既存の「偉大なる詩」の「名前」を挙げることで、「それと同じくらい素晴らしい」と印象操作するのみ。

 しかしなんとも、弱い。
 台詞でだけ「偉大」と持ち上げられても、実態が見えないのはつらいなあ。

 と、シェニエさんの「創作」部分も説得力に欠ける。

 大体、この「印象操作」だけにしたって、実際にシェニエさんの詩に感銘を受けた、というのが、「恋愛」のマッダレーナだけなんだもんよー。

 民衆が「もうダメだ、光が見えない」と膝を折っているところに、「シェニエの詩だ」と歌ウマさんが雑誌を手にその詩を読み、歌い、民衆が立ち上がって大合唱になる、……とかもないし。

 「愛」に興味のない人が、無理矢理薄い「恋愛モノ」を描いて、関心のある「クリエイターの心」部分はドラマがない。
 あるのは「クリエイターすごい」「クリエイターの素晴らしい仕事で、人々が救われた」という「言葉」だけ。

 えーと。
 恋愛描くなら、ちゃんと描こうよ。
 描く気がないなら別にそれでもいいから、クリエイター万歳!をもっとちゃんと描こうよ。
 クリエイターの素晴らしさを誉めるだけじゃなくてさー。


 わたし、景子タンの「クリエイターもの」好きなんだけどな。
 「それしか書けない」上等、得意分野を、手を変え品を変え描き続けてくれてよし!
 でも、もっと誠実なものが見たいっす。

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