トド様を好きになることから、わたしのヅカヲタ人生ははじまった。

 子どもの頃からタカラヅカは知っていたし、実際観劇していたけれど、特別興味はなかった。わたしが好きなのは「物語」、タカラヅカを観るのは、タカラヅカがお芝居をやっているから。
 「物語」を観られるなら、タカラヅカでなくてもいい、なんでもいい。他の劇団でも映画でもマンガでも。その程度。

 それが、うっかりとトド様の美貌にすこーんとオチて。

 「個人」を好きになると、「タカラヅカ」はまったく別モノになった。

 相変わらず「物語」は好きだけど、「物語」さえ観られるならいい、なんてとこに留まらない。
 それとは別に、トド様がどうしているか、ナニをどう演じているか、そんな複合的な楽しみ方が出来るようになった。

 トド様を「個人」だと認識するってことは、すなわち、他のジェンヌさんたちも、「個人」だと気がついたってことだ。
 それぞれ「顔」があり、「個性」がある。
 そこに在るのは小説やマンガじゃない、「生きた人間」だ。
 同じ物語であっても、演じる人によって変わるし、同じ人でもその日のコンディションによって変化する。
 わたしの大好きな「物語」が、一気に多層構造になった。

 ひとりずつの顔が見えるようになると、ひとりずつの変化がわかる。
 なにひとつ同じモノはない、「生きた」物語が、そこにある。
 そう、演じているタカラジェンヌたちもが、一篇の物語なんだ。舞台の上で年を取り、成長していく。

 「物語」好きとして、こんなに心躍る世界があるだろうか。


 トド様の物語は、まだ続いている。
 わたしが最初にトド様と出会った頃と、今はあまりに別人(笑)。
 その「変化」こそが、彼の「物語」。

 これだけ長い間、「物語」を見せてくれるとは、思ってなかった。
 「続ける」ことは、それだけでものすげー困難なことだ。
 彼は変わり続け、大人になり、その大人になった姿でさらに「新しいモノ」を見せてくれる。

 どんだけ変わり続けても、彼は変わらずに「ここ」にいる。
 ここに留まってくれているから、どんだけ変化しても成長しても、「変わらないモノ」として、彼を見るとほっとする。

 タカラジェンヌの物語は短い。
 長編だと思って読み出したのに、伏線回収もなく、2巻でいきなりENDマーク出ちゃったりするからな。先が読めない。

 ちなみに、トド様の次にマジ贔屓様となったケロちゃんは、何巻にも亘る「長編」だと思って「次に本屋に行ったときに買おう」とのんびり考えてた。新刊を発売日に息せき切って買いに行かなくても、前回と今回、2巻まとめて買えばいいや~~、くらいのキモチだった。
 それが、思っていたよりぜんぜん早く最終刊が出て、ひっくり返った。しかもそれが、なんか打ち切りっぽい終わり方だったりしたもんで、後悔しきりだった。

 で、現在のご贔屓まっつは、どっちかってーと「短編」だと思っていた。いつ連載が終わるかわかんないから、単行本の発売を待ったりせず、雑誌を毎回買ってアンケートの「面白かった作品」に番号書いてハガキを出し続けた。
 地味だし、いつも雑誌の微妙な位置に載ってるし、そのうち打ち切りになるんだろろうな、的な。
 それがなんか、気がついたらずーーっと続いていて。地味でも微妙でも、当時雑誌の巻頭やらカラーやらで華々しかった作品の連載が終了しても、マイペースに続いていて。
 長っ。
 こんなに長編になるとは、本人含め、誰も思ってなかったよね? 最初の方の巻と、絵柄もストーリーも変わってるし。つか、忘れられた伏線とか、なかったことになってる設定とか、いろいろあるよね?
 ……てな、そんな「思わぬ長編」。
 や、どんどん長くなってよし、どんなカタチでもよし、思い存分物語を作ってくれ。


 舞台上の物語、芝居だけでなく。
 ジェンヌ自身の「物語」を楽しめるようになってこそ、「タカラヅカ」の醍醐味。

 生のジェンヌは知りようがないので、あくまでも、こうして外側から眺めているだけだけど。
 それでも、わたしが見ることの出来る範囲の、彼らの「生き方」に、ドラマを、魅力を感じる。
 「タカラヅカ」は、タカラジェンヌは、なによりも魅力的な物語。

 いずれ来る別れに、毎回泣くけれど。
 好きな分だけ、つらいこともいっぱいあるけど。

 トド様を好きにならなかったら、はじまってなかったんだなあと思う。
 なんか、不思議だ。
 よくあそこで、すこーんとトド様にはまって、ヅカヲタとして開眼したよな、わたし。

 出会えて良かったと思う。
 心から。


 年寄りなので、やたら過去を振り返るのだ。

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